10話
二年間、家出をしていた間に結婚したのだと、エラティーナは父と兄に告げた。
「何だと?」
「相手は魔導師のナラール。一緒に暮らす予定で家も購入しました。ですから他のひとと結婚することはできません」
セルディの父のマローナ侯爵は、子爵家や男爵家の令嬢では家格に釣り合わないと、彼の恋人との結婚を反対している。
いかに伯爵家の令嬢とはいえ、二年間も市政で暮らし、しかも平民と結婚したと聞けば、絶対にセルディと結婚させようとは思わないだろう。
父と兄はさすがに驚いたように顔を見合わせたが、やがて兄は吐き捨てるように言った。
「平民と結婚するなど、我が家の恥さらしめ。もう二度と、この屋敷に足を踏み入れるな」
もともと家を出たときから、エラティーナはそのつもりだった。
「ええ、わかっております」
そう言って、そのまま部屋を出ようとした。
「待て」
そう言ったのは、驚いたことに父だった。
「その結婚が本当のものなのか、調べろ。マローナ侯爵に、縁談を断る口実だと思われたら面倒だ」
「そうですね」
父の言葉に、兄も同意した。
「マローナ侯爵家を敵に回すのは、得策ではありません。そして後々面倒なことにならないように、エラティーナが恥ずべき行為をしたと正式に発表し、勘当すればよいのではないでしょうか」
恥ずべき行為とは、平民と結婚したこと。
そして面倒なこととは、エラティーナの夫となった男が、リーン伯爵家を利用しようとすることだと兄は言う。
「うむ……。そうだな」
父は少し思案したあと、頷いた。
「ならばエラティーナ。お前の夫をここに連れてくるがいい」
「え」
エラティーナは動揺して、視線を彷徨わせる。
(どうしよう。とっさに嘘を言ってしまったせいで、大変なことに……)
父は勝手に結婚したエラティーナに怒り、娘の存在を今度こそ抹消するだろう。そうすれば今まで通り、町中で暮らしていける。そう思ったのだ。
浅はかな考えだったかもしれないが、兄はそのつもりだった。
「エラティーナはここで待つように。私が連れてきます」
その兄が、そう言って部屋を出ていく。
「まっ……、待ってください……」
思わず縋るように後を追うと、兄は振り向く。
「どうかしたのか? エラティーナ」
「わ、私が行きます。彼は、私が伯爵家の娘であることを知らないのです」
震える声で必死にそう言うエラティに、兄は笑みを浮かべる。
それは、背筋がぞっとするような残酷な笑みだった。
「ならば私から、お前が何者なのか、自分が何をしたのか伝えることにしよう。もっとも、お前がそう思っているだけで、向こうは知っている可能性がある。それが目的で、お前に近寄ったのかもしれないな」
「ナラールはそんなひとじゃない!」
兄は、思わず声を上げるエラティを冷ややかに見つめる。
「そう信じているのならば、おとなしく待っていればいい。……すぐに戻る」
もう兄を止めることができず、エラティーナはその後ろ姿を見送るしかなかった。
(どうしよう……。こんなに迷惑をかけるつもりなんて、なかったのに)
ここでもしナラールが結婚を否定すれば、それで話は終わる。
エラティーナはセルディと結婚させられてしまうかもしれないが、ナラールを巻き込むくらいならばそれでもいい。
それに、あの兄の残酷な笑み。
何かよからぬことを企んでいるのかもしれない。
兄が出かけると父は退出し、エラティーナは部屋に閉じ込められた。さきほどの三人の侍女がエラティを監視している。
(もう今日は遅いし、兄様が出発するとしたら明日の朝。向こうの町に着くのは昼過ぎになる。それよりも早く、何とかナラールに連絡を取らないと)
信憑性を出そうと思って、彼の名前を出したのは本当に軽率だった。
(いっそ、窓から飛び出してしまおうかな)
窓をちらりと見るが、それを察したらしい侍女が首を横に振る。
「リーン伯爵家お抱えの魔導師の結界が張ってあります。宮廷魔導師に匹敵するほどの力を持ったお方です。無駄なことはおやめになったほうがよろしいかと」
(魔導師の結界? そんなものまで……)
一度出奔したので、父も兄もそれを警戒しているようだ。
何もできないまま、夜が更けていく。
侍女たちが別室で休んでいる間も、エラティーナはまったく眠ることができずにいた。
何度壊そうとしても、結界に覆われた窓にはヒビひとつ入らなかった。その魔導師の結界を信用しているのか、窓から見える景色に人影はない。
(ここから出るのは無理、かな……)
しばらく扉を開けようとしたり、もう一度窓を壊そうとしてみたが、打つ手がない。エラティーナは真夜中過ぎになってようやく諦めて、寝台の上に座って膝を抱える。
静かな夜だった。
こうしていると、自分の気持ちがよくわかるような気がする。ナラールのことは心配だが、彼は本当に強い。こんな結界だって、ナラールなら簡単に破れるだろう。
ならば自分は、何を恐れているのか。
(わたしは、ナラールに知られるのが怖いんだ)
自分の出自を隠していたことで、二年かけて築いてきた絆が壊れてしまうかと思うと、それが恐ろしい。
(ナラールは怒るかな。もう相棒だなんて言ってくれないかもしれない。もしそうだったら、どうしよう……)
エラティーナが怖いのは、それだけだ。
父と母、そして兄に疎まれても、いまはもう何とも思わない。
ただ唯一の相棒の、信頼を失ってしまうのが怖くて。
寝台の上に小さく丸まったまま、いつのまにかエラティーナは眠ってしまっていた。
目が覚めたら、いつもの安宿にナラールと一緒にいる。
そうだったらいいのにと思いながら。