Ⅴ
いつの間にか二人の間には距離が置かれていた。
女と男が置く距離と、男と男が置く距離は異なる。
故に、彼女の中にいる彼は、セッテから距離を取って、そう言った。
「え、エータ様、いらっしゃったのですか?」
あからさまに動揺している男を見て、エータもわざと聞こえるように舌打ちをした。
「あ?さっきからオレはずっとここにいんだろ?」
そしてぼやくように言うと、エータはセッテを睨みつけた。
同じ体を使って喋っているとはいえ、シークとエータは別人である。
そう認識しているセッテにとって、今のこの状況は、「好きな人への告白を、その人の兄に見られた」という、ただ単に恥ずかしいモノであった。
「そう、ですよね。それもそうですよね。はは、あははは…。」
だから、笑った。
照れ隠しで。
そうすることしか彼にはできなかった。
「お恥ずかしいところをお見せしちゃいましたね。で、では!」
だから、部屋を飛び出した。
照れ隠しで。
そうすることしか、彼にはできなかった。
「…変なセッテ。どうしたのかしら?」
一人になった女には話し相手はいない。
彼女は自分の体で、一人ごっこをするしかなかった。
「お前の方が鈍感すぎて変だっつーの。」
そうせざるを得ない、という考えは、彼女にはない。
極々自然に、エータは彼女の口を借りた。
もはや、彼は一人の人間で、一人の兄だった。
シークにとって、ただ一人の兄だった。
「……まぁお前に、楽しかった時のことを話すあいつも、中々頭可笑しいけどな。」
妹を想うからこその発言であった。
しかし、シークに彼の想いは届かない。
「鈍感?何が?」
鈍感という言葉だけに反応し、それさえも理解していない。
エータは頭を抱えた。
「バカみたいな反応してんじゃねぇよ。」
窓に映る自分の顔を、エータは見る。
自分の意思とは関係なく、頬は膨らんでいた。
どうやらシークの機嫌を損ねたらしい。
エータは真剣な顔をつくると、次の言葉を口にした。
「……なぁ、シーク。お前は本当に外に出たいと思うか?」
外の話をシークにする、ということをタブー視している彼のその発言は、傍から聞いたら相応しいモノではなく、無神経なモノかもしれない。
だが、彼には考えがあった。
彼女を外に連れ出す為の、考えがあった。
「えぇ、もちろん!」
窓に見える女の顔は笑っていた。
それを見て、エータもまた、心の中で微笑んだ。
だが彼の気持ちとは裏腹に、窓の女の表情は曇っていった。
「けど……何か、不安なの、お外のこと考えると。あんっっっなに楽しかったはずなのに。あの頃のことを思い出すと……うぅん、思い出せないの。心の中にもやがかかってる感じ。」
「そうか…。……やはりあの方法しかないか。」
エータが考えていることはシークにはわからない。
シークは首を傾げた。
そんな女の反応を気にすることなく、エータは窓に映る自分の顔…いや、妹の目を手で覆った。
「なぁに、お兄様?」
「お前は何も考えなくていい。そのまま静かに眠っていれば、オレが何とかしてやる。だから、」
兄は妹の頭を撫でた。
「おやすみ…。」
傾いたままの首が、そのまま落ちそうになる。
だがそれを防げたのは、この体に意識があるからだ。
眠ってしまった人格の代わりに、ただ一人の男が、この体を我がモノとしたからだ。
「…よし、良い子だ。お前は何も心配する必要はない。この体は、今からオレのモノだ。あのクソ親も周りもみんなオレらのことを腫物扱いしやがる。……オレが兄だというのならば。オレには、あいつをここから出してやらなきゃならない義務がある。だったらこうするしか、ないな。」
窓には、女は映っていなかった。
女の顔をしているが、それはシークではなかった。
「オレがシークになればいい。」
コンコン。
突如聞こえてきたその音に、エータは狼狽えなかった。
狼狽える必要はない、何故なら自分はシークなのだから。
「お嬢様、お食事をお持ちいたしました。」
チンクエだ。
エータは自分のモノとなった体で、扉を開ける。
「ありがとう!そこに置いといてくれるかしら、チンクエ♪」
「畏まりました、お嬢様。」
疑っている様子は微塵もない。
シークの顔をした女が、シークの言葉を口にして、疑われる道理はない。
「あと、これからは『一人分』でいいわよ。ごめんなさいね、せっかく運んできてもらったのに。」
料理が『二人分』から『一人分』になれば、不審に思われるのは当然であろう。
だが、やはりエータには考えがあった。
「わ、わかりました。…?」