左目のテラァ
「先生。具合が悪いので保健室に行ってもいいですか?」
後ろから声がしたので、幸助はチョークをもったまま手を止めた。振り返らなくてもわかる。まただ。
周りの生徒に気づかれないように、ため息を吐くと幸助は声の主を見た。
窓側の一番後ろの席の七井が右手をあげている。左半分の顔をもう片方の手で覆い隠し、訴えかけるような眼差しを幸助に向ける。
うんざりだ。
幸助はそう思ったが邪険にはできない。
「行きなさい」
七井が無言なのも毎度のことだ。
彼が教室から出て行くのを見届けることなく授業を再開した。
教師といえど人間である。表に出さないだけで苦手な生徒だっている。幸助にとっては七井がそうであった。
他の教師に聞けば彼に対する評判は悪くない。挨拶もするし授業も積極的に受けているという。
それならば何故、自分の授業の時だけ退室するのか。それは授業がつまらないという意思表示なのではないか。そう幸助は思っていた。
そして、ますます七井という生徒に対する印象は悪くなっていく。
廊下ですれ違うだけ。全校集会で見かけるだけ。もうそれだけでも不快でたまらなかった。
それからも、七井が授業の最中に保健室に行くことは続いていた。
幸助は自分の授業内容に絶対の自信があった。七井以外の生徒からは慕われていたからだ。
わかりやすい授業。
そんな評価を生徒、保護者、教頭からも受けていた。非があるとは思えなかった。
七井が退室することが日常化していくにつれ、苛立ちばかりがふくれていく。幸助に彼を心配する気持ちなど生まれようがなかった。
具合が悪いという発言は、幸助に対する嫌がらせとしか思えなかった。
更に気に食わないことは七井の成績が常に上位にあったことだ。もちろん、幸助のテストも平均点よりはるかに上をキープしていた。それは、授業に参加していなくても点数はとれるのだと嘲笑っているように思えた。
ある日、授業中に七井がいつものように具合が悪いと発言した。もう残り十分もないタイミングだった。
幸助は苛立ちを隠して七井を見た。彼はいつものように顔の左半分だけ手で覆い、いつものように訴えかけるような眼差しを向けている。
いつものように、いつものように、いつものように!
幸助は頭の中でそう怒鳴る。
「七井。今から説明する箇所はテストにも出る重要なところだ。それでも、我慢できないのか?」
「はい。保健室に行ってもいいですか?」
「どうしてもなんだな?」
「はい」
「…。わかった。後で話がある。具合が良くなったら職員室に来なさい」
幸助の言葉に答えないまま、七井は教室を出ていく。もう我慢の限界だった。
どうしてやろうか。
そんなことばかりに考えを張り巡らす。
放課後、七井は何食わぬ顔で幸助のもとにやってきた。自分がどうして呼ばれたのかわからない。そんな様子に幸助の口の端がひきつる。なんとか気持ちを抑えて七井に問いかける。
「おれの授業はそんなにつまらないか?」
「いいえ。何故ですか?」
「具合が悪くなるのは、いつもおれの授業の時だけじゃないか。何が気に食わないんだ?」
「何も。普通の授業です」
普通。その単語を幸助は嫌っていた。好きでも嫌いでもない。どうでもいいと言われているようなものだ。
それを気に入らない生徒に言われたのだ。七井の襟首を掴み投げ飛ばしたい。そんな衝動に駆られる。
「先生。具合が悪いので帰っていいですか?」
七井はいつものように言う。少し違うのは、苦しんでいるところだろうか。しかし、怒りで心に余裕のない幸助は気づかない。
「まだ話の途中だろう。こちらをちゃんと見なさい」
職員室は彼らだけの居場所ではない。別の作業をしていても気になるのだろう。数名の教師が様子をうかがっている。
今の幸助には七井のことしか頭になかった。
人の話を最後まで聞かずに逃げるのは許さない。うつむいて身体をよじる七井の肩を掴む。
そして、無理矢理、幸助自身へと身体ごと向ける。息を荒くしていた幸助の口から小さな悲鳴が漏れる。
「先生。だから、言ったじゃないですか。帰っていいですか、と」
七井の左目は空洞のようにポッカリとあいている。その中で小さな手のようなものがうねっている。
「七、井…」
「西山という名前の先生がいたのを覚えていますか?」
「西山?」
うねるソレらから視線を逸らせずに幸助は記憶を辿る。
「あの時は、具合が悪くなると口からテラァが現れていたんです」
「何だ、テラァとは」
七井が左目の中でうねるソレらを指差す。質問の答えにはなっていない。結局は正体がわからないのだから。しかし、幸助は当たり前のように受け入れた。
これがテラァか。うねりながら数を増やしていくこれが。
「テラァは貪欲で気に入ったものは自分のものにしたがるんです。本当に困ったものです」
困った様子など見せずに七井は淡々と話す。
西山。彼も教師だった。
誰からも好かれている男だった。それを幸助は、面白くないと思っていた。そして彼は今どこに?幸助の記憶にモヤがかかる。
「テラァが食べちゃったんです。存在まるごと。困りますよね。最初はこの身体をまるごと食べました。それから西山先生。次は貴方だ。これでも欲を抑えてきたんですけどね」
七井は薄く笑った。いや、七井を食べたというテラァという存在が笑ったのかもしれない。
小さな幾つものうねる小さな手。
ソレらが幸助のもとにゆっくりと、しかし着実に伸びていく。
それを幸助も七井も止めることなく、ただ眺めていた。
【完】
【あとがきという名の反省会】
作者:この作品は別のサイトで載せていたものを加筆修正したものです。
そのサイトは数年前に退会しています。
掃除中の部屋からメモを発見したので載せてみました。
テラァ:それで結局テラァって何なの?
作者:幸助にはモデルがいます。
中学時代の体育教師です。他の生徒からは好かれていたようでしたが、自分は苦手でした。
向こうもそうだったのではないかな、と思っています。
テラァ:うん。だから、テラァって何モノなの?
作者:(チッ/舌打ち)
テラァ:その反応…。ずばり考えていなかったでしょう?
作者:はい、申し訳ございません。
カタツムリに寄生する生き物がいるのですが、最初はそういった存在にしようと思っていました。
寄生体として描こうとして失敗したモノがテラァです。
テラァ:失敗なのか…。じゃあさ、今回載せる時にしっかりと考えて土台を作ってからでも良かったよね?
作者:はい。
しかし、テラァはテラァだと思ったのです。人間は人間。宇宙人は宇宙人。妖怪は妖怪。怨霊は怨霊。そう!テラァはテラァとしか表せないのです。
テラァ:一人で納得しちゃった。無責任だな。
まあ、食べさせてくれるなら何でもいいけど。
作者:!?テラァは頭の良い人を好みます!周りから好かれている人を好むのです!なので、自分は論外です!
テラァ:(うねる無数の小さな手が左目から伸びていく)
作者:聞いていますか?!
テラァ:作中ではそんな説明なかったよ。
いただきます。
作者:ギャーッ!
【最後まで読んでいただきありがとうございます。失礼いたしました。】