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「真ん中のお前は最後でいい」と父が言うので、嫁ぎ先は犬を見て自分で決めました

作者: みれいぬ
掲載日:2026/11/03

「アデラインは跡取りだから先、ペネロピは末っ子だから先。真ん中のお前は最後でいい」


 父は朝食の卓で、手紙の束をめくりながらそう言った。


 話していたのは、十日後に迫った姉の婚礼のことと、今夜の妹の夜会のことだ。私の名前が出たのは、そのついでだった。


 私はポットを持って、卓のまわりを回っていた。父から順に注いでいって、自分の杯の番が来るころには、残りの紅茶はいつもぬるくなっている。


(今朝も、ぬるい)


 アシュビー伯爵家には、娘が三人いる。長女のアデラインは跡取りで、ダンビー子爵家の次男のフレデリック様を婿に迎える。末っ子のペネロピは、この春に社交界に出たばかりの母の自慢の種だ。真ん中の私、メイベルは、家の帳簿をつけ、父の手紙の返事を書き、姉の婚礼の席次と妹の夜会の段取りを引き受けている。


 そうしているうちに、二十一になった。


 私が社交界に出たのも、姉がまだ婿を決めかねていた季節の、付き添いのついでだった。姉のドレスの仕立て直しを着て、姉の後ろに立っていればいい、と言われた。夜会で私に声をかけてくださった方がいても、母はいつも、うちには跡取りの長女と、いずれ出る末の娘がおりますの、と話をそちらへ回した。真ん中の娘の話は、そこで終わる。


「メイベル、席次はまだ?」


 姉が、ナプキンを膝に広げながら言った。


「お昼までにはお見せします」


「お姉様、今夜の手袋、ちゃんと届くのよね?」


 ペネロピが、木苺のジャムの瓶を手元に引き寄せたまま言った。


「昼過ぎに届くわ」


 母は、妹の新しいドレスの見本帳から目を上げない。


 父が、手紙の束から一通を抜き出した。


「それで、お前のことだがな。ダンビー家から話があった」


 ダンビー子爵家。姉の婿になるフレデリック様の家だ。


「フレデリック殿を婿に出す代わりに、跡取りのナイジェル殿に、家を切り盛りできる嫁が欲しいと仰る。持参金は要らんそうだ」


 父は、手紙をひらひらと振った。


「お前でいいそうだ」


(でいい、か)


 この家で私に向けられる言葉は、たいていその形で終わる。お前でいい。真ん中は最後でいい。母なら、あなたは手伝ってくれるでしょう、と言う。


「よかったじゃない、メイベル。あなたにもお話があって」


 母がようやく顔を上げて、またすぐ見本帳へ戻った。


「お姉様は最後でいいでしょう? 今は私の季節のほうが先なんだから」


 ペネロピが笑った。


「ナイジェル殿のところなら近い。嫁いでからも、アデラインの手伝いに通えるだろう。持参金の要らん分は、ペネロピの季節に回せる。うまくできた話だ」


 父は満足そうに頷いた。姉の婿をもらうための条件を、私で払う。妹のドレスの代金も、私で浮かせる。帳簿の左右がぴたりと合ったときのような顔を、父はしていた。


「お父様。ナイジェル様には、お会いしたことがございません」


 一度だけ、そう言った。


「婚礼で会える。決めるのは、婚礼が済んでからだ」


 父はもう、次の手紙の封を切っていた。


   * * *


 その手紙を読んで、父の眉が上がった。


「これは……セルウィン侯爵家からだ」


 卓が静かになった。母が見本帳を閉じた。


「前侯爵夫人のお手紙だ。『先日のラムズデン公爵夫人の園遊会で、うちの犬に水をくださったお嬢様に、改めてお礼を申し上げたく。お連れいただけましたら幸いです』」


 名前は書いていないらしい。父は手紙を裏返して確かめ、それから迷わず言った。


「ペネロピだな。あの日、この子は前侯爵夫人のおそばにいた」


「ペネロピは優しい子ですもの」


 母が、妹の巻き毛を撫でた。ペネロピは何のことだか分からない顔のまま、それでも嬉しそうに胸を張った。


 私はポットを持ったまま、卓の脇に立っていた。


 先日の、園遊会の午後を思い出す。


 セルウィン前侯爵夫人は、どこへでも大きな犬を連れて歩く方として、王都では知られている。主催のお屋敷も、それを承知で招いている。あの日も、灰色の長い毛の、片耳の折れた大きな犬が、芝生の木陰に腹を見せて伸びていた。暑い日だった。犬は舌を長く垂らして、浅い息を繰り返していた。


 ペネロピは、その木陰の椅子に座ろうとして、犬を見るなり言ったのだ。


「やだ、汚い。あっちへやって」


 そして椅子を引きずって、日向へ移っていった。


 私は姉の肩掛けを取りに、馬車まで戻る途中だった。菓子の卓に、果物を冷やす大きな銀の器があった。私は果物を卓の皿に移して、溶けた氷の水ごと器を抱えていき、犬の鼻先に置いた。犬は器に顔を突っ込んで、音を立てて飲んだ。飲み終えると、折れたほうの耳を私の手にこすりつけてきた。私はしばらく、その首を撫でていた。


 誰も見ていないと思っていた。見ていたとしても、真ん中の娘のすることなど、誰も覚えていないだろうと思っていた。


「メイベル、返事を書いておけ」


 父が、手紙を私のほうへ寄越した。


「近く娘を連れてご挨拶に伺いたく、とな。ペネロピのドレスを一着、新しく誂えさせよう。侯爵様は、まだお独りだ」


 母の目が光った。ペネロピが「新しいドレス?」と身を乗り出した。


「お父様、その犬に水を――」


 言いかけて、やめた。


 父は、もう私を見ていなかった。私が何を言っても、父の中では「真ん中のお前」の話にしかならない。水をやったのは私だと言えば、父はきっと鼻で笑うだろう。お前がか、と。


「承知いたしました」


 私は書き物机に向かい、言われたとおりの返事を書いた。近く娘を連れて伺います。どの娘かは、書かなかった。父が、書けとは言わなかったからだ。


   * * *


 夕方には、前侯爵夫人から短い返事が来た。では、木曜の在宅日に。明後日だった。


 父は上機嫌で仕立て屋を呼び、母はペネロピの髪型をあれこれと試させた。姉は席次表に文句をつけ、私は直した。


 夜、自分の部屋で、私は引き出しの奥から小さな銀の笛を取り出した。祖母の形見の犬笛だ。


 ペネロピが生まれた年、母は赤ん坊にかかりきりになって、四つの私は母方の祖母の田舎の屋敷に一年預けられた。それからも夏が来るたびに、私は祖母の家へやられた。祖母の家には犬がたくさんいて、私は犬たちのあいだで大きくなった。


 祖母は、犬を見ればその家が分かる、とよく言っていた。


「嫁ぎ先を決めるときは、その家の犬を見なさい。犬はね、お客の前ではなく、人目のないところで扱われたとおりの顔をしているものよ」


 笛を握ったまま、私は考えた。


 決めるのは婚礼が済んでから、と父は言った。けれど、中身はもう決まっている。会ったこともない方の家へ、姉の婿をもらう条件として、私は嫁がされる。婚礼が済めば、そこから先は早いだろう。真ん中の娘の縁談に、父は時間をかけない。


 今まで黙って従ってきたのは、断ったところで行く先がなかったからだ。父の決めた縁談を蹴って家を出た真ん中の娘を、迎えてくれる家などない。


 侯爵家の手紙のことも、考えないようにした。お礼を言われるのは、きっとペネロピだ。父がそう決めたのなら、そうなる。あの大きな犬が私の手に耳をこすりつけてきた感触だけ、覚えていればいい。


 そう思うのに、胸のどこかが、ちくりと痛んだ。


 それでも。


(決められるのを、ただ待つのはやめよう)


 どこへ嫁がされるにしても、その家の顔を、先に自分の目で見ておく。父が決めてしまう前に。


(下見だ)


 胸の中でそう呼んでみると、まるで部屋を借りに行く人のようで、少しだけ笑えた。


 姉の婚礼の支度があるから、昼のうちに家を空けられるのは、明日の届け物の用と、木曜の朝の散歩くらいしかない。それで足りる、と思った。


「ジョーン。明日の届け物のとき、少し寄り道をしてもいい?」


 髪を解いてくれていた侍女のジョーンが、鏡の中で眉を上げた。私が子どもの頃から仕えてくれている人だ。


「寄り道、でございますか。どちらへ」


「ダンビー子爵家の、厩」


 ジョーンの手が止まった。


「……お嬢様、本気でございますか」


「犬を見たいの」


 ジョーンは鏡の中の私の顔をしばらく見て、それから、ふっと笑った。


「ようございますとも」


   * * *


 翌日の昼前、私は姉の婚礼の席次表を届けに、ダンビー子爵家の町屋敷を訪ねた。


 客間には、子爵夫人とナイジェル様がいた。


 ナイジェル様は、薄茶の髪をきれいに撫でつけた、背の高い方だった。立ち上がって私に椅子をすすめ、席次表を受け取ると、丁寧に目を通した。


「わざわざありがとうございます、メイベル嬢。母から伺っております。帳簿がお得意だとか」


「家のことを、少し」


「頼もしい。うちの帳簿は、これまで弟のフレデリックが見ておりましたので。あなたには、帳簿を見ていただければ」


 子爵夫人が、扇の陰で頷いた。


「フレデリックが婿に行ってしまったら、見る者がいなくなりますの。ナイジェルは、そういうことには向きませんから」


 客間はよく磨かれていて、花も新しかった。暖炉の前の敷物には、毛一本落ちていない。


「こちらでは、犬はお飼いではないのですか」


 何気ないふうに尋ねると、ナイジェル様はにこやかに答えた。


「客間には入れません。領地から猟犬を一頭連れてきて、厩に置いております。よく働く犬ですよ。秋になったら、ぜひ猟をご覧に入れましょう」


 猟犬が厩にいるのは、どこの家でもふつうのことだ。客間に犬を入れない家も多い。


「お茶でもと言いたいところだけれど、お忙しいでしょうから、お引き留めしないわ。アデライン嬢によろしく」


 子爵夫人がそう言って、話は終わった。


 言葉づかいは柔らかく、ナイジェル様の物腰も申し分なかった。


(悪い方では、ないのかもしれない)


 そう思いかけた。父の選んだ先にしては、ずいぶんまともだ、と。


 辞して表の石段を下りると、私はジョーンと目を見交わして、角を曲がった。


 町屋敷の裏には、厩と馬車置き場の並ぶ細い路地がある。家の者と出入りの者くらいしか通らない道だが、誰が通っても咎められはしない。ダンビー家の厩の庭は、低い柵の向こうに見えた。


 犬は、すぐに見つかった。


 厩の隅の、寝藁を積んだ脇に、白に茶のぶちの猟犬が短い綱でつながれていた。鳥を撃つときに使う、脚の長い犬だ。脇腹にあばらが浮いていて、毛には艶がない。そばの水桶は、底まで乾いていた。


(水を、もらっていない)


 厩から、まだ子どもの犬番が、餌の鍋を抱えて出てきた。犬は尾を振らず、鍋を見上げただけだった。


 そこへ、乗馬服に着替えたナイジェル様が、厩の戸口から入ってきた。


 犬が、身を低くした。


 尾を腹の下に巻き込み、耳を伏せ、目を逸らして、地面に貼りつくように縮こまる。祖母の家で、一度だけこの姿を見たことがある。前の飼い主にぶたれていたのを、祖母がよその村から引き取ってきた犬だった。


 それでも、まだ決めつけられない。脚を痛めているだけかもしれない。祖母なら、そう言うはずだ。


 犬番の子が鍋を置くと、犬が餌に向かって這い出した。綱が、ナイジェル様の長靴の前を横切った。


「邪魔だ」


 ナイジェル様は、手にしていた乗馬の鞭を振り上げた。


 鞭が上がったとたん、犬と一緒に、犬番の子も肩をすくめた。同じ形だった。首を縮めて、目をつぶって、次に来るものを待つ形。


 鞭は犬の背に落ちた。犬は鳴かなかった。鳴けばどうなるかを、もう覚えているのだ。


 私の隣で、ジョーンが息を呑んだ。その音で、ナイジェル様がこちらに気づいた。


 柵越しに目が合うと、ナイジェル様は鞭を下ろし、客間と同じ笑顔に戻った。


「これは、メイベル嬢。お見苦しいところを。猟犬は、甘やかすと使い物になりませんので」


「……そうでございますか」


 私は膝を折って礼をし、路地を引き返した。


(躾が悪いのは、犬ではない)


 表の通りに出るまで、ジョーンも私も何も言わなかった。


「お嬢様。あの子の肩を、ご覧になりましたか」


 ジョーンが、ようやく小さな声で言った。


「見たわ」


 客間の柔らかな言葉づかいが、耳の奥でまだ響いていた。あなたには帳簿を。あの家の嫁になったら、私は帳簿を見て、そしていつか、あの手が上がるのを見ることになる。人目のないところで、私に向かって。


 腕に、ぞっと鳥肌が立った。


 屋敷に戻ると、ペネロピの新しいドレスが届いていた。


   * * *


 木曜の朝は、よく晴れた。


 家族の訪問は午後だ。母とペネロピは朝から髪と衣装にかかりきりで、私が散歩に出ると言っても、誰も顔を上げなかった。


 セルウィン侯爵家の町屋敷は、大きな公園に面して建っている。表の門は広場の側にあるけれど、裏庭の門は公園の小径に開いている。私はジョーンと、朝の散歩の人に混じって小径を歩き、鉄の柵の前で足を止めた。


 柵の向こうは、よく手入れされた裏庭だった。芝生の端から、屋敷の裏口へ石の階段が上がっている。


 その階段の上に、シャツの袖をまくった若い男の人がいた。


 腕に、あの灰色の大きな犬を抱えていた。


 男の人は、犬を胸に抱いたまま、一段ずつ足元を確かめるように階段を下りてきた。犬の後ろ脚が、力なく垂れている。園遊会では木陰で伸びていたから気づかなかったけれど、後ろ脚が弱っているのだ。あれだけ大きな犬なら、重いはずだった。男の人は芝生まで下りると膝をつき、犬をそっと立たせた。


 それから、犬の長い毛に絡んだ枯れ葉を、指でつまんで取りはじめた。


「……今日は客が来るそうだ。少しはきれいにしておこう、バーナビー」


 低い声だった。誰かに聞かせるための声ではなかった。


 私は、柵の前から動けなくなった。


 侯爵家ほどのお家なら、犬の世話は使用人の仕事だと思っていた。前侯爵夫人の犬なら、なおさらだ。けれど、ここには誰もいない。従僕も、犬番も、それを見て感心する客も。男の人は、誰も見ていない朝の庭で、年寄りの犬の毛を指で梳いている。


(人目のないときの、顔だ)


 祖母が、耳の奥で笑ったような気がした。


 犬が、ふいに顔を上げた。鼻をひくつかせて、こちらを向く。折れた耳がぴくりと動いた。


 次の瞬間、犬は弱い後ろ脚を引きずるようにして、まっすぐ柵へ寄ってきた。尾を大きく振りながら、鉄の棒のあいだから、鼻先を私の手に押しつけてくる。


「覚えていてくれたの」


 気がつくと、柵越しにその首を撫でていた。


「バーナビー?」


 男の人が立ち上がり、こちらを見た。


 癖のある黒髪の、淡い緑の目の人だった。目が合った。逃げるには、もう遅かった。


 ジョーンが、私の後ろで固まっている。私は手を引っ込め、外套の裾を整えて、膝を折った。


「失礼いたしました。アシュビー伯爵家の、メイベルと申します」


「アシュビー伯爵家」


 男の人は、柵のすぐ前まで来た。シャツの袖口に、犬の毛がたくさんついている。


「……今日の午後にお見えになる、と伺っていますが」


「はい。その家の、真ん中の娘でございます」


 男の人は私を見て、それから足元の犬を見た。犬は柵に顔を押しつけたまま、尾を振り続けている。


「失礼ですが、朝の散歩、というご様子ではありませんね」


 嘘をつくこともできた。けれど、この人の人目のないときの顔を、私はもう見てしまっている。こちらだけ取り繕うのは、筋が通らない気がした。


「下見に参りました」


「……下見、ですか」


「父が、私の嫁ぎ先を決めようとしております。決められてしまう前に、自分の目で見ておきたくて。祖母が申しておりました。嫁ぎ先を決めるときは、その家の犬を見なさい、と」


 言ってしまってから、自分の言ったことの図々しさに気がついた。侯爵家を嫁ぎ先の数に入れるなど、真ん中の娘の身の丈を越えている。頬が熱くなった。


「いえ、あの、こちらのお家に嫁ぐつもりで、というのではなく、ただ、その」


「それで、うちの犬はいかがでした」


 男の人は、真顔だった。


「……とても、大事にされております」


「それはよかった」


 男の人は柵の掛け金に手をかけ、門を開けた。


「では、続きをどうぞ。台所からでも、厩からでも」


「え」


「下見なら、中まで見なければ分からないでしょう。……セルウィン侯爵の、エドウィンです。祖母が、あなたにお会いしたがっていました。園遊会でバーナビーに水をくださった方に」


 侯爵様、と言いかけた私を置いて、エドウィン様はもうバーナビーを抱え上げていた。ジョーンが私の袖をそっと引いた。行け、という引き方だった。


 裏口から入ると、そこは台所だった。大きな鍋が火にかかり、料理番の女の人が、肉の骨を一本、布巾に包んで脇へ取り分けている。


「旦那様、また袖を毛だらけにして。お客様の前でございますよ」


「客ではない。下見の方だ」


「はあ」


 料理番は私を見て、首をかしげ、それから骨の包みをエドウィン様の腕の中のバーナビーに嗅がせた。


「お昼の後でね。旦那様の分より先に取っておきましたからね」


 洗い場の娘が、くすくす笑った。叱る者はいなかった。娘は笑いながら、エドウィン様のために階段の扉を押さえた。


(この家の人たちは、主人の前で、笑える)


 そのことのほうが、磨かれた客間よりもずっと多くを教えてくれる気がした。


   * * *


 前侯爵夫人の居間は、裏庭に面した明るい部屋だった。暖炉の前の、いちばん日当たりのいい場所に、大きな犬の寝床が置いてある。エドウィン様に抱えられて階段を上がったバーナビーは、まっすぐその寝床へ行って、満足そうに丸くなった。


(客間の飾りではなく、ここで暮らしている犬なんだ)


 銀の髪を低くまとめた前侯爵夫人は、杖を膝に立てかけたまま、私を見るなり目を細めた。


「まあ。やっぱり、あなたでしたのね」


「やっぱり、と仰いますと」


「あの日、わたくしは向かいの天幕の下から見ておりましたのよ。誰も見ていないところで、よその犬に水をやるお嬢さんを。お名前を伺いそびれて、ウィットモア夫人に、アシュビー伯爵家のお嬢さんだとだけ教えていただいたの。だから手紙には、お嬢様、としか書けませんでした」


 前侯爵夫人は、私の後ろのエドウィン様にちらりと目をやった。


「犬を見る人は、犬を見る人を見るものですわ」


「メイベル嬢は、下見にいらしたそうです。うちの犬を見に」


 エドウィン様が、祖母の隣の椅子に腰を下ろしながら言った。


「まあ」


 前侯爵夫人は、声を立てて笑った。


「わたくしと同じことをなさるのね。この子は家を継いでから、持ち込まれる縁談を、みんなわたくしに断らせてきたの。爵位のほうばかり見ているお家ばかりで」


 前侯爵夫人は、暖炉の前のバーナビーに目をやった。


「あの犬はね、この子が十四のときに、公園からついて来てしまったの。後ろ脚を痛めた野良でね。この子の父親は、捨ててこいと言ったわ。この子は、捨てるなら自分も一緒に出ていく、と言って、一晩、厩でこの犬を抱いて寝ていたのよ。仕方がないから、わたくしの犬ということにしたの」


「お祖母様」


 エドウィン様が、少しだけ困った顔をした。


「それからずっと、この犬の脚には、この子しか触らせないの。……それで、合格かどうか、伺ってごらんなさい、エドウィン」


 二人の目が、私に向いた。


「犬は、合格でございます」


「では、私は」


 エドウィン様が、相変わらずの真顔で尋ねた。


「……それは、まだ下見の途中でございます」


 前侯爵夫人がまた笑い、エドウィン様は、ほんの少しだけ口の端を上げた。


 それから私は、正直に話した。今日の午後、父が妹を連れて伺うこと。手紙の「お嬢様」は妹のことだと、父が決めてしまったこと。返事を書いたのは私で、どの娘を連れていくとは書かなかったこと。


 前侯爵夫人は、閉じた扇を膝に置いたまま、黙って聞いていた。


「それで、あなたはどうなさるおつもり? お昼までにお帰りになって、妹さんがあなたの代わりにわたくしのお礼を受け取るのを、お家で待っていらっしゃるの?」


 家の顔が浮かんだ。上機嫌の父と、見本帳の母と、新しいドレスのペネロピ。私が勝手をしたと知ったら、父はどれほど怒るだろう。


 けれど、ここで帰ったら、私はまた待つことになる。父が決めて、妹が先に行って、私は最後に、決まったことを知らされる。


「……いいえ」


 自分の声が、少し震えていた。


「ここに、いさせていただけますか。父より先に」


 前侯爵夫人は、満足そうに頷いた。


「どうぞ。今日は木曜、わたくしの在宅日ですもの。お客様は、いらした順にお迎えしますわ」


   * * *


 午後の客間には、在宅日の古いお客のウィットモア夫人が、先に来ていた。話好きで知られた方で、あの園遊会にもいらしていた。私は前侯爵夫人に言われて、その隣の椅子に座った。足元には、居間から連れてこられたバーナビーが伸びている。


 執事が扉を開けた。


「アシュビー伯爵ご夫妻、ペネロピ嬢」


 父が、新しい薄桃色のドレスのペネロピを前に押し出すようにして入ってきた。母は、その後ろで妹の裾を整えている。


「本日はお招きにあずかり、光栄に存じます。お手紙を頂戴いたしました、娘のペネロピでございま――」


 父の目が、前侯爵夫人の隣で止まった。


 私と、私の足元の犬の上で。


「メイベル……?」


 母の声が裏返った。


「あなた、どうしてここにいるの。朝の散歩に出たのではなかったの」


「ようこそ、アシュビー伯爵」


 前侯爵夫人が、穏やかに言った。


「お礼を申し上げたいとお手紙に書いたお嬢様は、こちらですわ。園遊会で、うちのバーナビーに水をくださった方。お名前を存じませんでしたので、お嬢様、とだけ書きましたの。……伯爵は、どなたのことだとお思いになったのかしら」


 父の顔から、色が引いていった。


「あら、あのときの」


 ウィットモア夫人が、扇を口元に当てた。


「わたくしも覚えておりますわ。そちらのお嬢さんが、銀の器でお水を運んでいらして。……ペネロピ嬢は確か、この犬を見て、汚い、あっちへやって、と仰ったのではなくて?」


 ペネロピの頬が、さっと赤くなった。それから足元のバーナビーに目を落とし、思わずというように言った。


「その犬、まだ生きていたの」


 客間が、しんとした。


 バーナビーは何も知らずに、大きなあくびをした。


「……ペネロピ」


 母が、小さく妹の袖を引いた。ペネロピは何がいけなかったのか分からない顔で、母と父を見比べている。


 父が、咳払いをした。


「これは、とんだ行き違いを。いや、しかし、次女にはもう縁談が決まっておりまして。ダンビー子爵家の御長男、ナイジェル殿と」


 父は、私を前侯爵夫人の隣から引き剥がすように言った。次女の縁談は決まっている。だから侯爵家のお話はペネロピに、と言いたいのだ。


「メイベル、ご挨拶をして、先に帰っていなさい。話は家で聞く」


 家で聞く、と父が言うとき、私の話が聞かれたことはない。帰れば、婚礼が済むのを待って、私はダンビー家の厩のある屋敷へやられる。


 膝の上で、指先が冷たくなった。父の前で父に逆らったことは、一度もない。


 バーナビーが、私の靴の上に顎を載せた。


「まだ、決まってはおりません」


 私は言った。


「お父様は、姉の婚礼が済んでからお決めになると仰いました。……それに、あちらのお家の犬も、見てまいりました」


「犬?」


 夫人が、身を乗り出した。


「昨日、姉の婚礼の席次表をお届けした帰りに、厩の路地を通りました。ナイジェル様は、足元に出た猟犬を、乗馬の鞭でおぶちになりました。犬は鳴きませんでした。犬番の子も、鞭が上がったとき、犬と同じように肩をすくめておりました」


 客間の誰も、口を挟まなかった。


「客間では、とてもお優しい方でした」


 それだけ言って、私は口を閉じた。


「まあ……」


 夫人が、扇をゆっくりと下ろした。


「ダンビー家といえば、アデライン嬢に婿を出すお家でしょう。……姉君の婿の代わりに、妹君を、ということかしら。持参金も要らないお話で?」


 父の口ひげが、震えた。


「犬ごときで、何を」


 ようやく絞り出した父の声は、ひどく小さかった。


「犬ごとき」


 前侯爵夫人が、ゆっくりと繰り返した。


「……そのお言葉、覚えておきますわ、伯爵」


 エドウィン様は、そのあいだひと言も口を挟まなかった。父を責めもせず、ペネロピのほうを見もしなかった。ただ、私のほうに向き直って、静かに言った。


「メイベル嬢。下見の結果を、伺ってもよろしいですか」


 客間じゅうの目が、私に集まった。


「犬は、合格でございます。お屋敷も」


 その先は、言えなかった。エドウィン様は、それで十分だというように頷いた。


 前侯爵夫人が、杖を握り直した。


「メイベルさん。あなた、うちに話し相手として来てくださらない? 年寄りの手紙を書いて、散歩に付き合って、お茶を淹れてくださる方を、ずっと探していたの。お部屋とお食事と、わずかですけれど手当もお出ししますわ。二十一を過ぎたお嬢さんですもの、ご自分でお決めになれるわね」


 父が、何か言おうと身を乗り出した。私は、父の言葉が出るのを待たなかった。


「お受けいたします」


 父の顔が、こわばった。


 前侯爵夫人は満足そうに頷き、それから父のほうへ顔を向けた。


「伯爵。メイベルさんは、今日からわたくしがお預かりします。お身内としてのご挨拶は、いずれ改めて。……そうね、順番が回ってきましたら」


「順番、と仰いますと」


「真ん中のお嬢さんを、ずっと最後になさってきたのでしょう。伯爵も、最後でよろしいわね」


 父は、それきり何も言わなかった。執事が扉を開け、母がペネロピの肩を抱くようにして、家族は客間を出ていった。


 戸口で、ペネロピが振り返った。


「お姉様、帰らないの?」


「ええ」


「だって、今夜の夜会の髪は、誰が結うの? 靴のリボンは?」


「リボンは、衣装部屋の白い箱の中。髪は、お母様に頼んで」


 母が、何か言いたそうに私を見た。たぶん、あなたは手伝ってくれるでしょう、と言いたかったのだと思う。


「お姉様の席次表は、仕上げて机の上に置いてあります。婚礼の段取りも、書き付けにして一緒に」


 私がそう言うと、母は言いかけた言葉を飲み込んで、ペネロピの背を押した。


 扉が閉まると、バーナビーが、私の膝に頭を載せてきた。手が、ようやく震えはじめた。前侯爵夫人が、黙って私の杯に熱いお茶を注いでくれた。この家で最初に淹れてもらったお茶は、まだ湯気が立っていた。


 夕方には、ジョーンが屋敷から私の荷物を取ってきてくれた。私の荷物と一緒に、ジョーン自身の荷物まで抱えていた。


「お嬢様の侍女でございますから」


 ジョーンはそう言って、胸を張った。前侯爵夫人は、ジョーンの部屋も、もう用意させていた。


   * * *


 ひと月ほどのあいだに、いろいろなことが片づいた。


 ウィットモア夫人の口から、人目のない厩で犬をぶつ跡取りの話が、すぐに王都を一回りした。娘を持つ奥方たちは顔を見合わせ、ナイジェル様のところへ来かけていたほかの縁談も、みな立ち消えになったそうだ。


 ダンビー子爵夫人は、嫁を出していただけないのなら、その分を、と婿の支度を金で求めてきた。父は、ペネロピの季節のために取っておいたお金を、そちらへ回すしかなかった。ペネロピの夜会は数が減り、出た先では「セルウィン家の犬を汚いと仰ったお嬢さん」と囁かれているらしい。


 姉の婚礼は、予定どおりに挙がった。席次表は家を出る前に仕上げておいたので、その日の席は私の書いたとおりに並んだと聞いた。婚礼が済むと、姉から手紙が来た。少しでいいから手伝いに来てちょうだい、あなたがいないと、うちの帳簿は誰が見るの、と。


 私は、帳簿は婿殿にお任せになってはいかがでしょう、とだけ返事を書いた。フレデリック様は、ダンビー家の帳簿をずっと見てこられた方なのだから。


 ダンビー家の厩の猟犬は、噂を嫌った子爵家から、エドウィン様が買い取った。犬番の子も一緒に、今はセルウィン家の厩で働いている。猟犬はまだ、人の手が上がるとすくむ。それでも近ごろは、私の手から餌を食べるようになった。


   * * *


 セルウィン家の朝は、裏庭から始まる。


 エドウィン様がバーナビーを抱えて裏の階段を下りてくるのを、私は芝生の上でブラシを持って待つ。話し相手になった私に、前侯爵夫人が最初に言いつけた仕事だ。


 芝生に下ろされると、バーナビーは尾を振りながら、誰より先に私のところへ来る。エドウィン様のところでも、前侯爵夫人の居間の窓の下でもなく、まっすぐに。


「毎朝、負けている」


 エドウィン様が、袖についた犬の毛を払いながら言った。真顔だった。


「犬は正直ですから」


「君のおばあさまの教えだったね。犬は、人目のないところで扱われたとおりの顔をしている」


「はい」


「では、あの朝の門の前で、君はうちの犬を見て、私の人目のないときの顔も見たわけだ」


「……はい」


「私のほうは、祖母から園遊会の話を聞いただけだった。だから、このひと月、毎朝見ていた」


 エドウィン様は、私の前に膝をついて、ブラシを持った私の手を取った。犬の毛のついた、大きな手だった。


「下見の結果を、今度は私の分も伺いたい。メイベル、もし君さえよければ、私と――」


「はい」


 言い終わる前に、返事をしていた。


 エドウィン様が、瞬きをした。バーナビーが、私たちのあいだに鼻を突っ込んできた。


「……まだ、言い終わっていないんだが」


「待つのは、もうやめにしたんです」


 エドウィン様は真顔のまま、ほんの少しだけ笑って、それから、最後まで言ってくれた。

お読みいただきありがとうございます。嫁ぎ先の犬を見に出かけた、真ん中の娘メイベルの下見のお話でした。ブックマークと、下の☆☆☆☆☆での評価で応援していただけると嬉しいです。

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野良犬の状態で国の生活水準が分かると言う話を思い出しました。
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