第二百七十話 和樹と那海2
「那海~、一緒に帰らない?」
「ごめ~ん、今日バイトなんだよね」
「そっか、それじゃまた今度ねぇ」
掃除の時間も終わり、ようやく帰宅出来る時間になった那海は昇降口でクラスメイトと別れていた。
去っていく友人たちの姿を見送った那海は「はぁ」とため息が漏らし、背中を壁に預けた。
「………疲れた」
今日一日、和樹と交流したのは朝の一度きり。昼休みは流石にクラスメイトとの交流を図ることに徹した。和樹とのお喋りは重要であるが、それでクラスで浮いてしまったら元も子もない。人間関係はバランスが大切だし、その天秤の重さを間違えたら一気に崩壊してしまう。
そんなことばかりを考えているせいか、今日はなんだか疲れた。バイト行って帰ったらさっさと寝よう。
これからのスケジュールを軽く考えて昇降口を出ようとした瞬間。
「あっ、柚木さん」
「……登坂君」
「げっ」という声はどうにか我慢出来た。
どこからともなく現れたラブコメ主人公。どうやらお一人のようで、いつもなら背後に控える女子たちの姿は今日はなかった。
「柚木さん、今から帰り?」
「まぁ、これからバイトだけど」
「そっか……」
何となく始まる会話。だが、さっさとバイトに行きたい那海は怪訝な表情を浮かべる。
どうにかこの場を切り抜けようかと考える那海。だけど、どういう訳か頭がいつもよりうまく回らない。ぼー、として全く言葉が出て来ない。
「? どうかしたの」
「え、ううん……なんでもない」
ぼー(ぼうぜんとはあまりのことにぼんやりしているさま、つまり出来事に対するリアクションなので今回の使い方は不適切と思います)とする那海に登坂は顔を覗き込む。
どうしてこの人はこうも簡単に女子に顔を近づけられるのだろうかと場違いな疑問を思い浮かべる。
だが、普段のおちゃらけた態度をするには体力が足りない。
「柚木さん、もしかして……」
那海の態度に違和感を感じた登坂が何かに気づいたのか、口を開こうとした。
「おい、那海」
しかし、次の瞬間、彼らの近く。靴箱と扉の間からぶっきらぼうな声が響いた。那海と登坂は同時に声のした方を見やった。
その先には、和樹が不機嫌そうな顔をして立っていた。二人は、突然姿を見せた先輩に呆然となる。
そんな二人を他所に、和樹はずかずかと歩み出し那海の前まで来る。
いつになく真剣な顔に、那海は普段の対応が遅れた。
「な、なんですか? 先輩?」
自分に近づいてくる和樹に、そう訊ねる。だが、和樹は彼女の質問に答えずあと一歩というところまで距離を縮めると。
不意に、那海の腕を掴んだ。
「ほら、さっさと行くぞ」
「え……えぇっ!?」
突然、腕を掴まれた那海は戸惑うが和樹はそんな知らんとばかりに昇降口から外へ那海を連れ出していく。
「え、ちょ、柚木さん?」
背後では、事態のついて行けていない登坂の声がするが混乱している那海に答える余裕はなく和樹は無視を決め込んでいるのか足を止めることなく外へ出る。
この状況はなんだ。
ぼぅ、とする脳で那海は必死に考える。
何かの悪戯。そんな幼稚なことをする人ではない。
まさかの呼び出し。悪いイメージしか出て来ない。
表情から、怒っているようなでもそうでもないような。そんな風に見えるが、果たして彼が一体何に機嫌を悪くしているのか、那海には皆目見当もつかなかった。
「あ、あの、先輩……?」
おずおずと呼びかける那海。しかし、和樹から返事はなくただ淡々とした歩みを止めることはなかった。
掴まれた腕から伝わる力。もしも、それが手と手であったならば那海は大いに喜んだであろう。
だが、那海を引っ張る和樹の力はそんな甘いものではないことだけは分かった。
一体、どうかしたのか。そう訊ねたい那海であったが和樹の雰囲気に飲まれ聞き出すタイミングを失ってしまった。
__何かしてしまったか。
脳裏によぎった考えが那海を不安にさせる。心当たりは、ある。自分のアプローチがウザかったか、迷惑だったのだろう。
しかし、和樹はそんなことで本気で怒るような人間ではない。そう、思っている。
段々と自分の考えに自信がなくなってきた。
もしかしたら怒られるかもしれない。そうなったら甘んじて受けよう。だけど、嫌いにはならないでほしい。もしも、和樹から嫌われてしまったら、自分は生きていけない。
不安な気持ちはあっという間に那海の心を支配し、上がっていた顔は徐々に俯いていた。
顔を俯かして黙り込んでしまった那海を引っ張っていた和樹は唐突に、ポケットからスマホを取り出し誰かに電話する。
プルル、と数秒のコール音の後「もしもし?」と目的の人物からの声が返ってきた。
「あっ、絵里さん」
『あら、和樹君。どうかしたの?』
通話に出た絵里に和樹は軽く挨拶をすると、溜めることなく喋った。
「すみませんが、今日、那海の奴バイト休ませます」
「………え?」
その言葉に、那海は俯かせていた顔を上げキョトン、とした表情で和樹を眺めた。
『それは構わないけど………那海ちゃん、何かあったの?』
「体調不良です」
『そう、それなら仕方ないわね。お大事にって言っておいて」
「はい、伝えておきます。それじゃ、失礼します」
通話を切る和樹。その後ろでは、那海が口をパクパクとさせて何かを伝えてようとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください先輩。な、なにを勝手に」
「うっせぇ、お前が悪い。体調悪いなら学校休めってんだよ」
「私は元気ですよ! べ、別に具合なんて! ………っ!!?」
反論しようとする那海。しかし、次の瞬間、那海は言葉を発せなくなってしまった。
和樹の手が、那海の額に当てられていたから。
「な………なっ!?」
「ったく、自覚なしなのがなお悪い。えぇと、俺の平熱が36度くらいだから……37.8℃って所か。そこまで高くないし家帰って寝てりゃすぐ治るだろ。幸い、明日から休みだし」
そもそもおかしいと思っていたのだ、いくら走ったからと言ってあれほど呼吸が乱れるのが。あれだけ走ったのに汗を掻かないなんて。そして、これは今分かったことだが顔色も悪い。これを見て体調不良と誰が言えようか。
恐らく、環境が変わって精神的に疲れが溜まったのだろう。さらにはバイトまでしているのだ、きっといつか倒れていたかもしれない。
「ほら、さっさと歩け。んでもって、住所も教えろ」
「や、あの……」
それでも状況が飲み込めない那海は必死に和樹に呼びかける。だが、和樹は彼女の声に応えずただ淡々と彼女の手を引いて歩き続けるだけだった。
「あのぉ……先輩……」
「あぁもう、喋る元気あるなら体力回復させておけ」
「でも……」
「黙らないなら、無理やり黙らせるがいいか?」
「もう喋りません!」
和樹から放たれるプレッシャーを浴びて那海はこれ以上口を開けば、問答無用のアイアンクロウが来ると直感し、それ以降口を開くことはなかった。
☆☆☆☆☆☆
「……ここです」
「なるほど、確かにウチの方向だな」
那海の案内された建物は、そこそこ大きなマンションだった。
近くにはスーパーやコンビニもあり、街灯もあり明るい。オートロックなので女子が一人で住むにはピッタリな物件である。
那海の部屋は5階。エレベーターで上がり廊下を歩くとすぐにたどり着いた。
「先輩! ちょっと待ってくださいよ! 絶対に中覗いちゃダメですよ!」
部屋の前まで来て、那海は慌てて和樹に言う。
「なんだよ。見られたら困るもんでもあるのか?」
「そ、そういうわけじゃ……で、でも! ちょっと片付けますから!」
「病人が何を言ってやがる。ほら、さっさと開けろ」
「う、うぅ~」
しかし、乙女心というものを知らない和樹はそんなものお構いなしとばかりに部屋を開けるように促す。病気の怠さと、何を言っても仕方がないという悟りから那海は唸るばかりだった。
まさか、こうも早く和樹を家に招くことになろうとは。準備万端な状態で挑みたかったが、とため息を漏らしながら鍵を開ける。
「……どーぞ」
「おじゃましまーす」
部屋は広めの1LDK。玄関から入って扉を開けるとリビングがあり、その右にはもう一部屋ある感じだった。
「……物少ないな」
「まぁ、引っ越したばかりですし。必要最低限なもので十分ですしね」
部屋は意外にも質素なものだった。整理整頓されているが、女子が済むにしては物が少ない。言っちゃ悪いが華やかさが足りない。
本人も分かっているようだが、気にしていないようだ。そもそもとして、ここに人を呼ぶ予定などない那海にはどうでも良いみたいだ。
「んまぁ、お前の部屋なんてどうでもいいけどな。ほれ、ささっと着替えて来い。そして、そのまま寝ろ。俺は帰るから」
「えっ、そんな、もう帰るんですか? お茶でも飲んで行ってくださいよ」
「病人は寝ろ。いらん気遣いするな」
部屋に来てすぐにそんなことを言う和樹に、那海は少し寂しそうな顔をする。だが、何を思ったか那海は次には顔をニヤリ、とさせた。
「あ~、先輩~、私もう~ふらふらでダメですぅ~。ベッドまでお姫様抱っこで運んでください~」
「それだけ元気なら大丈夫だな。それじゃ、お大事にー」
「あぁ! ストップストップ!! ごめんなさいごめんなさい!」
ここぞとばかりに体を和樹に預けて甘える那海。ネコねで声で密着させる仕草は、普通の男子なら断れないものだった。でもそこは和樹、そんなあざとい計算には乗らない。せっせと帰ろうとする和樹を那海は慌てて服の袖を引っ張って引き留める。
「ふざけたのは謝ります! けど、このまま帰すのは本当に申し訳ないのでお茶一杯ぐらいは飲んで行ってください! これでも、紅茶の淹れ方には自信あるんですよ私」
「俺は、さっさと寝ろと言っているんだけど?」
「先輩にお茶をご馳走したら大人しく寝ますから…………それに」
「それに?」
「………心細いです」
「………」
「だから、寝るまでいてください」
それが、先ほどとは違い本当の言葉と理解するのに時間はいらなかった。ギュッ、と握りしめられた袖から伝わる力、暗い表情は本物だった。
和樹は暫く考え、不安そうに顔を上げる那海を見る。
「……はあぁ、少しだけだからな」
「……はいっ!」
頷く那海を見て、まだまだ自分も甘いなと自己嫌悪に陥る和樹であった。




