2-5 瘴気
大気物質のひとつに過ぎない魔素は酸素や窒素同様に無味無臭だ。ただし僅少ではあるが無色ではない。空気の比率が何らかの影響で変化し、魔素の占める割合が増えると分子の発する波長が光に反射、拡散しヒトの目でも色素を認識出来るようになる。しかしこれを視覚で捉えるレベルに達すると生物にとって有害であり、とても長居が出来る環境ではない。空気の構成比の内、魔素が三パーセントを超えると肉眼でも青紫に色付いて見え、その状態以上の空気を瘴気と呼ぶ。
魔素は特定の鉱物や植物、土壌から発生する元素だが、生物の行う呼吸やその死骸からも排出される。それ故に魔獣の群生地は比較的魔素の量が多くなりやすく、ダンジョンと称される魔獣の棲家から瘴気が発生し、外部へ流出してしまうこともある。それらを間引き、整備し、管理する事も冒険者ギルド、延いては国の重要な責務だ。
では何故、そのダンジョンが存在した程近い地にフェイリックスは国を構えたのか。それには龍脈が関係している。
龍脈とは地中に気と呼ばれる未知の力が河川のように湧き流れる、ヒトでいう所の血管のようなものが張り巡らされており、その地の中心には繁栄と長久の恩恵があるとされる。謂わば験担ぎや俗信のようなものだが、デム教はこれを特に大事にしており、龍脈の波長が強く大きい地に支部を構えている。フェイリックスの起源はそんなスピリチュアルな理由から建国に至った。ただ実際に龍脈のお陰か、唯一神デムの加護かこのフェイリックスは誕生から今現在に至るまで一度も外部から攻め入られたことはなく、平和で穏やかな永世中立国としての立ち位置を崩したことはない。
フェイリックス近郊のパルウァエ森林に長きに渡り巣食っていたダンジョンが崩壊して二十年近くが経過している。幸運なことにその間、ダンジョン内部から魔獣が這い出てくることも、特筆すべき異変の発生もなかった。
だがこうして今、森林は瘴気が充満しつつある。
この異常事態を、記憶喪失の男と、妖艶なる尖耳族の二人を除いて、まだ誰も気付いていない。
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瘴気となった魔素は森林区域の中心部へ近づくにつれ、より鮮明に色付き、肌に刺さるような感覚も強くなっていく。
俺たちはエルミラが話していたダンジョンの跡地を目指している。形骸化したダンジョンの内部から蓄積した魔素が流出している可能性が高いと推考したからだ。
二人とも身体に不調は出ておらず、魔獣にも遭遇せずに済んでいる。しかし矢張りこの場を一刻も早く立ち去りたい。何度も言うが高濃度の魔素とは毒である。そんな所に彼女を長居させたくない。だがエルミラは平然と、まるで家の近所を散歩でもしているかのように涼しい顔をしている。丸耳族の俺が魔素に過敏であるだけ、という可能性もある。が、いくら尖耳族と謂えど色素を持ち瘴気を纏った空気の中で何も影響を受けないことはあり得ない。彼女の耐性がどの程度か不明だが、さっさと責務とやらに満足してもらいたいものである。
「着いたわよ」
前方を指差すエルミラ。苔生した地表が盛り上がり丘となった場所に崩落した岩が積み上がり散らばっている。恐らくはそこが洞窟の入口だったのだろう。
「……?」
てっきり洞窟内部から魔素が外部へと漏出しているものだと踏んでいた。だが違う。
入口は土砂と岩石とで隙間なく完全に閉塞されており、その気配はない。ただ、明確な異常が存在している。洞窟より少し手前。本来何も無い中空。そこに小さな亀裂が入っている。罅割れた隙間から自然瓦斯のように濃密な魔素が音もなく静かに噴き出ていた。
空間の歪み?いや、破損か?待て、そんな事象があり得るのか?前例はあるのか?なければ魔導学会に報告すれば報奨金をたんまり貰えるんじゃないのか?
どうやらエルミラにこの亀裂を認識出来てはいないようだ。俺と俺が戸惑い見つめる中空とを交互に見やり声をかける。
錯覚や空目ではない。目を擦り、瞬かせ改めて確認したが空間そのものに罅が生じている。
触れられるのか?
そっと人差し指で裂け目に触れる。すると、
ぱらぱらと、空間の一部が欠けて落ちた。
血の気が引いていくのがはっきりと分かる。
取り返しのつかない失敗をしでかした時と同じ感覚。時間の流れが緩慢に感じ、蛇ににらまれた蛙のような気分。例えば親の大事にしていた陶器を割って壊してしまった時。例えば意図せず他者を傷つけてその事を認知した瞬間。それらに酷似した状況と心情。いや、そんな記憶を持ち合せてはいないのだけれど。
欠落した破片は地面に届く前に雲散霧消し無くなった。刹那、堰を切ったように空間の穴から瘴気が噴き出した。先程までの比ではない量と濃度の魔素。嵐の後の河川の奔流のような勢いに現実逃避に傾いていた思考が咄嗟に引き戻される。
「な、何?どうなっているの!?」
これまで冷静だったエルミラが珍しく狼狽している。彼女はこの事態を把握出来ていない。当然だろう。見えている俺ですら理解が及ばない。
「説明が、その、難しい!君にはどう見えている?」
「どう、って……貴方の近く、何もない所から魔素が噴出しているわ」
つまり空間の破損だけは認識出来ていないのか。
穴の向こう側は黒に塗り潰されたような暗闇があるだけで、その先に何があるのかは測る事は出来ない。ただしそこから瘴気が生成されているのは事実であり、いつまで、どれ程の規模で噴出し続けるのかも定かではない。
この森林はとっくに有害なんてレベルの魔素濃度を逸している。しかしこのままこれを放置する訳にもいかない。この大量の瘴気が流入し続ければ、そう時間を要さずにフェイリックスにも被害が波及するだろう。つまり、逃げ場はもう断たれている。
どうにかして止めなければ。
ヒトは逼迫したり窮地に追いやられたりすると情報の処理に脳が追い付かず、思いもしない突飛な行動を取ってしまう。まさしく今がそう。意味はない……それ所か自滅行為と言ってもいい。空間の穴に被せるように両手で覆う。
閉じた指の隙間から瘴気が漏れて噴き溢れていく。皮膚が焼け爛れても可笑しくはないが、どうしてか無事である。
空間を修復する魔法の存在を俺は知らない。古今東西、そんな事例すら聞いたことがない。無意味と思いながらも両手で覆った中身を対象に人体治癒の魔法を発動した。
自己再生機能を促進させ怪我や傷の回復を早めるだけの術。例えば不治の病を打ち消したり、割れた硝子を元通りに復元出来るものではない。こんな魔法では何ら効果はないだろう。
そう思っていたのだが、結果は違った。
少しだが、瘴気の噴出が弱まった気がする。魔法を発動したまま、僅かに覆った両手を開いて中を覗き見る。空間の亀裂と穴から光が放たれ、ゆっくりと塞がっていっている。
自分自身でも何が起きているのか、どうして効果があるのか分からない。だが、このまま押し通せるかもしれない。
空気は淀みを増している。呼吸は最小限、奥歯を噛みしめ、出力は変えずに術式を安定させる事だけに神経を全集中させる。
後方からエルミラが何かを言っている。だが声が耳に届かない。
十秒か或いは一分か、それ以上か。魔法を発動させ続け、光の放出が収まるとまるで最初から何もなかったように空間の歪は消えていた。
手を左右に振って穴のあった場所を確かめる。空を切るだけで、そこには矢張り何もない。
修復、できた。
安堵から膝から崩れ落ちる。すぐにエルミラが後ろから俺の両肩を支えた。
「ねえ!私の声が聞こえる!?」
「うん……?ああ、聞こえているよ」
「貴方、突然何かの魔法を使って、それから今までずっと一点を見つめていたのよ。一体どうしたの。それに、瘴気の噴出も収まった。何か関係しているの?」
「心配かけたみたいだけど、大丈夫。ちょっと安心して気が緩んだだけ。瘴気に関しては、正直俺もよく分かっていないんだ」
エルミラは眉を顰める。別に隠し事をしている訳ではない。説明し難い状況を説明するだけの語彙も能力もないだけなのだ。取敢えず、困ったように笑って誤魔化す事にした。
「……まあ、無事みたいだし今はそれでいいわ。体は動きそう?」
「ああ。問題ないよ」
立ち上がって膝についた土埃を払う。まだ納得いっていないのだろう。エルミラは少し膨れっ面だ。
「なら悪いのだけれど、一度フェイリックスに戻りましょう。ただし、すぐに戻ってくることにはなるけれど」
「戻ってくる?どうして?」
「それが私の責務だから」
瘴気の新たな流入はなくなったが、森林の空気は相変わらず高濃度の魔素で濁っている。この場所で言い合いをするのは利口ではない。
意味深に告げるエルミラに疑問が晴れずまま、俺たちは一度フェイリックスへ戻る事にした。




