蝿の女王
目玉がとろけるぐらい涙したところでUは目が覚めた。
ブヨブヨの蝿。
夢の中の蝿の質感が今も生々しい。
またあの夢を見たのだった。
神経衰弱だろうか。このところ引っ切り無しに見る夢は悪夢だった。
姉の夢だ。
繰り返し繰り返し同じ夢を見る。
あろうことか姉を殺す夢を見るのだった。その夢は口論から始まる。なにごとかは知らねど、Uは姉に対して憤る。ちなみにパントマイムさながら、夢は声を伴わない。水中の出来事や無声映画のように音は掻き消された夢。故にいきさつは分からない。
ともあれUがひどく猛り、怒りにまかせて姉の首に手をかける。いなや、あっけなく姉は絶命して崩れ落ちる。死した姉の肌にびっしり群がるのは蝿の雲霞。嶮しい、黒い黒い毛を尖らせた、しかも光沢を塗りたくったゴムに似た蝿。かれらが千も二千もたかるのだった。
―だが実際にはもちろん姉は死んではいない。今もUにベーコンエッグを拵えてくれている。開け放ったドア越し、ベッドルームよりダイニング・キッチンが見えた。姉の元気に立ち動く姿が。長い髪に爽やかな朝日を絡ませる姿が。所詮は夢の話。
父も母も他界したUにとって姉は保護者も同然だったし、ありていに言うなら可成にシスコンの気味が弟のUにはあった。それを鑑みるとエディプス・コンプレックスを反映した夢であるのかもしれない。
姉も働いているし、Uも目下、義務教育中の身だった。朝は忙しい。ベーコンエッグとブレッドを胃の腑へ押し込むとめいめい仕事と学校とに向かった。通学路では、Uの頭から既に夢のことは抜け落ちている。
まあエディプスの悲劇的悪夢やら姉に心酔していることを除けばUの日常は凡庸であった―、眼球をひたすらに動かし、教科書の文字を追うことにやみくもに勤しむ。
時が矢のごとくスピーディに流れる―、平々凡々にテキトウに学びテキトウに遊ぶ―、のであった。
一方、そんなUとはことなり、姉には特別な才能があった。その天賦の才でもって生計を得ていた。
占術。
果実を用い、それをテーブルの上で真っぷたつにカットし断面を読む。
不可思議な方法だが不気味なくらいマザマザとよく当たる占いだった。
果実は何でも良かった。オレンジでも柘榴でも。とにかくサックリ切り開き、あたかも絵葉書を眺めるようにである、しげしげ美しい目で見遣る。すると姉の中に霊感が閃く。
例えばだけれども、姉は父母の死期も死因も言い当てていた。
Uが十歳で、姉が十八の春であった。
姉はレモネードを拵えようとしてレモンを断ち割ると、しばし絶句し目を瞬かせた。白皙のおもてにさあっと翳が走り、それから唾液をコクンと飲む。そうしてUに告げた。
「お父さんとお母さんが今日、死ぬ。道端で、車の事故でね。Uにだけ教えてあげる。お父さん達には言わないでね。可哀想だから。止めようもない運命だから」
ひそひそとした耳打ち。囁きは淋しげでもあり、悲しげでもあり、同時にガラスみたいに感情を欠いていた。Uには覗き得ない世界だが、あるいは占いというのは計算式のごとく解の確定した冷徹なものだろうか。姉は達観しているのだろうか。そうなのだろうか。
―その通りになった。
姉が隣家の娘さんは一週間後に死ぬと言えばそうなったし、十秒後に通りのカラスが爆ぜると言えば晴天だというのに不思議に落雷し運命の女神に狙い撃たれたように爆発して死んだ。
どうも入神の占術といえど不可抗の死を言い当てるのが関の山で、運命に対する免疫なり劔なりを付与してはくれないのだった。
姉いわく。
「流れに逆らおうとすれば運命の神さまを怒らせてしまって周囲に余波が及ぶわ。運命とはエネルギーの波動みたいなものね。回避しようとすればそのぶんの波及が全体を掻き乱すし、結局は反跳した増幅波によって絡めとられるの。お父さん、お母さんの死を避けようとしたってきっと無理だったわ。あの日、家に引きこもっていたってダンプカーか何かが塀を壊してリビングまで突っ込んできたでしょうね。Uも巻き添えになったかもしれない。ビルの百階にいても無理ね。不条理に、何故だか空輸していた軍用車か何かが落下してきて轢かれたと思う」
どうやら、そんなことのようだ。
時代が違えば姉は魔女と呼ばれたろう―、といおうか。真実、掛け値なく魔女であった。
魔女にも魔女のまわりにも時は經る。
姉は結婚適齢期になった。
しかし占術の力や父母の死が障壁なりトラウマになっているものか、ときどき交際相手は作るものの淡い交わりで深まりはせず。家庭を築く気はないようだった。
例えば子どもが出来てもその死を読み取る可能性がある。そうしたことを案じている節があった。
一方でUはやがて義務教育を卒業し、ハイ・スクールに入った。姉の負担を減らそうとUみずから就労の意思を切り出してみたけれど、姉はこう下した。
「姉さんは普通の男の人の何倍か稼いでいるから平気なのよ。生前のお父さんよりずっと稼いでいる。それにね、運命がそう言うの。Uは是非、進学しなさいって」
と。
赤い苺の断面に視線を投げながら歌うように宣託した。なにかガラスみたいな硬質な声で。
Uの夢魔の症状はまだ尾を引いていた。何年間もである。もはや気に留めるのはやめていたが、病的であるし不気味な夢であった。
何しろ歳月が肉付けした夢は相当にリアルな様相を帯びていて、姉の死相や、てのひらの下で彼女の頚動脈の拍動がとまる具合などまで詳らかになってきていた。
また蝿のブヨブヨがより肉薄していた。だが肝心の口論の内容はあいかわらず聞き取れない。無声映画のまんまだった。
さておいてUにガール・フレンドが出来た。
春霞のような少女だったから、Uは彼女を春霞と呼んだ。倣って、姉は弟の恋人をハルちゃんと呼ぶ。
Uが春霞を伴って自宅でくつろぐこともしばしばとなった。こうなれば、どうやらシスコンのほうも鳴りを潜めた。
日々は細やかに安泰に流れた。
―だが。夏の日のこと。
スイカを切っていたのである。赤いスイカ。大きなスイカであった。
Uと、春霞と、姉。睦まじく食卓を囲い、夏の味覚を楽しもうとしていた。団欒のひととき。
包丁を扱うのは姉だった。あろうことか姉だった。
包丁がスイカを切り開くと、ポタポタ血液のような果汁がしたたる。ついでまるで宝石や臓物にも似た断面が現れる。
あっと息を呑んだのは姉だ。あの日、父母を亡くした日にレモンを切ったのと同じ表情が浮かぶ。白い顔にさあっと紫の陰影が散る。Uは直観した。不吉なものが見えたのかもしれない。
春霞が帰宅したあと、姉はこう宣った。
「可哀想だけど、ハルちゃん、死ぬわ。そうして私もね。それからU。あなたは蝿になる。真っ黒い蝿に」
声が嗄れていた。ひび割れた声で呪いのごとき言葉を吐く。まさしく魔女だった。
Uは姉が狂ったのだろうと思った。いや。自分自身にそう言い聞かせた。姉が狂い予言が狂ったのだと。
「バカな。姉さん。春霞や姉さんが死ぬっていうのは自然法則に則っているのかもしれない。けど、僕が蝿になるって。そんなワケがない。姉さん、疲れているのさ。たまには占いも外れるよ。姉さんも春霞も死にやしない」
Uのほうこそ声が嗄れていた。Uこそ魔性めいた声を放っていた。ワナワナ震える舌の根。姉の占術の真価を最も感得しているのは誰でもないUだった。
「いいえ。死ぬわ。そうして。あなたは蝿になる」
「バカな」
逆上。赤く染まる視界。夢の通りだった。姉が魔女とすればUにだって魔性の血が流れている。考えてみれば、それこそ必然であり道理だった。Uの夢は姉の果実占いと同等に予言の力を秘めていたのやもしれない。
気付けば、揉み合ったすえにUは姉の首に手をかけていた。さらに気付けば縊り引き絞っていたのである。白い白い首を。
―蝉しぐれが五月蝿い。五月蝿い。うるさい。ウルサイ。ウルサイウルサイウルサイ。ウルサイという字はどうして五月の蝿と書くんだろう。
混乱した思考が無意味な言葉を羅列するさなか、姉の拍動はたなごころの内で、止む。
Uは白磁の肌をボウと見ていた。放心の中で。白い皮膚に重なるのは手前の手だ。それは褐色の手。黒ずむ手。
そうなのだった。次第次第にUの手が黒く染まりはじめた。しかも強い毛をそなえだした。びっしり、満々と。
そうして。ざあっと雨粒のごとくに。破裂したガラス瓶のごとくに。Uの全身はバラバラに砕けるのだった。そう。蝿の群れに変化したのである。
あとは言わずもがな。姉の肉体を啜り、穴だらけのバベルの塔へ変え、啖い、荒らし、蛆のマンションへと変改し、まるで一個の星の最後のように浪漫チックに破壊するのだった。蝿の群れは。
蛇足だが春霞はもちろん死んだ―、七十年後に。老衰。完全な自然死だった。
老女はよく蝿についての不思議な、とりとめのない話をするので、終の住処となった施設でこう呼ばれていた。
―蝿の女王、と。