その子供たちは、板に刻まれた約束を守っている
ルールを守ることで、永遠に子供たちだけで航海してる帆船を書いてみました。大人たちの塵芥とは無縁のピュアな存在をイメージして、少し甘く仕上げた気がします。
そんな味わいを感じていただけたら幸いです。
航海に使っている海は、地中海まで広くはない。だから、バルト海かアドリア海あたりだろう。デッキからそのまま飛び込もうと思えば、いつでもザブンといけそうな気にさせるからアドリア海の方がしっくりくる。
なにしろ、船を預かってるのは子供たちだ。外海の込み入った事情や情勢をしらないから、そんな荒くれが跋扈している海では、どうしたって太刀打ちできない。此処なら海ばかりでなく周辺地の絶妙な「大人の事情」のバランスに乗っていられる、そうした船なのだ。
そんなこと百も承知だから周辺地の船主たちは手を出さない。が、しゃぶった食わえ指を離したくなくなる嫉妬はいつも腹に抱えている。
遠目からでもひと目その船を見てしまうと、もういけない。鼻から下を隠すように伸ばした髭で体裁を整えたって、もの欲しそうに、あのたっぷりの船体に詰まった一部始終に目移りしちゃってる人差し指が唾液でびしょびしょに濡れてしまうのは、もう隠せやしない。
ほうら、他の船と違って、甲板から竜骨に向かって萎み始めた両舷が、ビヤ樽みたいにポッコリ。洋梨おデブちゃんみたいに膨らんで、一船丸ごと底上げしたみたいに浮かんでる姿が見えている。あそこに、大人の船主じゃ積み込めない、胡椒や絹肌仕立てのティーカップと一緒にコーリャンでつくった密造酒がたんまり詰まっているのだ。
それでも、大人だから、事情や情勢の絶妙なバランスが崩れたしまったときの先がようく見えているから、手出しなんてやれっこない。こうしてシャぶってる指を少しでも外面にはみ出さないようにと、髭をたくさん伸ばしていくより仕方ない。
子供たちは周囲のそんなこんなは知らないまま航海を続けていく。四六時中かぜを受ける帆とそれを支える綱を気にしてなくちゃ、すぐにウンともスンとも言うことを聞いてくれなくなるからだ。いままでに一度もそうした事態に至らかなかったのは、皆んなが皆んな、この船で働く二百人のみんながみんな、板に刻まれたている約束を一つとして破らず守ってきたからだ。
毎日、何度も子供たち各々の腹の中で復唱される。そのくせ、ひとりとして見たもののいない「約束の板」。それが乗組員たちの竜骨だ。
「ほどけた綱は、見つけたた者が替えること」
大きさの違う十本のマストには、形の違う帆が十枚はられ、たくさんの方角から操作できるようそれぞれに十本の綱で結わえられている。子供の手でも操れるようにと、たくさんの数が配慮されているのだ。だから、一本の綱でも見過ごすと、もう子供の手ではどうしようもない事態を招いてしまう。
でも、大丈夫。どんなに高いマストでも、子供だから、みんなが目がいいから、みんな身軽だから、見かけたら隣にある予備の綱を抜いて、ヒョイヒョイと付け替えてしまう。
だから、予備の綱は、甲板のどこを歩いていてもダッシュすればすぐに届くフックに吊り下げられている。
ダッシュして二秒。新しい綱を手にした仲間を見かけたら、すぐに彼は予備の綱を補充に、船底にある補充庫へ取りに行く。
「予備の綱は、使ったあとに必ず補うこと」
それも徹底している。むしろ、船底へのダッシュは、解けた綱を結わえ直している子よりも早いかもしれない。各々が復唱している約束の中で、この約束だけは齢をとるごとにだんだんと膨らんでいく。船底へ向かうダッシュのスタートは競争だ。それも、きまって年長の男の子たち、来年あたり、この船を降りなければならない年齢の。
「子どもではなくなった乗組員は、下船しなければならない」
船倉に向かうハッチまでで遅れをとっていたら、そこで競争は終了。「あーぁ」の悔しそうなため息が聞こえると、側にいる似た年頃の女の子から、フッとか、チッとかの舌打ちが出てくる。でも、どちらも、声を発するまでは、その子が男の子か女の子なのか、その様子からは判らない。
いまが、夜陰のせいばかりではない。甲板の仕事をしていれば、全身真っ黒に日焼けするし、バンダナで結んだ髪の毛の重さだって形だって一緒だから、見てくれでそのどちらか判別するのは難しい。だって、此処は子供の船。男の子と女の子を判別する必要性なんて無いのだもの。それでも、彼らの中の時計じかけは回っている。回転する歯車は、まだ見えていない姿を内包しながらトグロを巻いている。
補充庫のドアを開けると、中にはロウソクの灯りが一本と、フックに一束づつ掛けられた綱が、ドアから腕だけ差し込んでも取れるようにと整頓されている。けれど、中に入らずに帰ってしまうような男の子は、一人もいない。
「綱を貰いに来たんだけど」
この男の子は、なんのひねりもない。
「こんばんわ、綱を貰いに来たんだけど、どれを持っていけばいいのかな。船尾にあるマストの一番小さな帆を結わえていた、一番に細い綱なんだけど」
これくらいひねらないと奥からあの娘はやって来てはくれないかもしれない。このときを考えて皆んないろいろ工夫する。けれども、補充庫を開けてきた男の子のすべてを覗いてみれば分かることだが、その娘は、どんなお客に対しても同じように対応してくれる。綱を貰いに来た子の前までやってきて、モジモジや口下手や正確なオーダーの出来ない子であっても、三十種類のフックに掛けた綱の中から即座に選んで手渡ししてくれる。
運が良ければ、その綱が、彼女の作業場のすぐそばのフックに掛かった綱だったら、その娘が握ってこちらに渡してくれるまでに30フィートあるなら、手渡したあとでも綱にその娘の手の温もりが残っていて、帰る道のハッチを開けるまでの間、ずっと感じ取っていられるかもしれない。
「ごくろうさま」
残念なことに、綱は入口の一番手前にある一番の太綱で、彼女の温もりはジュートで編んだ繊維の表面をなぞるだけで終わってしまった。
「ずっと、こんな船の底に一人だけでいて、さみしくはないの」
振り向いて作業の持ち場に帰る彼女の背中に、足を止まらせたい気持ちが、そのまま口に出てしまった。不器用なひねりばかり聞かされていたその娘は、真心の一番近くから発せられた男の子の言葉に困ったような微笑みを浮かばせながら、それでもそれだけで終始せず、ちゃんと正面を向いて応えた。
「全然。だって、わたし、選んで此処に居るんだもの。綱を編んで作っていくのが私の仕事、この船にとって最も大切な仕事」
白いフリル地のドレスに「乗組員」たちの金髪碧眼とは違うソバージュを波打たせた黒髪と満月に映る水面そのもののような大きく黒い瞳。その娘のすべてが、正面から応えてくれる。
あんなにも華奢な白い掌が毎日毎晩こんな硬いジュートを編み込むんでいるなんて。「そんなの作り話さ」と信じていなかったが、これ以上、何を望むというのだ。男の子は、自分の頭で考えられる頂点の悦びに満たされながら、甲板に上がった。
その夜、その男の子は寝ずの番だった。ほかの五十人と一緒に甲板を練り歩く。船は、穏やかな海に帆を半分だけたるませて、進んでいる。ゆっくりの風を楽しむような寝ずの番は、午の逢瀬を咀嚼するにはうってつけだ。月は早めに隠れてしまい、夜にとどまっているのが星明りばかりなのは丁度いい。炙りだしたものは炙られて、隠しておきたいものは隠してくれる。
スル スル スルー
大綱が緩む音がする。彼はまだ気づいていない。
グル グル グルー
緩んだ大綱に呼応するように、柔らかな丘陵のカーブを描いていた帆は、断崖の大岩のようなエッジをみせて、急に吹いてきた横風いっぱいを受け取とりにいく。
揺れている。船が揺れだした。洋梨おデブちゃんが身震いし、大きなお腹を傾かせたら、何人かかろうがもう子どもの掌には負えない。あとは、船が、ゴォーの悲鳴をあげるだけ・・・・・
と、その前に、船が揺れるその前に、寝ずの番してる仲間たちの気付くその前に、黒マントの男が、ほどける前の綱を引き止め、帆を丘陵のカーブにしたまま、「あー、ぁー」の声を出しそうになってる男の子に、子どもの掌で操れるまで大人しくなった綱に握らせた。
「おじさん、・・・・・・ありがとう」
何が起こり、何が起こらずに済んだのか。事件が巻き戻されたことも含めて、一部始終を見ていた男の子は、一番下の年少さんみたいな声で礼を言うのが精一杯だった。
あとは、ダッシュした女の子が、フックから持ってきた新しい綱の結わえ直しに掛かっている。それを見ていた3人の男の子は先を争い、ハッチまでダッシュしている。すでに、昼と同じ日常が繋がった。
結わえ直しが終わり、綱の重みしか残っていない古い綱を握りしめながら、男の子は先ほどから何度も復唱している言葉から抜け出せずにいる。
「寝ずの番を怠けた乗組員は、厳罰とする」
もう、お終いだ。取り返しのつかないことを仕出かしてしまったのだ。今まで誰も犯さなかった過ちをしてしまったのだ。
「そんな、がっかりした顔なんか、するなよ」
既にあきらめきった顔になった男の子の肩を、おじさんはやさしくこすってやる。しばらくはこうしてあげた。それでも、男の子の震える身体と固まった顔が治らないから、いっそ、彼らの信じている「板に刻まれた約束」の本当の話をしようかまで考えていた。
けれど、それはよそう。話して楽になるのは彼ではなく私の方なのだから。
「厳罰って何だい。誰がそんなものをあげるんだい。君たちに罰をあげることのできる人間なんて、この船には、一人として乗ってやしないだろう」
そういって、おじさんは、マントごと海に飛び込んだ。ザブーンの音のしない、キールが波を削るよりも静かな波しぶきが一つだけ立った。
男の子は、デッキから右舷のその辺りを見ようとした。「わたしが消えてしまえば、きれいさっぱり洗い流せるだろう」といっている顔が浮かんでくる気がした。しかし、静かなしぶきのほかは何も起こらなかった。
困ったときにやってきてくれるおじさんは、いなくなった。波間から船に向かって振り返ってくれる気がしたのに、もう何もかえってはこない。
おじさんが、「のような気がする」かすかなものに変わっていくと、彼はやっぱり、子供だから、この船の乗組員だから、「おじさんって誰だったんだろう、大人がなんで子供だけの船に乗っていたんだろう」と連なっていく。
船底で見つけたあの娘のことだって、たったいま夜の海から抜け出たみたいに濡れた真っ黒い髪と瞳のあの麗しい姿形だって、頭の中で描いた遠い国のお話のように、だんだんと平坦になっていく。
朝焼けが始まった。海に浮かんでいるわたしは、おデブさんの船を見ながら、「約束の板」の話をしなくて本当に良かったと思っている。話してしまったら、あの子は本当に船を降りなければいけない。もう「子供ではなくなった乗組員は、下船しなければならない」から。けれど、朝が始まれば、毎日の朝が始まれば、昨日と同じ一日が始まる。子供たちだけの船は、昨日と同じ一日を、きっちり約束を守って疾っていく。
船主たちの港の散歩が始まった。デッキからこちらを見ている髭顔の面々には、どんなに指をしゃぶろうが、遠すぎて見えないだろう。が、ここからならはっきりと見える、読める。右舷の、おデブちゃんのウエストのような窪みに、順々に一列に刻まれている約束の数々が。
この船をつくったあと、もうこの船には乗れなくなった私が、自ら掘ったいたずら書きのような「約束」と久しぶりに対面した。
陳腐な内容である。辟易する気持ちが湧き出し、気恥ずかしい。それなのに、その一文字一文字が、断崖のように立っている。
こうして海中に浮かぶ身となっては、約束を刻んだその存在を一度として見ていなくても腹に納め復唱し続けるあの子たちに代わり、声を出して読まずにいられない、ただその気持ちだけで一杯だった。