Ⅸ
牛の肉はソースと絡められ。
柔らかいパンは好きなだけある。
果実は大皿に盛られていた。
エータがセッテと話をしてから数日後。
長い長い廊下を渡って大広間を抜けた先。
長い長いテーブルに向かい合わせに、主の妻と、シーク…いや、エータは座っていた。
主の妻は、シーク…もといエータを部屋から連れ出したのだ。
「どう、久しぶりのお母様とのディナーは?美味しいでしょう??」
「え、えぇ、とっても!」
母親の面を被った女に見えぬよう、エータはバツの悪そうな顔をした。
彼女は言ったのだ。
シークとエータを連れ出す時に、言ったのだ。
『シーク、貴方がごっこ遊びを止めてくれて嬉しいわ。』
『今日は久しぶりに、お母様と一緒にディナーを食べましょう。』と。
その言葉は、エータにとって腹立たしいモノであった。
故に、女に対して取り繕う自分自身にも、嫌気がさした。
だが外に出ることができたのは、エータにはかなりの幸運だった。
『一人ごっこ』を止めたフリをし、料理を一人分にすることによって、自分が消えたように見せかける。
目的は達成された。
だが、これだけで終わるわけにもいかない。
これからどうするか。
自分の中のシークをどうするか、自分はどうするかを考えながら、エータはステーキをナイフで切った。
フォークで刺した肉は柔らかく、上品さに満ちていた。
「ごめんなさいねぇ、ホントは家族三人揃って食べたかったんだけど…。あの人今日は用事があるみたいで。」
「いつも遊んでばっかじゃないですか。」
聞こえるような、聞こえないような微かな声を発したのはチンクエだった。
主の妻に皮肉を言う彼女の瞳には、尊敬の念も憧憬の気持ちも含まれていなかった。
彼女もまた、嫌気がさしていた。
自分の娘に非道な扱いをする女に、今、こうして配膳をしている自分に、嫌気がさしていた。
「何か言ったかしら?」
「い、いいぇ、はははは…。」
チンクエは誰にも見えないように下唇を噛んだ。
「…まぁいいわ。でもこんなにおめでたい日なのにねぇえ。家族で過ごせないのは残念だわ。やっとシークがごっこ遊びをやめて、まともになってくれたんですもの。それでこうやって、アタシ達が外に出してあげたわけなんだから。」
外に出して『あげた』?
エータは眉を動かす。
「奥様、そんな言い方…!」
「ホントのことでしょ?シーク、貴方が悪いのよぅ?変な遊びなんかするから。だから閉じ込めたの。だ・か・ら。お父様とお母様は何にも悪くないの、わかる?許してちょうだいね。」
エータは考えるのを止めた。
これからのことを考えるのを、止めた。
フォークだけを置き、自分の視線の先に座る女だけに集中する。
「…お母様。一つ聞きたいことがあります。お母様たちがワタシを閉じ込めたのは、本当に一人ごっこが原因ですか?」
「えぇ、そうよ。」
呆けた、醜い顔で、女は肉をワインで流し込む。
それが、腹立たしい。
「……もう一つ聞いて良いですか?お母様は十年前、いえ、十年以上前。ワタシに何をしたか覚えていますか?」
「そんな昔のこと、忘れたわ。」
覚えているわけがない、と、女は手をひらひらと泳がせた。
それが、腹立たしい。
エータにはそれが、腹立たしい。
「あ、お嬢様、そろそろ紅茶でもお淹れ、」
空気を察してか。
チンクエはエータに気を遣った。
だが、彼女の手は、エータによって払われてしまった。
「八年前だ。」