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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
松風
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 入道の大井の山荘の改修が終わるまでは、姫の上洛はあり得ないことを源氏は知っていた。

 姫を迎えるべき山荘の改修は源氏の御堂とすぐ目と鼻の先で、ほとんど同時進行で行われている。この両方が完成しない限りは静かな嵯峨野に戻らないから、環境的にも姫の上洛はその後ということになろう。

 だが、もっと大切なのは姫自身の意志だ。まだ源氏にはふみは来ない。父の入道のもとにも、あまりいい内容の文はあれから来ていないという。本人はまだ上洛を渋っているのだ。

 そうこうしているうちに都の盆地は、湿気の多いうなるような暑さの続く毎日となった。

 源氏は突然訪ねて来た九条大納言とともに、釣殿で扇を使って涼を取った。

「この頃どうも体が思うように動かなくてね」

 池面を見ながらつぶやく源氏の隣で、九条大納言は渋い顔で座っていた。

「食欲もないんだ。この暑さのせいかな。暦の上ではもう秋なのだがね」

「気をつけた方がいい。二十代のなりたて、三十代のなりたて、四十代のなりたてなどが、いちばん体調を崩しやすいっていうからね。つい今までと同じつもりで体を使ってしまうんだな。意識が変わっていなくても、体がついていけないんだよ」

 大納言は渋顔ながらも、だいぶ落ち着いてはきていた。何しろ先ほど二条邸を訪れた時は、案内の家司をも追い越して、はたはたと渡殿を駆けてきたのだ。それからというもの、天地が引っくり返ったような大騒ぎだった。

「王女御ご懐妊」

 これが、大納言によって二条邸にもたらされた知らせだった。帝にとっては、初めてのお子である。この日は六日に一度の假日で、宮中の公務は休みだ。その大納言の九条邸に、今朝知らせが入ったという。それで、とりもとりあえず大納言が駆けつけたのが源氏の二条邸であった。

「いかが致そう。源氏の君様、いかが致そう」

 まさかあの帝の御体ではお子をお作りになるのは無理だと思っていたので、源氏も少なからず驚いていた。だが今は、取り乱す大納言を静める方が先決問題のようにも思われた。

「しかしまだ、男皇子おのこみこだと決まったわけではあるまい」

「そうは言っても、半分はその可能性があるんだ。男皇子ならそのまま東宮だろう? 私は賭けに負けたことになる」

 頭を抱え込む大納言を、とりあえず源氏は釣殿にといざなったのであった。

 鯉が跳ねた。よく晴れた空を、池水は反映している。空には四周の山の数倍も高く、入道雲がそびえ立っていた。

「王女御の母はわれらが姉、でも御父は大后腹の前坊、その遺児の女御殿だから大后様は必ずその御子を東宮にされる。父関白から見ても自分の外孫の子となるから、反対はするまい。そのためにわざわざ、今まで東宮を空席にしておいたのだからな」

 今は静かになってはいるが、それでも大納言はため息ばかりついている。

「まだ賭けは終わってないんじゃないかな」

 源氏はにやりと笑った。

「男皇子か皇女ひめみこかという賭けだよ。それにたとえ男皇子だとしてそれが東宮に立ったとしても、小野宮大納言に負けたことにはならないさ」

「そうか、共倒れだな。ご懐妊されたのが梨壷女御殿ではなかったのが、せめてもの救いだ」

「そうだよ。今頃は、小野宮の方でも大騒ぎだろうな」

 懐妊が今知れたということは、すでに身篭ってから二、三ケ月はたっているだろう。

「来春が勝負だ」

 いつしか大納言も、苦い笑みを取り戻していた。


 ようやく風の中に、秋の気配を感じる頃となった。毎日が何事もなく過ぎていく。ただ先例としきたりが、過不足なく繰り返されるだけだ。宮中にあっては、時間が動いているのか止まっているのかも分からない。本当にあの兵乱の騒ぎが嘘のようだ。

「明石の姫君様は、まだ見つからないのですか?」

 西ノ対の上も、時折は心配の言葉を源氏にかけてくれる。実は源氏はまだこの妻に、明石の姫がすでに見つかっていて、しかしながらその姫が上洛を拒んでいるということは伝えていなかった。もしそれを告げたら、今は心配してくれている妻だが、さらに複雑な心境に彼女を陥れてしまうであろうと源氏は思ったからである。

 源氏は西ノ対から寝殿に戻った朝、出仕前に思い立って筆をとった。姫にいくら文を書いても返事はもらえない。そこで今は姫の庇護者となっているはずの尼僧へと、相手を変えて文をしたためようと思ったのである。

 その返事は、十日をあけずにすぐに来た。


 ――「をんな君はただただみのほどを思ひしり給へるよしのたまひはべるに、尼の身はあながちにえのぼらせまうせざるがつらきこと。のぼるともつれなき御ありさまに、わたり給ふをまつばかりにうらみもものおもひもまさりぬべくあれば、なかなかいまは仲をもたちなんとばかりのたまふほどに、御こころばせをしのび給ふるにいといとはしくこそ思う給ふれ」――


 源氏はため息をついた。

 文の中にあった「たとえ上洛しても、あの人がいらっしゃってくださるのをいつかいつかと待ち焦がれるうちに、恨みも物思いも募るでしょうから、かえってなかった縁としてしまった方が……」という姫の言葉は、本心かどうかは分からない。

 だが姫は、警戒している。自分は信用されていない。いや、姫は自分を信用していないのではない。男を信用していないのだ。

 強い女だ……と、源氏はなぜか感心さえしてしまった。初めて忍んで行った折、自分を避けて簀子から裏の谷間へ身を投ぜんとまでした女だったことを、ふと源氏は思い出した。

 とにかく待とうと、源氏は思った。今はそれしかできない。大井の山荘が完成してからの話だ。そしてその時は、姫の父である入道にすべてを任せるしかない。

 大井の山荘も御堂も、来春には完成する。その「来春」には、一つの生命いのちが産声を上げるはずだ。


 その後、何事もなく秋は深まって冬が訪れ、年は暮れて正月となり、九条大納言が賭けをしたところの「来春」になった。

 そのころには急に世の中も慌ただしくなり、前年までの平穏さが嘘のようにも感じられるようになった。

 まず正月早々、風の強い晩に大和の長谷寺が全焼した。本尊の観音像も含め、すべてが灰燼に帰したのである。長谷寺といえは東大寺と並ぶ古刹で、貴族たちの崇敬も深い寺なので宮中も大騒ぎだった。建立以来二百二十四年の歴史さえもが、すべて灰になってしまった。人々は何か、不吉な予感を覚えた。

 案の定、せっかく人々の間で忘れ去られつつあった記憶を甦らせるような事件が起こってしまった。美濃介が暗殺されたのである。国府の役人が暗殺されるのはよくあることで、たいてい圧政に苦しむ領民がたまりかねてというのが一般的な筋書きである。今回もただの美濃介の暗殺なら、そのたぐいとして片づけられてしまったであろう。

 だが彼は、西国の海賊の乱の折に捕らえられた海賊の首領の前伊予掾を、都への護送の途中の獄中で殺害したという噂のある人物だった。すなわちこの事件は西国の海賊の仇討ちで、その勢いが巻き返すのではないかと人々は恐れたのである。よって宮中でも陣定が重ねられ、源氏はまたしても多忙な毎日となった。

 そして都で戌の刻に皆既月食が見られた頃、ついに例の産声は上がった。太政大臣の小一条邸でであった。

 知らせを受けた源氏はそのまま夕刻であるにもかかわらず、遠い九条邸へと車を向かわせた。九条大納言は何度もうなずき、源氏の手をとった。

「勝ったな、賭けに」

 源氏がひと言だけ言うと、大納言は無言で笑顔を作った。

 皇女ひめみこ御誕生――それでも帝にとっては初の子なので、たいそうなお喜びようだということも人々の間に広まっていた。

「世の中は動くぞ」

 と、大納言は言った。たしかにまるで時の流れが止まっていたかのような宮中に、やっと時代の流れが流れ始めそうである。その大納言の言葉を裏付けるかのように、春の除目が更衣ころもがえが過ぎるころまでずれ込んでやっと発表になった。

 小野宮大納言が右大臣になった。これで長らく空席だった右大臣の席が埋まり、六年ぶりに左右の大臣が並び立った。そしてその日のうちに、小野宮の任大臣大饗も催された。仕方なく源氏も参列したが、その席で源氏は九条大納言の袖を引いた。

「君は関白太政大臣のお目がお黒いうちは、小野宮殿の右大臣就任はあり得ないって言っていたじゃないか」

 大納言はにやっと笑い、源氏に耳打ちした。

「わけがあるのさ。今に分かる」

 この男がこの笑いを見せるときは、たいてい肉を斬らせて骨を斬る式に、自分にさらに優位な状況が約束されている時だ。何しろ兄よりも次男の彼の方が、父の太政大臣と濃くつながっている。だが、いったいどのような状況が約束されているというのか……左大臣も太政大臣も存在している以上、右大臣就任を超える優位な状況とは何があるのか……。

「源氏の君様、楽人参入致しました」

 小野宮家の家人が、源氏に言った。源氏は腰を上げねばならない。ここでも琵琶を弾ずることになっていたからである。


 この年の春の除目は、ほかには京官に関しては大きな異動はなく、参議が新たに二人加わったのみだった。

 一人は源氏と同年齢の源氏の異母弟で、源氏と同時に源姓を賜った人だった。源氏が第一源氏で、この新宰相が第二源氏であった。ただ、人付き合いが苦手な人で、源氏もこれまで多くは接していなかった。そしてもう一人の新宰相は九条大納言の弟で関白の三男の、これまで頭中将だった人である。頭中将の後任にはさらにその弟の、何かと源氏に敵対心を見せるあの小一条の君がなった。これで、宮中で顔を合わさねばならない機会も増えてしまうので、源氏は気が重かった。どうしてもこの若者は苦手だ。


 その月のうちに、ことごとく九条大納言の言葉通りにことは運んでいった。名実ともに、彼は勝ったのである。しかも彼がそのことを前もって知っていたという事実は、あの小野宮新右大臣就任の時に見せた含み笑いの中にあった。

 三品大宰帥十四宮は後宮の凝華舎――梅壷へと遷った。そして帝は紫宸殿において、宣命を読まれた。

 十四宮の立太子である。

 世間の注目を集めた帝のお子は皇女で、ついに同母の弟宮が皇太弟として立つことになったのだ。大后としては最後の賭けに負けてついに引き金は引かれ、これで長い間続いた東宮空席という不自然な状況にようやく終止符が打たれたのである。いつまでも東宮がいないという異常事態が続くのは、これ以上は許されなかったのだ。帝のご兄弟で親王は大勢いるが、帝と同じく弘徽殿大后を母とするのは十四宮だけで、今回の十四宮の立坊は誰もが予想していたことだった。

 宣命は九条大納言が勅を受けて大内記に草案を書かせたもので、宣命使は藤中納言である。内弁は九条大納言本人で、完全に小野宮右大臣を差し置いていた。

 源氏はすでに、すべてを了解していた。これで大納言の四の君、つまり源氏の妻の腹違いの妹は東宮妃となった。小野宮の娘は女御でも、国母となる道は閉ざされた。もっともこれからあとでも男皇子を生めば、新東宮が即位の暁にはその子が次期東宮になる可能性もないことはないが、今は誰も帝の男皇子誕生を望んではいないようだった。従って小野宮の右大臣就任は、そんな彼への父関白の懐柔策だったのかもしれない。

 そして十四宮立太子の当日に、坊官の任官が行われた。公卿は宜陽殿に集まり、そこへ草案を手に九条大納言が入ってきた。

「すでに官奏の末、御裁可を頂いております」

 坊官は東宮傅、東宮大夫、そして学生がくしょうたちである。そして東宮傅の名は、黄色い紙に書かれる。

「源宰相右金吾殿、清書をお願い致す」

 おおやけの場なので言葉正しく、大納言は源氏に清書を依頼した。

 源氏の手によって書かれた東宮傅の名は枇杷左大臣で、東宮大夫は九条大納言その人だった。

 今この人は懐柔策で右大臣になった兄よりも遥かに得意の絶頂にいる……そう感じた源氏は、自分が今年も四位参議右衛門督に据え置かれたにもかかわらす、朋友として誇らしげな思いであった。

 清書を終えた源氏は目を上げて大納言を見た。大納言は古い付き合いの知己だけに分かる微笑を、源氏に投げかけていた。

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