8話
翌日には雨も上がり、エラティは少し二日酔いの頭を抱えながら、ナラールと一緒に町を出た。
ふたりが拠点にしているのは、王都に近い大きな町にある、長期滞在用の宿である。
依頼なら王都のほうが多いが、家を出た身としては、なるべく近寄りたくない。それに、人が多いこの町では、依頼も途切れることはない。
一緒に借りている部屋に戻り、荷物を置いて着替えをすませたあとで、次の依頼を探すために冒険者ギルドに向かう。
「ナラール、出かけてくるね。昼食を買ってくるから」
そう言うと、小さな声で返事が聞こえた。
きっと寝室に転がっているのだろう。
冒険者ギルドに、彼が同行することはほとんどなかった。普段から依頼の選択などは、すべてエラティーナに任せられている。
帰宅してすぐにギルドに向かうのは、緊急性のある依頼がないか、確かめるためだ。
もし犠牲者が出るような依頼があれば、その日のうちに向かうときもある。
それにはナラールも同意してくれている。たとえ雨が降っていたとしても、一刻も早く魔物を退治しなければ、犠牲者が増えると聞けば、即座に行動する。
他にも女剣士に偏見のない人や、戦う女性魔導師もいたかもしれない。
でも、エラティーナと同じ気持ちで依頼に向き合えるのは、きっとナラールだけだ。
彼と出会うことができてよかったと、しみじみと思う。
「あ、エラティ!」
冒険者ギルドの、年季が入って少し軋んだ扉を開くと、馴染みの受付の女性が慌てた様子で声をかけてきた。
「よかった。やっと帰ってきてくれたのね。ちょっと大変なことになっているのよ」
「……大変?」
彼女がどうしてそんなに慌てているのかわからず、エラティーナは首を傾げる。金色の美しい髪が、その動きにつられてさらりと流れた。
この二年で、髪も前と同じくらいの長さまで伸びてきた。
「うん。ここ数日、あなたを探し回っている男がいるの。それが……。どうやら貴族みたいなのよ」
「え?」
この国には、残念なことだが横暴な貴族が多い。美しいエラティーナが目をつけられてしまったのではないかと、とても心配してくれていたのだ。
「ひとりで出歩かないほうがいいよ。ナラールと一緒にいれば安心だから」
「……」
たしかに、彼女が言うようにナラールは強い。
本当に無関係な貴族に目を付けられているだけならば、そうすればいいだろう。だが、もし実家の人間だったら、彼に会わせるわけにはいかない。
エラティーナは、その人物の特徴を詳細に尋ねた。
「どんな人だった?」
「ええとね」
金色の髪。背が高くて、冷たそうな若い貴族の男。
その人物は目立っていたらしく、ちょっと聞き込みをしただけで、いたるところで目撃情報を得ることができた。
(兄様、かもしれない)
確証を得られなかったのは、エラティーナ自身も、長い間兄に会っていないからだ。
でも家を出てから、もう二年。
一度も探す素振りを見せなかった兄が、今さら何の用なのか。
どうしてエラティーナが、この町にいることを知っているのだろう。
逃げてきたつもりだった。
それなのに居場所を特定されていたことを知って、背筋が寒くなるような、嫌な感覚がある。
もちろん、会いたくない。会うつもりもない。
このまま放っておいて、さっさと遠方の依頼を受けて町を出てしまいたい。
そう思ったが、この居場所が特定されているのならば、どこに行っても無駄かもしれないと思い直す。
これ以上周囲の人たちに心配をかけたくないし、何よりもナラールが一緒にいるときに、兄に会いたくない。
ならば自分から会いに行ったほうが、ダメージは少ないかもしれない。
そう考えて、エラティーナは歩き出した。
聞いた話を照らし合わせると、兄が目撃されているのはだいたい夕刻のようだ。
(まだ昼前だし、夕方になったら目撃情報のあった場所に行ってみよう)
そう思い、とりあえず昼食を買って帰ろうと、商店街に立ち寄る。
そこでも、顔馴染みになったたくさんの人たちが、エラティーナを心配してくれていた。その優しさに、乱れていた心が宥められていく。
兄が何を言ってきても、もう関係ない。
自分の居場所はここにある。
焼きたてのパンと、シチューを買って家に戻ろうとした。
だが借りている長期滞在用の宿の前に、見覚えのある馬車が止まっていた。その隣に立つ、長身の姿。エラティーナは立ち止まり、唇を噛み締める。
兄はもう、この場所まで探り当てていたのだ。
「……兄様」
固い声でそう呼びかけると、彼は振り向いた。
エラティーナよりも色素の薄い金髪に、水色の瞳。
容貌は整っているが、酷薄な表情は、その魅力をすべて帳消しにするくらいだ。
「エラティーナか。もうどこかで野垂れ死にしているかと思っていたが、こうして再会できるとは喜ばしいことだ」
「……」
ほんの少しだけ、エラティはもしかしたら兄が心配してくれていたのではないかと思ってしまっていた。それは期待と呼べるほど形を成していたものではなかったが、兄の冷たい言葉はそんなものさえあっけなく打ち砕いた。
「……私に、いまさら何の用ですか」
何とか返した言葉は、みっともなく震えていた。もしナラールがこんな弱々しい声を聞いたら驚くだろう。
「私と父は、もうお前に用などない。……だが、母は違うらしい。先月から病に臥せっている母が、どうしてもお前に会いたいと言っている。もう長くはないかもしれない」
「そんな……。母様が、どうして!」
兄の冷たい言葉よりも、母が危篤だという知らせに動揺して、エラティは声を上げる。
もう長い間会っていなかったが、母はまだ若いはずだ。それが急に危篤だと言われても、信じられなかった。
「どうして、か。お前に原因があるとは思わなかったか?」
「……それは」
責めるような言葉を浴びせられ、もう何も言えなくなる。
世間体を気にする母にとって、娘が結婚を嫌って出奔したなど、耐え難いできごとだったに違いない。
「わかったならば、さっさとついてこい。せめて顔を見たいという母の願いを、父も叶えてやりたいようだ」
「……はい」
あの父が、まったく興味を持たなかった娘を兄に探させてまで呼び寄せるくらいなのだから、母の容態は悪いのだろう。
さすがに、会いたくないとは言えなかった。
エラティは宿の受付に買ってきた昼食と、急用ができたから少し実家に寄ってくるという伝言をナラールに伝えてくれるように頼み、部屋に戻ることなく馬車に乗り込んだ。