バニラとチェックメイト
夕暮れの光が差し込む私の自室。静寂の中で私たち二人だけが、盤上を見つめていた。カチリ、と硬質な音が響く。私がクイーンを滑らせると、彼女のキングの逃げ道は完全に塞がれた。
「……チェックメイト」
勝利宣言は、自分でも驚くほど静かな声になった。これで私の10連勝。彼女は一度だって私に勝てたことがない。
私の向かいに座る彼女は、しかし、悔しがるそぶりも見せずに、プラスチックカップに刺さったストローをちゅーっと吸い上げた。その仕草は妙に色っぽくて、いつも少しだけ心臓が跳ねる。
「んー、負けちゃった」
あっけらかんとした声。カップの中身は、甘ったるい香りを放つバニラシェイクだ。彼女はいつも、これを飲みながらチェスをする。
「ねえ」
シェイクから口を離した彼女が、唐突に言った。
「チェックメイトってさ、バニラ味っぽいよね」
「は? 何言ってるの、意味わかんない」
私の眉間に皺が寄る。彼女の突拍子もない発言には慣れているつもりだったけど、今日のこれは特に意味不明だ。
「だってさ、どっちも語源を辿ると、ちょっとだけ扇情的じゃない?」
悪戯っぽく笑う彼女に、私は返す言葉が見つからない。
「チェックメイトの語源、知ってる? ペルシャ語の『シャー・マート』。意味は、『王は途方に暮れた』」
「へえ、そうなんだ。かっこいいね」
「でしょ? 追い詰められた王様が『もうダメだぁ…』ってなってる状態。これは降伏宣言じゃなくて、絶望の独白なんだって」
彼女は得意げに胸を張る。その知識がどこから来たものかは知らないが、妙な説得力があった。
「じゃあ、バニラのほうは?」
私は彼女の手元にあるシェイクを顎でしゃくった。
「バニラの語源は、スペイン語の『vaina』」
「ばいな?」
「そう。意味は『小さな鞘』。あのバニラビーンズの形が、剣を収める鞘に似てるから、そう呼ばれるようになったんだって」
「へえ、物知りだね」
素直に感心すると、彼女は嬉しそうに目を細めた。夕日が彼女の長い髪をオレンジ色に染めている。綺麗だな、なんて、場違いなことを考えてしまった。
「でね」
彼女はぐっと身を乗り出し、声を潜めた。彼女の甘い香りが、ふわりと私の鼻腔をくすぐる。
「その『vaina』って言葉、もう一つの意味にも繋がるんだよ」
「もう一つの意味?」
「うん。……ヴァ◯ナ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。数秒の間の後、その単語が指し示すものを理解して、私の顔にカッと熱が集まる。
「なっ……!?」
「女の子の、あそこのこと。語源、同じなんだって」
信じられない、という顔で彼女を見つめる私を、彼女は笑みを深めながら見つめ返し、追い打ちをかけるように続けた。その瞳は、盤上のキングを追い詰めるクイーンのように、爛々と輝いている。
「『王は途方に暮れた』っていうチェックメイトと、『小さな鞘』からきてるバニラ。どっちもさ、なんかこう……追い詰められて、甘い香りに包まれて、どうしようもなくなっちゃう感じ、しない?」
彼女の顔が、すぐそこにあった。長い睫毛、ほんのり色づいた唇。
「王様を追い詰めて、その『小さな鞘』に収めちゃうの。甘くて、とろけるような香りで抵抗できなくさせて。……まさに、バニラ味のチェックメイト」
思考が停止する。心臓が早鐘を打って、うるさくてたまらない。彼女の言葉の意味を、これ以上考えたくなかった。でも、その蠱惑的な響きから耳を逸らすこともできない。私は完全に「途方に暮れて」いた。盤上の王様みたいに。
「……な、に言ってんのよ……ばか」
絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。
私の反応を見て、彼女は満足そうにふっと笑うと、ゆっくりと身を引いた。そして、すっと立ち上がる。
「ま、そういうわけで」
彼女は空になったシェイクのカップを片手に、くるりと私に背を向けた。
「この勝負、私の勝ちってことで」
「はあ!? チェスは私が勝ったでしょ! 10連勝!」
思わず立ち上がって反論する。訳が分からない。
彼女は、悪戯が成功した子供のように振り返り、私の耳元で囁くみたいに、でもはっきりと聞こえる声で言った。
「盤上の勝負には負けたけど、キミを『途方に暮れさせた』から。私がキミをチェックメイトしたんだよ」
確かにそうだ。チェスのルール上は私が勝者。でも、この空間を支配し、私の心を揺さぶったのは彼女だった。言葉という駒で、見えない盤上で、私はとっくに追い詰められていたのだ。完敗だった。
呆然と立ち尽くす私を残して、彼女は部屋を出ていこうとする。
「あ、そうだ」
ドアを開ける直前、彼女は思い出したように付け加えた。
「ちなみにさっきの語源の話、ぜーんぶネットで拾った受け売りだから。あと、このシェイク」
彼女はカップを軽く掲げて、ぺろりと舌を出した。
「今日のはストロベリー味だよ」
「えええええええ!?」
部屋の中に私の絶叫が響き渡った。
「またあした! 今度は一緒にバニラ食べようね」