序章
宗教国フェイリックス。
嘗ては聖なる都と謳われ敬われたこの地も、今では世界最大且つ最悪のダンジョンと化し畏怖されるようになり三年の歳月が経過した。
三年。たったそれだけの期間でこの場所……否、世界は一変した。
都市の中心部に位置するフェイリックス大聖堂からは超高濃度の魔素と共に強大な力を有する異形……『悪魔』と呼称された怪物が世に放たれ続けている。
数日の内にフェイリックス全土を掌握した悪魔は更なる侵略を進め、今日までに中央大陸の八割以上を支配するまでに至る。
いくつもの国が壊滅した。幾万の者が不遇に散っていった。残された者は憎悪を募らせ、同時に己が非力を嘆いた。
世界が創造されて以来の危機的状況。これが天災であるならば或いは諦めもついたのやもしれない。
そう、これは自然現象によるものでない。人災。それもたった一人の者によって引き起こされたクーデターが発端だ。
かの者がどうして悪魔を解き放ったのか。本当に混迷の世を望んでいたのか。真偽を知る由はないが、このままの争乱が続けば全生物は衰退ないし、最悪の場合絶滅も余儀なくされた逼迫した状況であることは間違いない。
近隣諸国もただ手を拱くだけではない。騎士団や冒険者を派遣し、ダンジョンの攻略や領土の奪還を敢行。中央大陸外の首脳陣とも談合の下、日夜打開策や良案の模索を検討し協力の体制を執っている。だが実際は各地も自国の防衛だけで手いっぱいの現状だ。
この惨害に終止符を打つ救世主の出現を誰もが待ち望んでいる。
数百年前、悪魔を打倒したと言い伝えられている勇者の存在を。
◇◆◇◆◇◆◇
目覚めの気分は最悪だった。
視界は安定せず、強烈な頭痛で思考も覚束ない。
今際の際を体験したような気もするが如何せん思い出せない。
それだけではない。ここが何処で、自分自身が何者なのか。それすらも分からない。記憶喪失ってやつなのだろうか。
体の感覚が希薄だ。怪我でもしているのか、手足は全く動いてくれず、立ち上がる事が出来ず何かに凭れ掛かり座している。
辛うじて可動する首を回し周囲を確認する。室内……いや、洞穴だろうか。色付いた微かな灯りは壁から発せられている。恐らくは魔素を溜め込んだ魔石が放つ可視光線。
魔素とは酸素や窒素と同様に空気内に含まれる気体の一種であり、生物の生命活動は勿論、石ころや雑草にも影響を及ぼし、魔素を多く保有する石を魔石と総称する。魔素量が多いとこうして発光する種類も存在するという訳だ。
だが魔石が光るほどの魔素が充満する地となると早く移動しないとまずいかもしれない。魔素は生きる為に必要不可欠なものではあるが、同時に毒でもある。過剰に吸ったり浴びたりすると死ぬ場合もあると誰かに教わった……気がする。こんなことは覚えているのになあ。
そうこうしている内に視野も馴染んできた。
しかし程なくして先ほどのまま微睡んでいればよかったと後悔する。
随分と荒れ果てた場所だ。装飾のない空間。壁も地面も天井も魔石だらけ。しかし、俺が寄りかかっているのはそんな場に似つかわしくない木製の長椅子だった。
そして極め付き。
自身の目の前に異形の怪物が佇みこちらを見下ろしている。背中を丸めた姿勢だがそれでも体長は六メートル近くあるだろう。全身が黒い剛毛に覆われ、顔は偶蹄目の頭骨のような形で邪悪なほどに大きい立派な二本の角が枝状に生えている。体中に大小様々な目玉がついており、その全てがこちらを睥睨していた。見紛う事なき化け物だ。
悪夢と信じたい事態だが不思議と恐怖心はない。記憶と一緒に感情も何処かに置き忘れてしまったのだろうか。だが分からない事だらけの現状で、みっともなく喚き叫ぶよりはマシか。
『落ち着いているのね』
野獣の威嚇のようなくぐもった低い呻き声。しかしどうした事か、それは俺の知る言語で脳内で変換され意味を成していた。
『自分で言うのも可笑しな話だけれど、こんな化け物が目の前に現れたら動揺するか発狂するかしそうなものだけど』
幻聴や現実逃避を疑ったが、二度も起きると信憑性が生まれる。見てくれは不気味で醜悪だが意思疎通が可能であるならば話し相手くらいにはなるだろう。
「どうしてなのか何も分からなくてね。ここは何処なのか、自分が誰なのか。君が悪意のある魔物なのかも」
『あら大変』
禍々しい見た目とは裏腹に緊迫感のない返事をする異形。先ほどから気付いてはいたが、言葉の端々から女性っぽさを感じる。尤も、こいつに性別というものが介在していればだが。
『ふふ、なら今の貴方は空っぽなのね。それでは寂しいわ。その窕、私が満たしてあげましょう』
怪物の口……なのだろうか。顔面が十字に裂け広がり、人間一人を飲み込む事など容易な程に開かれる。疎らに生え並ぶ太く尖った獰猛な牙の奥にはまるで底の見えない暗黒空間が構築されており、昔どこかで聞いた宇宙なるものを彷彿とさせる。
「それは君のお腹が埋まって満たされるって事じゃないのか?」
逃げる気はない。元から逃げられる体ではない。
俺は成す術なく怪物に喰らわれてしまい、
虚無へと吸い込まれていった。




