Ⅲ
『桃色は、美しい少女』
「急に連れ出して申し訳ない。」
長い長い廊下を戻った先。
大広間の前まで来たその時に、セッテは口を開いた。
彼が握っているチンクエの腕には、
「い、痛いです、セッテさん…。」
不自然な力が入っていた。
「あっあぁ、すみません!」
チンクエはここに来るまでの間、何度も「痛い」旨を彼に伝えていた。
が、それが耳に入っていないということはセッテの中で、早く「あの場所から離れたい」という思いが強いということではないだろうか、と、チンクエは思った。
そして、何か話したいことがあるのでは、と考えた。
その予想が的中したかのように、セッテは重いであろう口を開いた。
「……一つ聞きますが、ここでの仕事は慣れてきましたか。」
その質問はチンクエにとっては拍子抜けするものでしかなかった。
話したいこととはこのことだったのか。
わざわざそんなことを聞く為にここまで連れて来たのか。
何故そんな仰々しい態度を取るのかはわからなかったが、少しの憧れを、セッテに抱き始めていた彼女は、この簡単な質問に答える。
「先程お嬢様にも聞かれました。段々慣れて、」
「慣れているのなら、何故あんなに狼狽えていたんです?」
男の静かな、しかいどこか語気の強いその言葉を聞き、女は理解した。
これが、本題。
シークに聞かれたくない、本題。
チンクエにとって、シークの『あれ』は『イヤ』なものでしかない。
だからあの時、彼女は困惑していたのだ。
だが、その気持ちを男に伝えるのは、女には難しかった。
「それは、その…。」
チンクエはセッテの前で狼狽えた。
セッテは、答えにくい問いをしてしまったと、己を恥じた。
「…すみません、貴方を責めているわけではないんです。ただ、個人的に…貴方の姿を見ているのがきつかった。」
男は帽子を取ると、深く頭を下げた。
畏まったその態度に、女は相応しいモノで返そうと、自身も何度も腰を折り曲げた。
「こちらこそすみません…。」
謝り合いが幾度か続いた後、チンクエはある疑問をセッテにぶつけた。
「…お嬢様はいつから『あの』調子なんですか?」
『あの』調子。
それを聞いたセッテの目は下に向いていた。
チンクエにとってその反応は意外だった。
セッテなら真っ直ぐな視線で答えてくれると思ったからである。
女は不安な気持ちになりながらも、男の次の言葉を聞いた。
「……十年ぐらい前からです。あの方はある事情で、あそこから出られなくなりました。それからというもの、ずっと一人で架空の兄と双子ごっこをしているのです。」
ある事情?
チンクエは新たな疑問をそのまま口にした。
「その事情っていうのは?」
セッテの目が女と合う。
だが彼の瞳に、チンクエに安心を与えるようなモノは含まれていなかった。
それには負の感情しか孕まれていなかった。
「貴方は知らなくていいことですよ。」
彼のその発言は、意外という言葉で済まされるモノではなかった。
言葉に詰まるチンクエをよそに、セッテは続けた。
「……結局、わたくしは何も守れていないんですよ。」
この時、チンクエは今、自分の目の前にいる男に苛立ちを覚えた。
質問に答えてくれなかったからではない。
自分を安心させてもらえなかったからではない。
ただこの男の態度が、一人の女からしたら、腹が立つモノに見えた。
「…は?」
そしてチンクエが捻り出した声とほぼ同時に、彼らは目の前に現れた。
「何ぺちゃくちゃ喋ってんの?セッテ。」
お世辞でも綺麗とは言えない厚化粧。
醜く太った足。
似合っていないブロンドヘア。
「サボっている暇があるのか?ん?」
お世辞でも体形が良いとは言えない肥えた体。
どこで買ったかわからない怪しい時計。
濃い腕毛。
彼らはこの屋敷の、
「こ、これは旦那様、奥様…申し訳ありません。」
主だ。
セッテは先程よりも深く、頭を下げた。
それにチンクエも合わせる。
だが二人が責めているのは明らかにセッテだけであった。
「これだから貧乏人上がりは…。その気になれば、すぐにクビにすることだってできるんだぞ?」
「もっともそんなことをすれば、貴方の家族は路頭に迷ってしまうわねぇぇえ??軍隊だけの収入であぁんな大家族は養えないものねぇえ?」
チンクエは主人とセッテが会話をするのを見たのは、この時が初めてであった。
だから彼女は驚いた。
自分はこんないびりを受けたことがないからだ。
「ふふ…。……わたしは今からパーティに行ってくる。」
「アタシは今日はお茶会♪あの子の世話を頼むわよ。金持ちは金持ちで、忙しいからねぇ。ほほほほほほ!」
話していたのを注意したかったのか。
セッテをいびって楽しみたかったのか。
それとも金持ち自慢をしたかったのか。
どれともはっきりわからぬまま、二人は姿を消した。
セッテの『あの』話といい、チンクエにとっては色々なことが起こり過ぎていた。
故に彼女は、今起こったこの事象に対しての思いを、優先的に口にした。
「あんな言い方しなくてもいいのに…。」
「いいんですよ、本当のことです。さ、お互い仕事に戻りましょう。」
……。
なんだろう。
なんか、
むかつく。
チンクエのセッテに対する尊敬の念は揺らいだ。