9話
エラティーナと兄を乗せた馬車は、そのまま王都に向かった。
王都にある屋敷に向かっているのだろう。
ならば、馬車で半日くらいだろうか。
斜め向かい側に座っている兄は、エラティーナの存在などまったく気にかけていない様子で、馬車の外を見ていた。
その冷たい横顔は、父によく似ている。母の願いでなければ、わざわざ家を出た妹を探し出すようなことはしなかっただろう。
(ナラール、ごめん。すぐに戻るから)
遠くなっていく町を見つめながら、今もまだ部屋で眠っているだろう相棒のことを考える。
いつまでも素性を隠すのは、相棒に対して誠実ではないとわかっている。
トラブルに巻き込んでしまう可能性もある。
もう家を出た身とはいえ、きちんと伝えるべきだろう。
帰ったらナラールにすべてを話そう。
エラティはそう決意して、目を閉じた。
会話もなく、目も合わせることもない兄と過ごした半日。馬車は夜になってようやく、伯爵家の別宅に辿り着いた。
「裏口へまわれ。こそこそと家を出たお前が、正門から入ることは許されない」
冷たい口調で、兄はそれだけ言うと、そのまま正門から入っていく。
兄から言われなくとも、正面から入るつもりはなかったエラティーナは、門から出てきた屋敷の者に案内され、裏口から屋敷に入る。
そこでは三人の侍女が、エラティーナを待ち構えていた。
「エラティーナ様、まずは御着替えを。そのような姿で、奥様に会わせるわけには参りません」
旅の剣士姿のままだったエラティーナは、侍女の冷たい言葉に、ここに自分の味方は誰もいないのだと知る。
もともと価値観が違うことはわかっていたので、気にならない。着替える必要も感じなかったが、病床の母には少し刺激が強いかもしれない。
だから母のために、ドレスに着替えることにした。
着替えを手伝ってくれた侍女は、エラティーナの日焼けした肌や小さな傷跡をみて、忌まわしそうに顔をしかめている。
それでもエラティーナは、しっかりと顔を上げて前を見た。
たとえ他人にどう評されようと、自分で選んだ道だ。
(それに私が俯いていたら、相棒のナラールに申し訳ないから)
自分で選んだ生き方を、後悔はしていない。
二年着なかっただけで、長いドレスの裾に躓いて転びそうになる。
そのたびに侍女たちに顔を顰められる。彼女たちはエラティーナをリーン伯爵家の令嬢として扱っていない。
きっと父か兄に、そう言われているのだろう。
でもそんなことはまったく気にせず、エラティーナは母の待つ部屋に向かう。
母の顔を見たら、またすぐにナラールのところに戻るつもりだった。
「……え?」
けれど、母の寝室だと言われて案内されたその部屋は、普通の応接間だった。
しかもそこには、先ほど別れた兄と、ひさしぶりに会う父の姿があった。
もちろん、病気で臥せっている母の姿はない。
「……母様は?」
「母上は、最初から自分に娘などいなかったと言っている」
冷たくそう言った兄の言葉に傷つくよりも困惑して、エラティーナは兄を見上げた。
「それならなぜ、私を呼び寄せたのです」
「セルディとの婚約は、正式に決定したものだった。しかも、結婚式の日程まで決まっていた」
父は何も言わず、代わりに答えたのは兄だった。
「それが、お前が勝手に失踪したせいで台無しになり、その賠償として、リーン伯爵家は鉱山をひとつ失った」
「それは……」
マローナ侯爵は、最初からそれが狙いだったのかもしれないと、エラティーナは考える。
彼は息子のセルディが、恋人と別れるつもりがないことを知っていて、エラティーナを指名した。
もしそのまま結婚すれば、跡継ぎのセルディは、爵位に釣り合った妻を迎えることができる。
それが形だけの妻だとしても、マローナ侯爵はかまわなかったのだろう。
そして結婚を嫌ったエラティーナが失踪すれば、正式に成立した婚約を破談にした賠償として、鉱山を奪うことができる。
「私は、嫌だと何度も伝えました」
「お前の意見など、必要ない。言われたままに結婚すればよかったのだ」
兄は激高しているが、父は兄にもエラティーナにも興味がないようで、手元の書類を見つめている。
「あれから二年経過したが、セルディにはまだ婚約者がいない。そこで、お前をもう一度婚約者にしてやるそうだ。マローナ侯爵家から迎えが来るから、そのまま向かえ。……言っておくが、お前に拒否権などない」
エラティーナが失踪したあと、セルディは何度か新しい婚約をしようとしたようだ。
けれどあの条件を付きつけられて、結婚を承諾する令嬢などいないだろう。
いくら相手が侯爵家とはいえ、何の利益ももたらさない結婚である。
そこで再び、リーン伯爵家に話を持ちかけた。
あんな条件でも娘を嫁がせてもいいと言うのは、父くらいだ。
もちろんエラティーナも、そんな結婚を承知するつもりはない。
母が病気だと言われて、あっさり信じてしまった自分が情けない。ナラールが知れば、やっぱり世間知らずだな、と笑われてしまうだろう。
「……私は結婚しません」
そう言うと、兄の視線が鋭くなる。
父もようやく顔を上げて、不快そうにエラティーナを見た。
「お前は自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「ええ、もちろん。結婚しませんと言いました。私はもう、リーン伯爵家の娘ではありません」
冒険者のエラティ。
自分の居場所は、ナラールのところだ。
それに、とエラティは続けた。
こう言わなければ父も兄も納得しないだろう。
(ごめん、ナラール )
相棒に心の中で謝罪をして、エラティは父と兄に笑顔を向けた。
「実は、もう結婚しているのです。だから、マローナ侯爵家に嫁ぐことはできません」