第9話- 1-
私は医務室を出て、自分の仕事場の広報部に帰ろうとしていた。
私の髪をぐちゃぐちゃにした山岡さんにどんなふうにおごってもらうことを伝えようか考えながら、私は鼻歌を歌いながら廊下を歩いていた。
私の大好きな曲のサビの部分までいったところで私は鼻歌を止めた。
正面からカップルということを隠そうとしてもにじみ出ている夏樹と、夏樹の今の彼女の姿が目に入ったからだ。
私の姿に気が付いた夏樹。
私は何事もなかったかのように横を通り抜けようとしたら、「ちょっと待って小川さん。」と、夏樹に声をかけられた。
私は少しだけ体をびくつかせ、「はい。」と、いつもの口調で振り返った。
「少し話があるんだけど、大丈夫かな?」
その夏樹の言葉に、「すみません。急いでいるので。」と、冷たく突き放したかったが、夏樹の彼女、つまりおんなじ会社の人間が横で見ていたからそうすることができなかった。
「かまいませんが。」
にっこりと笑った夏樹を私は誰もいない会議室に連れて行った。
会議室に到着した私は、何の話をされるのだろうとびくびくしていた。
本来なら、山岡さんと笑いあっていた時間だったのに。私は早くこの部屋を抜けたかった。
そんなことを考えていた。その時、夏樹が口を開いた。
「元気だったか?美咲。」
久しぶりにその声で、私の名前を呼ばれた。「ええ。」
私はそう短くしか答えることができなかった。
でも、私はこれを待ったいた。私の大好きだった人。その人に私の名前を呼んでもらうこと。
もうあなたのそばで笑うことはできないけれど、それでも私はこれを望み、待ち焦がれていた。
悲しみは募る一方だと分かっていても。
「そうか。」そう夏樹に告げられたところで、会話に終止符が打たれた。
沈黙が続く。その沈黙を破ったのも夏樹だった。
「お前さ、好きな人いんの?」
その質問の意味を理解するのに私は時間がかかった。聞かれるとも思ってなかった。
そして、答えれるわけもなかった。
「私が好きなのはあなたよ。夏樹。」心ではそう答えているのに、現実が邪魔をした。
「いない。」私が短く答えたとき、会議室の扉が開いた。
「夏樹。今日デートの約束でしょ。もう上がりだから、いこーよ。」
そう言いながら、夏樹の腕に手を回したのは、夏樹の今の彼女だった。
「わかったよ。では、小川さん。仕事よろしくね。」
そう言って会議室に私は一人取り残された。
私は何も考えることができずに、会議室の扉を潜り抜けていったのだった。
「小川、ただいま戻りました。」
退社時間を超えて人数の少なくなった部署に私は一声をかけた。
私と山岡さんは残業で、明日は遅番。だから、上司である山岡さんに報告したようなもんだ。
「おかえり。帰ってきてすぐで悪いが、お茶入れてくれないか。」
「わかりました。」淡々とそう述べ、私は給湯室に向かった。
たぶん、今ので山岡さんは私の異変に気付いたのだろう。
しかし、今の私にとって、そんなことはどうでもいいことになっていた。
給湯室でお湯を沸かす。
私はやかんの前でぼーっと、さっきの出来事を思い出していた。
「お前さ、好きな人いんの?」
そんなの、どうして夏樹に言わなくちゃいけないの?付き合ってるわけじゃない。
まして私にあなたが好意を持っているわけでもないんでしょう。ドウシテアナタガソノセリフヲイウノ?
ワタシ二キタイサセナイデ。
そんな私の思考はやかんの沸騰した音で止められ、私の心を乱した。
やばい。火、止めなくちゃ。焦っていた私はやかんの取っ手に引っかかって、勢い余ってこけてしまった。
そこに沸騰したお湯が私の足にかかった。やかんが床に落ちて、大きな音を立てたのと同時に。
「あっつ・・。」体が焼かれているような錯覚に陥る。
じんわりと痛みと、厚さが広がっていく。私は一人で立つことすらもままならなかった。
「おい、小川。どうした?大きな音がしたが・・・。って、おい!小川!」
近寄ってきた山岡さんに抱きかかえられ、私はそのまま病院に運ばれた。
そのとき、私はなにも考えれなかったのだった。