↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

タバコ番号で言ってもらっていいですか?

作者: ランノスケ
掲載日:2026/10/25

タバコ番号で言ってもらっていいですか

目次

• 第一章 21歳、春

• 第二章 失恋

• 第三章 BMWのジジイ

• 第四章 廃棄弁当追跡24時

• 第五章 「傍若無人」角川大輔の店長備忘録

• 第六章 クリスマスイブ

• 第七章 タバコ番号で言ってもらっていいです




第一章 21歳、春

聞き慣れたBGMが流れる店内。扉をくぐり、普段なら開けることのないレジ裏の扉の前に立つ。

「アルバイトの面接に来ました」

普段なら声をかけることもない店員に、そう一言だけ告げる。

少し間が空いた後、店員は「少々お待ちください」と言い、もの珍しそうにレジの裏へと消えていった。

また少し間が空く。すると、エリアマネージャーらしき男が目の前に現れた。見るからに人の良さそうな顔をしている。

「山田さん、どうぞ」

他の客がちらちらとこちらを見ている。そんな視線を浴びながら、少しだけ特別な男になったような気持ちで、レジの裏へと消えていく。

レジの裏は、見たことのない景色だった。

普段通っている店が、こんなふうになっていたのか。少し感心する。思っていたよりも意外と狭い。休憩場所もなさそうなスペースに、一人、腰を下ろした。

勤怠管理のシステムは、ずいぶんと古めかしいものだった。何が何だかさっぱりわからない。

普段、何も考えていなさそうに見える店員たちが、こんな裏側のシステムをいじっていたのかと思うと、少しだけ感心したような、いや、別にそんなこともないような、妙な気持ちになった。

初めての体験に心が躍る。そんなことを考えているうちに、少し疲れてきた。

すると、後ろから、先ほどの男が一枚の紙を持ってやってきた。

⸻

2020年、冬。

コロナという病気が流行っているらしい。

大人の国で流行しているらしいが、俺には関係ない。また何かの風邪だろう。そんなことを思いながら日々を過ごしていた。

ところが、高校三年生になった俺を待っていたのは、日本でのまさかの大流行だった。

しかし、俺には関係ない。

俺はビッグになるのだ。こんなコロナなんかに負けていられるか。俺の要領の良さと、この切れ味の鋭い頭の回転で、受験戦争をかいくぐり、優秀な大人になるのだ。

そんなことを考えながら、日々を過ごしていた。

数か月後、第一志望の大学に落ちた。

まあ、特別サボっていたわけではない。勉強は頑張った。シンプルに、学力が足りなかったのだ。

多少はへこんだものの、ほかに受けていた大学にはなんとか合格していたので、そこに進学することにした。

当時は落ち込んでいたはずなのに、数週間もすれば、そんなことはどうでもよくなっていた。高校時代の友達と遊んでいれば、それなりに楽しかったからだ。

不思議と、大学生活に対する大きな期待はなかった。

ただ、その頃には、恋愛とも呼べないような失恋も経験していた。それはそれで、なんだかんだ楽しく過ごしていた。

大学に入学すると、すぐに高校時代に通っていた塾でアルバイトを始めた。

そこでのアルバイト生活は、決して順風満帆ではなかった。失恋もした。屈辱も味わった。そして何より、自分の要領の悪さを思い知らされることになった。

それでも俺は、単に向いていなかっただけだと思い込むことにした。

その後、俺はアルバイトを転々とした。

コンビニ、塾講師、別のカフェ、ファミレス、どこかの黒い猫の宅急便の配送、そしてイベントスタッフ。

わざわざ遠くまで出向いて、日給九千円をもらう。今思えば、とんでもなく要領の悪い働き方をしていたものだ。

そうして、いくつものアルバイトを経験し、今に至る。

最初に働いていた塾も、その後に勤めた別の塾も、結局は塾長と大喧嘩をした。次第にシフトを入れてもらえなくなり、やがて辞めることになった。

その件について、俺は今でも、特に自分が悪かったとは思っていない。

生徒とは、自分なりに真面目に向き合っていたつもりだ。

ただ、生徒と話していない時間の態度だったり、カリキュラムに合わせた教材の発注だったり、そういう部分に問題があったのかもしれない。

それに、俺は大学生だった。

今思えば、大学生の俺がどれだけ真面目に仕事をしていたつもりでも、そんな思いとは関係のないところで、塾長の金銭に触れるようなことをしていたのだと思う。

周りの人間は、みんな俺が悪いと言う。

けれど、当時の俺には、自分がそこまで悪いことをしていたという実感がなかった。

まあ、俺はまだ青かったということだ。

それでも、少しずつ学んできたことはある。

大人との接し方。怒られずに済む方法。アルバイト先での人間関係。

世の中には、正しいか間違っているかだけでは片づけられないことがある。自分がどう思っているかと、相手がどう受け取るかは、必ずしも一致しない。

そんな当たり前のことを、俺は少しずつ覚えていった。

そして、もう一つ学んだことがある。

何も考えずに女の子にアタックしても、撃ち落とされるということだ。

俺はもう子供ではない。

女の子とは時間をかけて、少しずつ関係を築いていくものなのだ。

そう学んだきっかけは、以前働いていたアルバイト先にいた先輩だった。

とてもかわいらしい人だった。いつもアルバイトに行くと、向こうから話しかけてくれる。何気ない会話を交わして、仲良くしてくれる。

俺は、そんな先輩に恋をした。

これは運命の出会いだと思った。

今まで、こんなに親しげに話しかけてくれて、仲良くしてくれた女の子はいなかったのだ。

それがアルバイト先での出会いだというのだから、なおさら運命的に思えた。

俺が見ていたアニメにも、よく似た展開があった。

アルバイト先で出会った二人が、最初はすれ違いながらも、少しずつ心を通わせていく。やがて、アルバイト終わりに「ちょっと飯でも行こうか」なんて言いながら、一緒に過ごす時間が増えていく。

そうして、いつの間にか二人は付き合うことになる。

そんな物語に、俺は心を躍らせていた。

いつか自分にも、そんな日が来るのではないか。

そんな期待を胸に、日々、先輩と話していた。

結局、先輩は別の同期の男と付き合っていた。

そのとき、俺は悟った。

世界は残酷なのだ。

俺の思いなんてお構いなしに、受け入れがたい事実は押し寄せてくる。

俺がどれだけ思いを募らせようと、そんなこととは無関係に、周りの人間の感情や状況はせわしなく動いていく。

俺が勝手に思い描いていた物語なんて、現実には何の関係もなかったのだ。

それは、俺にとって屈辱的な経験だった。

けれど、その経験を経て、俺は一つのことを悟った。

もう、一人であれこれ考えるのはやめよう。

うじうじしている暇なんてない。

自分の頭の中だけで答えを出そうとするのではなく、周りの人間とコミュニケーションを取るのだ。

思えば、学生時代の俺は、決して陽キャラと呼ばれるような人間ではなかった。

自分のためだけに、自分の中の世界に閉じこもる。そして、勝手な妄想を膨らませ、自分にとって都合のいいストーリーを頭の中で描き、勝手に完結させる。

そこで現実が少しでも想像と違えば、絶望する。

ひどいときには、そのことが気になって、一晩中眠れないことさえあった。

今思うと、馬鹿らしい。

相手が何を考えているのかも知らないくせに、勝手に期待して、勝手に落ち込んでいたのだ。

自分の頭の中で作り上げた物語を、現実だと思い込んでいた。

俺はまだ子供だった。

⸻


21歳、春。

大学四年生になり、そろそろお金がなくなってきた。

新しいアルバイトを探そうと、俺はぼんやりとスマホを眺めていた。

何をやればいいだろう。 何か面白いことはないだろうか。

今までやってきたアルバイトとは、少し違うことがしたかった。

そんなとき、ふと思い立ったのが、コンビニバイトだった。

「どこが違うねん」

そんなツッコミもあるだろう。

自分でもそう思う。

けれど、あのときの俺は、コンビニバイトというものに、なぜだか強烈な魅力を感じていたのだ。

普段、何気なく立ち寄るコンビニ。

老若男女、あらゆる人間が利用する場所。

学生も、サラリーマンも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、夜中に何をしているのかよくわからない人も、みんな当たり前のようにやってくる。

そんな当たり前の光景の中に、俺も一人、混じってみたかったのだ。

俺は人間が好きだ。

コミュ障と呼ばれたこともある。

けれど、そんなことは関係ない。誰が何と言おうと、俺は人と話すことが好きなのだ。

人が何を考えているのか。どんな生活をしているのか。どんな一日を過ごして、何を求めて、ここにやってくるのか。

もちろん、そんなことをいちいち考えながらコンビニを利用しているわけではない。

ただ、いろいろな人間が当たり前のように行き交う場所に、自分も身を置いてみたかった。

そして、少しだけ、かっこいいとも思っていた。

コンビニの店員。

誰もが知っている、あの場所で働く人間。

毎日、決まったように流れるBGM。レジの電子音。商品の補充。次々とやってくる客。

そんな日常の一部になってみる。

今思えば、ずいぶんと大げさな話だ。

けれど、当時の俺にとっては、それなりに胸が躍る選択だった。

そうと決まれば、行動は早かった。

俺は一人、地元のコンビニに電話をかけた。

家の近く、国道沿いにある、いつも見慣れたあのコンビニだ。

アルバイトの面接を申し込み、日時を決める。

そして当日、俺は面接を受けるため、そのコンビニへと向かった。

冒頭の、あの扉の前に立つ日のことである。





第二章 失恋

バイトの面接は、結局受かった。

面接には、エリアマネージャーのような人がやってきた。親の仕事や大学での活動など、コンビニのアルバイトとは何の関係もなさそうな話をあれこれとした。生産性があるのかないのか、よくわからない会話だった。

その後、合格の通知をもらった。

俺は、ああいう人が嫌いじゃない。

むしろ、今の日本には必要な人なのだと思う。何かに情熱を持っていて、初対面の相手にも臆せず話しかけ、あれこれと聞いてくる。そういう人が、世の中を動かしているのかもしれない。

バイトは一週間後に始まることになった。

初出勤の日、俺はコンビニの分厚い冊子を渡された。

「これを読めば、全部できるから」

そんなことを言われた気がする。

俺は少しだけやる気になった。

冊子を渡されるだけでなく、マニュアルのガイド動画のようなものも見せられた。お客さんへの挨拶、商品の品出し、従業員としての心構え。

コンビニのアルバイトに、そんなものがあるのか。

正直、そう思った。

けれど、俺はおとなしく動画を見た。

一通り見終わると、店長に報告した。

「勉強になりました。しっかり見終えました」

そして、いよいよ初めてレジに立つことになった。

レジ打ちは、最初のうちはとても楽しかった。

普段は接客される側の人間が、今度はお客さんをもてなす側に立っている。

それが、少しだけ嬉しかった。

いつも何気なく利用していたコンビニ。その裏側に入り、店員として制服を着て、レジの向こう側に立つ。

たったそれだけのことなのに、自分が少し違う人間になったような気がした。

店長からは、レジの操作をいろいろと教わった。

俺は覚えたことを試しながら、ショートカットを使ってみたり、こなれた手つきで操作してみたりした。

いかにも仕事ができる人間のように振る舞いたかったのだ。

もちろん、そんなことをしていれば失敗もする。

余計なショートカットを使ったせいでシステムが止まり、お客さんを大幅に待たせてしまったこともあった。気がつけば、十人以上の待ち行列ができていた。

なかなかの惨状だった。

ただ、あれは経験の問題だと思う。

何事も、最初からうまくできるわけではない。

そう自分に言い聞かせながら、俺は少しずつ仕事を覚えていった。

少しの憧れと、少しの気だるげなかっこよさ。

いかにも仕事に慣れている人間のように、無駄のない動きでレジを打ち、何食わぬ顔で商品を補充する。

そんな店員になりたかった。

そして俺は、毎朝、早朝のアルバイトに向かうのだった。

⸻

ある日、長期休暇を取っていた女の子が、俺と同じ早朝シフトに入ることになった。

高橋さんというらしい。

今までの経験上、俺はアルバイト仲間と、なかなかうまくコミュニケーションを取れずにいた。

だからこそ、今回は違う。

無理に仲良くなろうとはしない。適度に上辺の会話を交わしながら、自分の業務はきっちりやりきる。そんな大人の対応をしてやろう。

そう心に決めて、初めて店長以外のアルバイトと二人で働く朝を迎えた。

朝、店にやってきたのは、眼鏡をかけた女の子だった。

特別に化粧をしているわけでもない。髪は茶色に染めているが、派手というほどでもない。挨拶の仕方から、どことなく育ちの良さが伝わってくるような、ごく普通の女の子だった。

高橋さん。

それが彼女の名前だった。

バイト経験三週間の俺からすれば、もう大抵の作業は慣れたものだった。

一方で、彼女は長いこと仕事から離れていたらしい。

いくら経験者とはいえ、ブランクがあるのだから、多少は手こずることもあるだろう。

そんな彼女に、今の俺の仕事ぶりについてこられるだろうか。

そんなことを少しだけ考えたが、もちろん口には出さなかった。

余裕のある先輩らしく、黙って見守ってやることにしたのだ。

数時間後。

俺が打っていたレジが、不具合を起こして止まった。

これは痛恨のミスだった。

自分では、もう一通りの作業を理解したつもりでいた。レジの操作も、ショートカットも、慣れた手つきでこなせるようになっていたはずだった。

それなのに、目の前の機械は動かない。

どうにもならなかった。

仕方がない。ここは経験者である彼女に聞いてみるか。

俺は高橋さんを呼び、レジの不具合を解消してもらった。

俺にも、できないことがある。

そんな当たり前の事実を突きつけられた気がした。

しかし、そんな感情は胸の奥に押し込め、俺は素直に礼を言った。

その後、俺たちは二人で商品の品出しをしていた。

すると、ふいに彼女が声をかけてきた。

「山田さん、筋肉ありますよね。何か部活やってたんですか?」

俺は淡々と答えた。

「野球やってたので、筋トレは結構してましたね」

すると、彼女は言った。

「筋肉ある人、かっこいいです」

その瞬間だった。

心地よい風が、ふっと吹いた。

春が来た。

俺にも、とうとう春が来たのだ。

これが、本当の恋に落ちる瞬間というものなのだろう。

今までの経験とは、何かが違った。

以前の俺なら、女の子が少し優しくしてくれただけで、勝手に期待して、勝手に落ち込んでいた。

しかし、今回は違う。

彼女の仕草、口調、目線。

それらを総合的に分析した結果、俺は一つの結論にたどり着いた。

高橋さんは、俺のことが好きだ。

確実に。

そう確信した瞬間、俺の頭の中では、早くも未来の物語が動き始めていた。

そもそも、俺たちはアルバイト先で出会ったのだ。

これからも毎週のように顔を合わせることになるだろう。少しずつ会話が増え、やがて二人で食事に行くようになる。

そして、いつか結婚するのだ。

結婚式の披露宴では、二人の馴れ初めを紹介する場面があるはずだ。

「私たちは、地元の〇〇町にあるコンビニのアルバイトで知り合いました」

そんなふうに紹介するのだろう。

もちろん、当時のアルバイト仲間も招待してあげよう。

みんな、きっと大喜びするはずだ。

あの山田が、こんな優しい女の子と結婚するなんて。

なんて素晴らしいことだろう。

こんな清廉な青年と、こんな心の美しい女性が結ばれるのだ。誰もが祝福してくれるに違いない。

俺はそんな未来に思いを巡らせながら、黙々と品出しを続けていた。

「あざす」

そんな適当な一言を残して、俺たちの会話は終わった。

たったそれだけの会話だった。

それでも俺は、確信していた。

この毎週のシフトは、俺たちの関係を進展させるためにあるのだと。

春の風は、確かに吹いていた。

⸻

彼女とは、いろいろな話をした。

高校時代の話。大学の勉強の話。好きなアニメの話。

ちょうど彼女の好きなくじ引きが開催されていたこともあり、その話題をきっかけに、会話はいくらでも広がっていった。

俺のコミュニケーション能力によって、彼女の興味を引き出す。彼女にとって、俺と過ごす時間を楽しいものにする。

少なくとも、俺はそう思っていた。

俺たちが同じシフトに入るのは、週にたった三時間だった。

たった三時間。

しかし、その三時間で俺たちは少しずつ関係を深め、互いの心を通わせていたのだ。

そう、俺は信じていた。

彼女と同じシフトの日、俺はいつもより少しだけ早く家を出た。

別に、彼女に会うためではない。早朝バイトなのだから、早く出るのは当然だ。

ただ、いつもより髪を整え、鏡の前で前髪を何度か直した。服装も、いつもより少しだけ気にした。

これから仕事に行くというのに、なぜか家を出るまでに時間がかかった。

店に着くと、まず彼女がいるかどうかを確認した。

いた。

それだけで、今日一日が少しだけ特別なものになった。

「おはようございます」

彼女が挨拶をしてくれる。

俺も挨拶を返す。

ただ、それだけのことだった。

しかし俺は、その声の調子や表情から、彼女の機嫌を読み取ろうとしていた。今日はいつもより明るい気がする。目が合う回数も多い気がする。

もしかすると、彼女も俺に会えるのを楽しみにしていたのかもしれない。

そんなことを考えながら、俺はレジを打った。

彼女が品出しをしていれば、何か手伝えることはないかと考えた。彼女がバックヤードに入れば、何をしているのだろうと少し気になった。彼女がほかの店員と楽しそうに話していれば、その会話の内容が気になった。

もちろん、露骨にそんな態度を見せるわけにはいかない。

俺はあくまでも自然体を装った。

仕事をしながら、何気なく話しかける。

「それ、もう始まってるんですか?」

以前話した、彼女の好きなくじ引きのことだった。

彼女は少し嬉しそうに、景品の話をしてくれた。

俺は、その話を覚えていた自分を少し誇らしく思った。

普通、ここまで覚えているだろうか。

いや、覚えている。

好きな人の話なのだから、当然だ。

そして、彼女が笑った。

俺も笑った。

たったそれだけのやり取りを、俺はその日の帰り道まで何度も思い返した。

あのときの笑顔は、いつもと違った気がする。

あの話題を振ったとき、彼女は少し嬉しそうだった。

やっぱり、俺と話すのは楽しいのだろう。

そう考えると、次のシフトが待ち遠しくなった。

俺たちが一緒に働けるのは、週にたった三時間。

けれど、その三時間には意味がある。

毎週、少しずつ会話を重ねる。互いのことを知っていく。焦らず、時間をかけて関係を築いていく。

以前の俺なら、すぐに告白して、勝手に砕楕していたかもしれない。

しかし、今の俺は違う。

俺は成長したのだ。

そう思いながら、俺は次のシフト表を確認した。

彼女の名前がある。

その隣には、俺の名前がある。

俺はしばらく、その二つの名前を眺めていた。

ただ同じ時間に働くというだけのことなのに、俺には、それが二人の未来につながる予定表のように見えていた。

⸻

ある日、彼女が腰を痛めた。

痛みがひどく、アルバイトも休んでいるらしかった。

俺は心配になった。

何かしてあげられることはないだろうか。

そう考えた末、勇気を出してLINEを打った。

「俺が行ってる整体、行きますか?」

今思えば、なかなか踏み込んだ提案だったかもしれない。

それでも、俺は彼女のことを気遣っていた。困っている彼女の力になりたかったのだ。

ところが、おかしい。

数時間たっても、返信が来ない。

まあ、忙しいのだろう。

そう思うことにした。

翌日の夜、俺は恐る恐るLINEを開いた。

そこには、俺の心配に対する返事があった。

グッドマークのスタンプ、ただ一つ。

……は?

こんなに心を通わせていたはずなのに。

俺の心配に対して、返事はグッドマーク一つだと。

おかしい。

何かがおかしい。

俺たちの関係は、こんなものだったのだろうか。

あれだけ楽しく会話をしていたのに。あの三時間は、いったい何だったのだろう。

違和感があった。

けれど、俺はその違和感の正体を確かめることができなかった。

結局、彼女はアルバイトに来なくなった。

店長から聞いた話では、腰痛がどんどん悪化して、働ける状態ではなくなってしまったらしい。

数か月に一度、店に顔を出すことはあった。

そのときの彼女は、どこか表情が暗く、申し訳なさそうにしていた。

俺には、それがよくわかった。

そんなこと、気にする必要はない。

俺がいる。俺がこの店を回している。

だから、何も心配しなくていい。

そんなふうに思っていた。

しかし、当然ながら、俺のそんな思いが彼女に届くことはなかった。

彼女は相変わらず、どこか元気のない様子だった。

俺がどれだけ気にかけていようと、彼女が何を考えているのかはわからない。

それでも、彼女の寂しさに寄り添ってあげられるのは、俺しかいない。

そう思っていた。

⸻

十一月。

少しずつ寒くなってきた頃、俺はついに行動を起こした。

彼女を食事に誘うことにしたのだ。

LINEの画面を開き、文章を打つ。

「今度の夕方のバイト、空いてたら飯行きませんか?」

送信する。

その瞬間、怖くなった。

たった一行のメッセージを送っただけなのに、心臓が妙にうるさかった。

これまで、俺は頭の中で何度も二人の未来を想像してきた。

いつか一緒に飯を食べる。少しずつ仲良くなる。やがて付き合う。

その未来に向かって、ようやく一歩を踏み出したのだ。

それなのに、いざ行動してみると、こんなにも怖い。

これが、恋愛というものなのだろうか。

いや、違う。

これは、何かを失うかもしれないという恐怖なのだ。

それでも、こうした過程を乗り越えなければ、二人の関係は進まない。

そう自分に言い聞かせ、俺はそっとLINEを閉じた。

その夜、一通の返信が来た。

「彼氏とご飯に行くので、ごめんなさい」

人生の本質を思い出した。

俺が何を思っていようと、どう願っていようと、現実は変わらない。

俺が彼女との未来をどれだけ思い描いていても、彼女には彼女の人生がある。

俺の知らないところで、彼女は誰かを好きになり、誰かと関係を築き、誰かと飯を食べに行く約束をしていた。

そんなことは、俺の思いとは何の関係もない。

俺の淡い恋は、その一言で砕け散った。

これまでの出会いも、彼女の言葉も、俺が感じていた心のつながりも。

すべて、俺の勘違いだったのだろうか。

あのときの「筋肉ある人、かっこいいです」という言葉も。

あの三時間も。

俺にとっては特別な時間だった。

しかし、彼女にとっては、ただのアルバイトだったのかもしれない。

俺はまた、自分の頭の中で勝手に物語を作り上げていたのだ。

そして、その物語が現実と違っていたことに、今さら気づかされた。

思い出した。

これが人生なのだ。

何が起こるかなんて、誰にもわからない。

人の思いも、感情も、簡単には理解できない。

自分がどう思おうと、現実は当たり前のように、こちらの都合などお構いなしに方向を変えてやってくる。

どれだけ願っても、どれだけ信じても、変わらない事実がある。

そして、俺はまた一つ、思い知らされたのだ。

俺の春が終わった。




第三章 BMWのジジイ

あの彼女とは、もう親しくしていない。

三日ほどはへこんだ。しかし、今となっては、それほど気にしていない。

俺と彼女の出会いは、ただの勘違いだったのだ。

最初から、そうだったのだろう。

別に、彼女を恨んでいるわけではない。彼女は何も悪いことをしていない。勝手に期待して、勝手に将来まで想像していた俺が悪かったのだ。

まあ、別にいい人がいるだろう。

そう思うことにした。というより、実際にそう思っていた。

そんなわけで、俺はすっかり立ち直っていた。

その後、俺はある主婦さんと一緒に働くことが多くなった。

五十歳くらいの女性だった。

主婦さんは、俺が求めていたアルバイトの人だった。

何をするにも優しく教えてくれる。会うたびに向こうから話しかけてくれるし、俺からも気軽に話しかけることができた。

素晴らしい人だと思った。

就職を控えていた俺にとって、こういう大人がいるのだということは、なんだか嬉しいことだった。

社会人になるということに、漠然とした不安はあった。

仕事は大変そうだし、人間関係だって面倒くさそうだ。会社に入ったら、今までとは違う苦労が待っているのだろう。

けれど、主婦さんと一緒に働いていると、そんな不安も少し和らいだ。

ああ、こんな大人もいるのか。

こんな人と結婚したい。

そう思った。

もちろん、主婦さんと結婚したいという意味ではない。こういう優しさを持った人と一緒に生きていけたら、きっと幸せだろうな、という話だ。

俺たちは毎週三日ほど、同じ時間帯に働いていた。

そのたびに、俺は主婦さんの息子の話を聞いた。

息子さんは、どうやらとても優秀らしかった。

勉強もできるし、しっかりしているらしい。主婦さんは息子さんの話をするとき、まるで自分のことのように楽しそうに話した。

その様子を見ていると、俺は自然と笑顔になった。

ああ、この人に育てられたら、そりゃあ立派に育つだろうな。

そう思った。

人の幸せを、こんなふうに自分のことのように喜べる人がいる。

俺はそのことに、少し感動していた。

主婦さんと働いている時間は、心が洗われるようだった。

面倒な人間関係もない。気を遣いすぎることもない。何かを言うたびに相手の反応を気にする必要もない。

ただ普通に話して、普通に笑って、普通に仕事をする。

それだけで、こんなに気持ちよく過ごせるのかと思った。

そう、客を除いては。

毎日のように、BMWに乗ったジジイがやって来た。

そいつはいつも新聞とコーヒーを買った。

そして、BMWに乗って帰る。

近所に住んでいるらしいのに、わざわざ車でコンビニまでやって来る。買った新聞を読み、コーヒーを飲むのも、当然BMWの中だ。

何をしているのか、よくわからなかった。

年齢は七十代くらいだろうか。仕事を引退して、暇を持て余しているのかもしれない。

まあ、他人の生活に口を出すつもりはない。

ただ、毎日同じ時間に来て、新聞とコーヒーを買い、BMWに乗って帰る。

それが俺の知っている、そいつの日常だった。

ある日、事件が起きた。

その日も俺は主婦さんと一緒に働いていた。

いつも通りレジで会計をしていると、例のジジイがやって来た。

新聞とコーヒーを買い、金を払った。

それだけなら、いつもと何も変わらない。

問題は、その後だった。

ジジイが帰ったあと、レジの金額が合わないことに気づいたのだ。

足りない。

どう考えても、会計がおかしい。

俺たちは慌てて、店を出ようとしていたジジイを呼び止めた。

会計について確認したいことがある、と伝えた。

すると、ジジイの態度が一変した。

「ふざけんな! 犯人扱いすんじゃねえ!」

突然、大声で怒鳴り始めたのだ。

俺はびっくりした。

いや、まだ犯人だと決まったわけではない。

ただ、支払われた金額とレジの記録が合わない。だから確認したい。それだけの話だった。

しかし、ジジイはそんな説明を聞こうともしなかった。

「俺が金を払ってねえって言いてえのか!」

店内に響き渡る声だった。

隣にいた主婦さんも、明らかに驚いていた。

俺は、こんなふうに怒鳴る人間を目の前で見たことがなかった。

「大きな声を出されるようでしたら、警察を呼びますよ」

そう伝えると、ジジイはさらに怒り出した。

どうやら、俺たちは完全に地雷を踏んでしまったらしい。

やばい。

今度は、話が通じない人間が来た。

今までの人生で、こんな人に出会ったことがなかった。

以前働いていたカフェでは、意識の高そうな学生や、穏やかなおばあちゃんが客の中心だった。少なくとも、会計のことで突然怒鳴り散らすような人はいなかった。

俺は初めての経験に、ただただ動揺していた。

結局、その場では話が進まなかった。

店長も呼び、主婦さんと三人で防犯カメラを確認することになった。

そして、驚くべき事実が発覚した。

原因は、ジジイではなかった。

その前のお客さんの会計が、完了していなかったのだ。

そのときレジを担当していたのは、俺だった。

前のお客さんはPayPayで支払おうとしていた。しかし、通信環境が悪かったのか、決済が正常に完了していなかった。

俺は、それに気づいていなかった。

その結果、本来支払われていない金額が、次のお客さんであるジジイの会計に影響していたのだ。

つまり、今回の件は、すべて俺が原因だった。

俺は申し訳ない気持ちになった。

店長は「仕方ないから、もうこれで大丈夫だよ」と言ってくれた。

店としては、それで終わりにするしかなかったのだろう。

しかし、俺はどうにも気持ちが落ち着かなかった。

ジジイにも申し訳なかった。

もちろん、あんなに怒鳴る必要はなかったと思う。

ただ、何もしていないのに疑われたのだとしたら、腹が立つ気持ちもわからなくはない。

そう考えると、余計に申し訳なかった。

そして何より、俺は主婦さんの様子が気になっていた。

あんなに優しい主婦さんが、少し怯えていた。

いつも笑顔で話しかけてくれる人が、あんなふうに大きな声を出されて、困ったような顔をしていた。

それが、俺にはショックだった。

別に、俺が主婦さんを守らなければならない、なんて大それたことを思ったわけではない。

ただ、あんなに気持ちよく働ける時間を、あんな人間に壊されたことが、どうにも嫌だった。

ジジイには帰ってもらった。

その後、主婦さんと二人で、

「そんなに怒らなくてもいいのにね」

と愚痴をこぼした。

少しだけジジイの悪口を言って、それからいつも通り、お互いの近況について話した。

気づけば、普段の空気に戻っていた。

やっぱり主婦さんはいい人だった。

嫌なことがあっても、こうして話していれば、いつもの気分に戻れる。

俺は、このアルバイトが好きだった。

⸻

それからしばらくして、またジジイがやって来た。

いつも通り、BMWに乗って。

いつも通り、新聞とコーヒーを買いに来た。

俺は少し身構えた。

前回のことを覚えているだろうか。

また怒鳴られたらどうしよう。

そんなことを考えながら接客していると、ジジイは俺の顔を見て言った。

「お兄ちゃん、可愛い顔してるね。アイドルになれるよ」

……は?

俺は一瞬、何を言われたのかわからなかった。

あのジジイが。

あの、俺たちに向かって怒鳴り散らしたジジイが。

アイドルになれると言ったのだ。

もちろん、たまたま機嫌がよかっただけかもしれない。あるいは、前回のことを覚えていないのかもしれない。

実際、認知症か何かで、以前の出来事を忘れている可能性だってあった。

本当のところはわからない。

それでも、俺は気分がよかった。

アイドルになれる。

そんなことを言われたのは、初めてだった。

いや、さすがにアイドルは言いすぎだろう。

そう思いつつも、顔が緩むのを止められなかった。

まあ、俺も悪かったか。

そう思うことにした。

前回のことを水に流そう、という気持ちになったのだ。

人間というのは、案外単純なものなのかもしれない。

あれだけ嫌な思いをした相手でも、たった一言、褒められただけで印象が変わる。

もちろん、だからといって、怒鳴られたことがなかったことになるわけではない。

ただ、あのジジイにも、機嫌のいい日がある。

俺の顔を褒めてくれる日だってある。

そう思うと、なんだか少しだけ、世界が優しくなったような気がした。





第四章 廃棄弁当追跡24時

俺の出勤時間は、基本的に朝6時から9時まで。たまにシフトに欠員が出ると、10時まで延びることもある。

たった3時間と思うかもしれないが、朝の混雑ラッシュを考えると、とてもゆったりなんてしていられない。俺にとって、この3時間は永遠のように長く感じられるのだ。

そんなバイトにも、唯一の楽しみがある。

それは、廃棄弁当だ。

深夜2時に納品された弁当は、朝6時になると賞味期限の区切りを迎える。その時間を過ぎた弁当は廃棄扱いとなり、持ち帰ることができるのだ。

ただし、そこには一つの罠がある。

夜勤を朝6時まで担当するおばちゃんたちとの、廃棄弁当争奈戦だ。

朝6時に廃棄となる弁当は、当然ながら、その時間まで働いていたおばちゃんたちが先に回収してしまうことがある。俺がようやく廃棄弁当を選こうとした頃には、すでに目ぼしいものは残っていない。

結局、俺は残り物のクリームパンやコールスローサラダを選ぶしかなかった。

実家暮らしの大学生だった俺にとって、昼飯代が浮くのはありがたいことだった。だから、それだけでも十分に有意義な昼飯にはなった。

それでも、毎回おばちゃんたちに先を越されるのは、なんとも屈辱的だった。

しかし、俺にも勝機はあった。

そのおばちゃんは、なぜか朝6時に勤務を終えたあとも、8時や9時頃までバックヤードに残り、昼寝をしていることがあったのだ。

そう、そこがチャンスだった。

朝8時半を過ぎると、客足も徐々に落ち着いてくる。俺自身も業務終了の時間が近づき、ようやく廃棄弁当を物色する余裕が生まれる。

おばちゃんがまだ寝ていれば、なおさら都合がいい。

俺はこの時間帯を狙って、廃棄弁当を自分のカバンに入れることにしていた。

もちろん、出勤した朝6時の時点でカバンに入れてしまうことだってできる。

だが、それは俺のポリシーが許さなかった。

廃棄弁当というものは、労働した者だけが受け取れる対価なのである。

少なくとも、俺はそう考えていた。

だからこそ、俺は8時半から9時までの間に弁当をカバンに入れる。きちんと働いたあとに、その日の報酬をいただく。それが俺なりの筋の通し方だった。

しかし、おばちゃんは俺の動きを読んでいた。

俺が8時半から9時頃に廃棄弁当をあさるようになったと気づいたのだろう。

その時間になると、おばちゃんはバックヤードでご飯を食べ始めるようになった。

別に、それ自体は何の問題もない。勤務を終えた人がバックヤードでご飯を食べる。それは自由だ。

問題は、その食事の内容だった。

おばちゃんは、俺が目当てにしていた海鮮つけ麺を、あえて俺の目の前で食べ始めるのである。

しかも、もう一つあった海鮮つけ麺をカバンに入れて持ち帰ってしまう。

俺が9時になって廃棄品のカゴを確認した頃には、もう何も残っていない。

コールスローサラダとクリームパン。

またしても、こいつらである。

俺は思った。

そこまでするなら、もう手段は選ばない。

俺はついに、出勤開始時に廃棄弁当を自分のカバンに入れておく作戦を取り始めた。

きっと俺は愚かなのだろう。

たかが廃棄弁当のために、ここまで頭を使っているのだから。

しかし、仕方がないのだ。

おもちゃのように人を弄び、卑劣でずる賢い手段を使ってくる相手に対しては、こちらも手段を選ばずに対抗するしかない。

そう決意した俺は、その日の出勤開始時、ついに海鮮つけ麺をカバンに入れた。

結果は上々だった。

俺の手元には、念願の海鮮つけ麺がある。

その日の昼飯は、海鮮つけ麺を悠々自適に楽しむことができた。

勝った。

俺はそう思っていた。

そして翌日。

バイトに出勤すると、ちょうどあのおばちゃんと顔を合わせた。

おばちゃんは、どこか不満そうな顔をしていた。

昨日、俺に海鮮つけ麺を取られたことが、そんなにも悔しかったのだろうか。

俺はそう思った。

だが、なぜかおばちゃんの目を見ることができなかった。

そんな俺に、おばちゃんは言った。

「昨日、消費期限切れの海鮮つけ麺あったんだけど、食べた?」

俺は愕然とした。



第五章「傍若無人」角川大輔の店長備忘録


ある日、いつもの店長が本社で一ヶ月間の研修を受けることになった。その間、代わりに店舗へやってくるのは、本社勤務の四年目社員、角川大輔。現場研修という名目で、しばらく俺たちの店で働くことになったらしい。

どんな人が来るのか。それが問題だった。

角川大輔。

初めて会ったとき、彼は挨拶よりも先に、俺の頭を見てこう言った。

「君、髪染めてるの?」

「え、ああ、はい」

「それ、明るすぎない?」

……知らんがな。

「これ、会社の規定とか大丈夫なの?」

いや、俺はアルバイトなんだが。

そもそも、初対面でいきなり髪色の指摘から入る人間がいるだろうか。普通、まずは挨拶じゃないのか。「よろしくお願いします」とか、「今日からお世話になります」とか。そういうものがあってもいいはずだ。

しかし、角川はそんなことなど気にも留めず、俺の頭を一通り眺めると、満足したようにその場を離れていった。

こいつ、めんどくさいやつだな。

それが、俺の角川大輔に対する第一印象だった。そして、その印象は、残念ながら間違っていなかった。

数日後のことだった。角川は店内の商品棚の前に立ち、腕を組んでいた。何をしているのかと思えば、陳列された商品をじっと眺めている。しばらくすると、商品の位置を動かし始めた。右へ、左へ。手前へ、奥へ。何かを確かめるように、商品を並べ替えていく。

「これ、誰が並べたの?」

角川が俺に尋ねた。

「えっと、たぶん、いつもこの並びだったと思いますけど」

「ふーん。なんでこうなってるんだろうね」

知らんがな。

俺が入る前からそうだったのかもしれないし、誰かが考えて並べたのかもしれない。少なくとも、俺がすべての商品の配置を決めているわけではない。

「山田くんも、自分なりにやってみなよ」

そう言われたので、俺なりに考えて商品を並べてみた。客が手に取りやすいように、商品の種類をまとめ、見た目にもわかりやすいように配置する。自分なりには、悪くない出来だと思った。

しかし、角川はそれを見るなり、首を傾げた。

「うーん、違うな」

……は?

「ここ、なんでこうしたの?」

「いや、こっちのほうが見やすいかなと思って」

「見やすいって、誰にとって?」

そう言いながら、角川は俺が並べた商品を次々と動かし始めた。結局、棚は角川の思いどおりの配置になった。

自分なりにやってみろと言ったのは、いったい何だったのだろうか。俺に考えさせたかったのか。それとも、自分の考えが正しいと証明したかっただけなのか。

角川は、自分の中にある正解を、ほかの人間も当然理解しているべきだと思っている節があった。そして、その正解にたどり着いていない人間を見ると、なぜそうしないのかと疑問を抱く。

しかし、ここは角川大輔の店ではない。俺たちが日々働き、少しずつ作り上げてきた店だ。それなのに、角川は自分のやり方を持ち込み、それが当然のように正しいものとして振る舞う。

この男は、いったい何をしに来たのだろうか。

そんな疑問を抱き始めた頃、俺はさらに信じられないものを目にすることになる。

ある日、出勤してレジに立つと、背後に見慣れない貼り紙があった。

大きい。

とにかく、大きい。

そこには、達筆というべきなのか、何というべきなのか、妙に気合の入った草書体で文字が書かれていた。

その題名は、

「接客十ヶ条」

……。

何だ、これは。

まるで武士の心得か、寺の教えか。コンビニのレジ裏に掲げられるものとしては、あまりにも仰々しい。

書かれている内容は、普段の接客で使う言葉だった。

一、いらっしゃいませ。

二、ご来店ありがとうございました。

三、少々お待ちくださいませ。

四、申し訳ございません。

五、かしこまりました。

六、レシートはご利用になりますか。

七、おでんお熱いので気をつけてお持ちください。

八、お箸はご利用になりますか。

九、温めますか。

十、袋はご利用になりますか。

……。

いや、普通だな。

いや、普通でいいのかもしれない。

問題は中身ではない。

なぜ、これを一丁前の草書体で、レジ裏に巨大な貼り紙として掲げているのか。

俺はしばらく、その貼り紙を眺めていた。

そして、思った。

角川大輔。

こいつ、本気だ。

翌朝、出勤すると、角川が俺たちを集めた。

「今日から、接客十ヶ条を音読してから仕事を始めようか」

……音読?

俺たちはレジ裏に並び、貼り紙の前に立たされた。角川が先頭に立つ。

「じゃあ、まず一番から」

俺たちは貼り紙を見ながら、声をそろえて読み始めた。

「いらっしゃいませ!」

「声が小さい」

角川がすぐさま口を挟んだ。

「もう一回」

俺たちは、もう一度読み直した。

「いらっしゃいませ!」

「うん。じゃあ、次」

その調子で十ヶ条を読み進めていく。しかし、今度は声がそろっていないと言い始めた。

「バラバラだね。もう一回、最初から」

……。

もう一回?

俺たちは、また最初から読み始めた。

「いらっしゃいませ!」

「ご来店ありがとうございました!」

「少々お待ちくださいませ!」

「はい、もう一回」

……何なんだ、これは。

学校の朝礼か。

軍隊か。

俺たちはコンビニのアルバイトであって、合唱コンクールに出場するわけではない。

それでも角川は、真剣そのものだった。

「こういう基本をおろそかにしちゃ駄目なんだよ。毎日やることだからこそ、ちゃんと意識しないと」

俺たちは、もう一度最初から読み上げた。角川が納得するまで、朝の音読は続いた。

角川大輔が来てから、店の雰囲気は少し変わった。何かをするたびに、角川の目が気になる。商品の並べ方はこれでいいのか。接客の声は十分に大きいか。また何か言われるのではないか。そんなことを考えながら働くのは、正直疲れる。

俺たちは、別に仕事を適当にやりたいわけではない。ただ、もっと普通に働きたいだけなのだ。

そんな一ヶ月も、ようやく終わりを迎えた。

角川大輔がやってきて、一ヶ月。今日が、研修の最終日だった。

明日からは、いつもの店長が戻ってくる。俺は心の底から安堵していた。

これでようやく、平穏な日常が戻ってくる。

接客十ヶ条の音読も終わり。商品の陳列に口を出されることもなくなる。そして何より、おでんが熱いことを叫び続けるのも、もう終わりだ。

長かった一ヶ月も、これで終わりだ。

そう思っていた。

ところが、勤務を終える頃になって、妙なことが起きた。

角川が、泣いていたのである。

あの角川が、目に涙を浮かべていた。

話を聞くと、どうやら彼は本社での出世競争に敗れ、この店舗での現場研修を命じられたらしい。研修が終われば、また本社に戻ることになる。本社に戻れば、再び同じ競争が待っている。彼にとって、この研修は決して望んでいたものではなかったのだろう。

それでも、一ヶ月間この店で働くうちに、何かが変わったらしい。

「……帰りたくないんだよ」

角川はそう言った。

普段の角川からは想像もできない言葉だった。いつも自信満々で、何でもわかっているような顔をしていた。俺たちに細かく指示を出し、少しでも気に入らなければやり直させる。正直、一緒に働く身としてはたまったものではなかった。

でも、もしかすると、あれも彼なりに必死だったのかもしれない。

本社で思うような結果を出せず、慣れない現場に送り込まれた。そこで自分の価値を示そうとしていたのかもしれない。だからこそ、仕事のやり方にこだわり、自分の正しさを証明しようとしていたのかもしれなかった。

もちろん、それで俺たちが振り回されたことに変わりはない。ただ、目の前で泣いている角川を見ていると、少しだけ違う人間に見えた。

偉そうで、面倒くさくて、融通が利かない男。その奥には、出世競争に敗れても、どこかで自分の居場所を見つけたかった一人の人間がいたのだろう。

この一ヶ月、俺たちと過ごす中で、彼にとってこの店が、思っていた以上に居心地のいい場所になっていたのかもしれない。

そう考えると、なんだか少し寂しい気もした。

「……そっか」

俺は、それだけ言った。

角川は涙を拭い、店内をゆっくりと見回した。そして、最後の挨拶を済ませると、名残惜しそうに店を出ていった。

俺はその背中を見送りながら、心の中で思った。

まあ、いろいろあったけど、お疲れさまでした。

明日からは、ゆっくり休んでくれ。

そして、その日の夕方。

店長から連絡が入った。インフルエンザにかかってしまい、しばらく出勤できないらしい。

「悪いんだけど、あと一週間、角川くんにお願いすることになったから」

翌日、角川はいつものように店にやってきた。

「山田くん、もうちょっとよろしくね」



第六章 クリスマスイブ

今日はクリスマスイブだ。当然、彼女などいるはずもない。いや、正確には、彼女などつくるはずもない。そんな相手がいれば、こんな日にわざわざバイトを入れているわけがないのだ。

俺はクリスマスの帽子を被ってバイトをしている。なかなかいいものだ。クリスマスというのは、なんとなく人を浮かれさせる。普段と同じ場所で、普段と同じ仕事をしているだけなのに、今日は何か特別なことが起こるんじゃないかという気がしてくる。

シフトが一緒の女の子は嫌がっていた。クリスマスの帽子なんて被りたくないらしい。俺は結構楽しみにしていたのだが、どうやら温度差があるらしい。

まあ、いいじゃないか。せっかくのクリスマスイブなのだから。

俺だって、ただクリスマスの帽子を被って浮かれているだけではない。実はちょっと期待していることがある。

お客さんの女の子と仲良くなれないだろうか。

普段、バイトをしていてお客さんから話しかけられることなんて、ほとんどない。こちらから話しかける機会もなければ、向こうから話しかけてくることもない。基本的には商品を受け取って、会計をして、ありがとうございましたと言って終わりである。

しかし、今日はクリスマスイブだ。

いつもより少し気分が浮かれている人もいるだろう。クリスマスの帽子を被った店員がいれば、何かしら会話が生まれるかもしれない。そこからちょっとした雑談が始まって、うまくいけば仲良くなれたりするかもしれない。

いや、別にそんな大それたことを期待しているわけではない。

ただ、何かあったらいいなと思っているだけだ。

……。

特に何も起きない。

まあ、そう簡単にはいかないか。

クリスマスイブだからといって、急に世界が変わるわけでもない。お客さんはいつも通り買い物をして帰っていく。俺もいつも通りレジを打っている。

そんなことを考えながら働いていると、ある女性が俺に話しかけてきた。

「お兄さん」

ん?

俺は少し不自然に思う。

お兄さん? 俺?

そもそも、バイト中にお客さんから話しかけられること自体が珍しい。何か聞きたいことでもあるのだろうか。商品の場所だろうか。それとも、何か問題でも起きたのだろうか。

「ん、何ですか?」

俺が返事をすると、その女性は言った。

「靴かわいい」

……靴?

「ああ、ありがとうございます」

とりあえず礼を言う。

別に変なことではない。靴を褒められただけだ。確かに、俺の靴はかわいいのかもしれない。いや、自分ではよくわからないが。

しかし、話はそれで終わらなかった。

「かっこいいですね」

……ん?

「お兄さん、タイプかもしれないです」

…………。

ちょっと待ってくれ。

何を言っているんだ、この人は。

俺は今、クリスマスの帽子を被ってレジに立っているだけなのだが。別に何か特別なことをしたわけでもない。いつも通り働いていただけなのに、突然タイプだと言われてしまった。

いや、ありがたいことではある。

ありがたいことではあるのだが、あまりにも突然すぎる。

俺はとりあえず、心の中で考える。

まあ、そうなのか。

こういう人に刺さるのか、俺は。

いや、待てよ。

俺は昔から、ふくよかな女性にモテる。

これはいったい何なのだろうか。

別に自慢したいわけではない。そもそも、モテるという言葉を使っていいのかどうかすら怪しい。ただ、なぜかそういう傾向がある気がするのだ。

昔から、ふくよかな女性に好意を持たれることがちょくちょくある。なぜなのかはわからない。顔なのか、雰囲気なのか、それとも何か別の理由があるのか。

俺にはさっぱりわからない。

今回の女性も、まあ、そういう感じの人である。


俺は別に、女性に褒められること自体が嫌なわけではない。むしろ、褒められれば普通に嬉しい。かっこいいと言われて、悪い気分になる男はそう多くないだろう。

ただ、今は仕事中である。

俺はレジに立っている。

そして、この女性はずっと俺に話しかけてくる。

「お兄さん、いついるの?」

「毎週月曜いるわ」

……なんで出勤日を教えているんだ、俺は。

いや、聞かれたから答えただけなのだが。

「靴かわいい」

「ありがとう」

また靴の話に戻る。

いや、靴を褒めてもらえるのは嬉しい。嬉しいのだが、いったい何回褒めるのだろうか。そんなに気に入ったのだろうか、俺の靴が。

気づけば、この女性は俺のレジの横にずっといる。

ずっといるのだ。

一分や二分ではない。五分、十分と時間が経っていく。それでも、まだいる。

俺は仕事をしている。仕事をしながら、話しかけられれば返事をする。すると、また何か話しかけられる。

そんなことを繰り返しているうちに、どうやら二、三十分ほど経ってしまったらしい。

二、三十分である。

クリスマスイブの貴重な時間を、俺はこの女性と過ごしている。

本来ならば、俺はもっと違うことを期待していたはずなのだ。

クリスマスの帽子を被って、若い女の子のお客さんとちょっと仲良くなって、もしかしたら何かいいことがあるかもしれない。そんなことを考えていたはずなのに。

現実はどうだ。

なぜか見知らぬ女性に口説かれている。

人生とはわからないものだ。

とはいえ、ずっと嫌な気分だったかといえば、そうでもない。

正直、少し面倒くさい。こちらは仕事中だし、ずっと相手をしているわけにもいかない。できれば、そろそろ帰ってくれないだろうかとも思う。

しかし、褒められること自体は悪くない。

かっこいいですね。

タイプかもしれないです。

普段、そんなことを言われる機会はほとんどない。少なくとも、俺がレジに立っているだけで、こんなに積極的に好意を示されることはない。

だからまあ、これはこれでいいのかもしれない。

俺はクリスマスイブに、女性と談笑している。

相手は、俺が当初期待していた女性とはまったく違う。

それでも、話しかけられて、褒められて、適当に返事をして、気づけば一緒に時間を過ごしている。

何をしているんだろうな、俺は。

そんなことを思いながらも、結局、俺はその女性と話し続けている。

そして、気がつけばバイトも終わりに近づいていた。

クリスマスイブも、もう終わる。

俺は今日、何か特別な出会いを期待していた。けれど、結局、思い描いていたようなことは何も起こらなかった。

その代わり、よくわからない女性に二、三十分ほど口説かれた。

まあ、こういうクリスマスイブもあるのだろう。

バイトが終わる頃、社員さんに声をかけられた。

「ケーキいる?」

ケーキ?

いるに決まっている。

ありがたく持って帰ることにした。

なんだかんだ、今日はケーキまで手に入った。女の子と仲良くなるという当初の目標は達成できなかったが、ケーキをもらえるのなら、それはそれで悪くない。

俺は自転車に乗り、帰路につく。

夜は冷える。

ペダルを漕ぎながら、ふと空を見上げる。


クリスマスイブの夜空に、星が輝いている。

俺はケーキを持って、自転車を漕いでいる。

でも、今日の星はとても綺麗だ。

それだけは、間違いない。





第七章 タバコ番号で言ってもらっていいですか?

バイトを始めて、約一年が経った。

就職活動は順調に進み、俺は日系の某大手企業に就職する予定だ。時給一一五〇円の生活も、とうとう終わりを迎える。

正直、もう飽き飽きしていた。

毎朝六時に起きて、九時まで働く。三時間の労働を週三回。もらえる給料もたかが知れている。

それでも、店長や社員さんには感謝している。俺がこの一年間、さほどストレスを感じずに働けたのは、この人たちのおかげだと思う。

一部のお客さんを除いて。

そして、俺は一つのことに気づいていた。

俺は接客が苦手だ。

お客さんから突然何かを要求されると、何を言われているのかわからず、あたふたしてしまう。

なぜなのだろう。

自分に自信がないからなのか。それとも、一年間働いてきたにもかかわらず、レジのシステムについて知らないことが多すぎるからなのか。

そもそも、このシステムが複雑すぎるのではないか。こんなもの、俺一人でどうにかできるわけがない。

俺はそんなふうに考えていた。

ある日、店長に呼び出された。

怒られたのだ。

「山田くん、もっとテキパキ動けるだろ」

衝撃だった。

いつも優しい店長が、こんなことを言うとは思っていなかった。いったい何があったのだろう。

詳しく聞いてみると、どうやら俺は、お客さんに何かを言われたあと、何をすればいいのかわからず、その場に立ち尽くしてしまっていたらしい。

ぼーっとして、結局何もできないままバックヤードに引っ込んでしまう。お客さんはいつまでたっても対応してもらえず、イライラしていたという。

そんなの、仕方ないじゃないか。

俺にはわからないのだから。

……いや、本当にそうなのだろうか。

確かに俺は、お客さんに何かを言われるたびに、わからない自分に腹を立てながら、とにかく何かしようと動いていた気がする。

それでも、うまくいかない。

何が正解なのかわからない。何をすればいいのかわからない。自分ではどうしようもないと思っていた。

しかし、店長からすれば、そんなことは関係ないのだろう。

お客さんを待たせてしまったこと。それは事実なのだから。

俺はさらに自信をなくした。

そして翌日、もっと嫌なことが起こった。

お客さんから、理不尽なクレームをつけられたのだ。

俺は体が小さく、細い。おじさんからすれば、舒めやすい相手なのかもしれない。

俺はよく笑われる。

「おい、舐めてんのか?」

「俺の言ってること、わかんねえのか?」

そんなことを言われることがある。

俺はそのたびに、どうしたらいいのかわからなくなる。何か言い返したい気持ちはある。自分の中では、相手がおかしいと思っていることだってある。

それでも、はっきりと言えない。

あたふたしていると、店長が助けてくれる。

ありがたい。ありがたいのだが、同時に情けなくもあった。

俺はいつまで、こんなことを繰り返すのだろう。

その日の夜、俺は初めて、バイトが終わってからもバイトのことを考えていた。

これまでだって、仕事中に嫌なことはあった。面倒な客もいたし、失敗することもあった。

けれど、バイトが終われば忘れていた。

その日は違った。

自転車を漕いでいるときも、家に帰ってからも、ずっと考えていた。

俺は昔から、自分の意見をはっきり言うことが苦手だった。

好きな女の子に対しても、部活のメンバーに対しても、自分の意見がないわけではない。むしろ、自分なりに考えていることはある。

それなのに、言えない。

こんなことを言ったら、関係が壊れてしまうんじゃないか。

自分の無力さをさらけ出すことになるんじゃないか。

相手に嫌われるんじゃないか。

そんなことばかり考えて、結局、何も言えなくなってしまう。

自分が正しいと思っていても、相手がどう思うかが気になる。相手に何か言われると、自分が間違っているのではないかと思い始める。

そうしているうちに、何もできなくなる。

俺はずっと、そんなことを繰り返してきたのかもしれない。

そんなある日、店長が俺に言った。

「山田くんも大変だと思うけど、頑張ろうよ」

店長は続けた。

「全員さ、正解なんてわかんないんだよ」

俺は黙って聞いていた。

「常識とかルールとか、正解とかさ。場所や状況によってコロコロ変わるんだよ。人の感情だってそうだろ。昨日まで正しかったことが、今日になったら間違いになることだってある」

店長は、特に気負った様子もなく話していた。

「だからさ、自分の意見をはっきり伝えられる人になってほしいんだよ。堂々と見えるだけでもいい。まずは、堂々とする姿勢だけでいい」

俺は、どういうことだろうと思った。

「自分が正しいと思ったことを、ちゃんと主張できる。それでいて、状況に合わせて柔軟に変えられる。そういう店員であってほしいな」

理不尽なことだってあるだろう。

でも、何が理不尽なのかだって、場所や状況、人の感情によって変わる。

そんなことをいちいち考えていたって、きりがない。

「山田くん、IT行くんだろ?」

店長は笑った。

「これから、もっと変化の激しい時代になるんだろうな。そういう時代の流れに合わせて、柔軟に生きていくしかないんだよ」

そして、最後にこう付け加えた。

「まあ、偉そうな説教だと思わないでくれよ。ただのおじさんからのアドバイスだと思ってて」

俺は、その言葉を聞いていた。

すぐに何かが変わったわけではない。

明日から急に堂々とできるようになるわけでもない。

それでも、俺は少し考えていた。

正解がわからないからといって、何も言わなくていいわけではない。

自分が間違っているかもしれないからといって、何も主張しなくていいわけでもない。

相手がどう思うかなんて、結局のところ、わからないのだ。

だったら、まずは自分の考えを伝えてみればいいのではないか。

少なくとも、何も言わずにあたふたしているよりは、ずっとましなのかもしれない。

⸻

バイトの最終日だ。

店長たちには、これまでのお礼を伝えた。今日は会えなかった社員さんにも、あとでお礼のLINEを送るつもりだ。

いよいよ、これで最後か。

そう思うと、少し寂しい気持ちになる。あれだけ飽き飽きしていた時給一一五〇円の生活も、今日で終わりだ。毎朝六時に起きて、眠い目をこすりながら店に向かうことも、もうない。

最後の出勤日となると、なんだか不思議なものだ。

俺は、最後のお客さんはどんな人が来るのだろうと、少しワクワクしていた。

最後くらい、何か印象に残ることがあってもいい。せっかく一年も働いてきたのだから、最後のお客さんくらいは、ちょっと特別な人であってほしい気もする。

そんなことを考えていると、あるおじさんがやってきた。

いつものおじさんだ。

「メビウス、6ミリ」

ああ、こういう感じか。

最後のお客さんは、いつものおじさんだった。

俺はレジに立ったまま、答えた。

「タバコ、番号で言ってもらっていいですか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。