4
二条邸の西ノ対で公事の表向きのことを妻相手に話題にすることは、普通はしない源氏だった。だが今回の五節の舞姫のことばかりは身内がかかわってくることなので、源氏は妻にも相談した。
「まあ、娘を出せと言われましても、ない袖は振れませんものねえ」
「そうなんだよ」
源氏も困りきった様子だった。対の屋の外は冬の初めの雨が包み、その香りが格子を下ろした室内にも忍びこんできていた。
「一族に適当な姫がないとなると、政所の家司の誰かの娘をということになろうか」
「私にもう少し早うに、ややが生まれておりましたら」
妻は目を伏せたが、源氏はまだ笑っていた。
「数えてみたって、そなたが妻になってすぐ子ができたとしてもまだ四つか五つだよ。小野宮邸の西ノ対の若でさえ、五つなんだから」
「そうですね」
「いっそうのこと、そなたが妻ではなく娘であったら出したのに、あ、そうすりゃ、天下一の舞姫だ。誰もが目を見はるぞ」
「もう、やだあ。とっくにとうが立ってますウ」
やっと妻は笑った。
「何言ってるんだい。まだ十六のくせして」
源氏も笑ってそう言ってから、源氏は目を伏せた。
ややで思い出したが、まだ男子か姫かは分からぬが、小野宮西ノ対の他にも自分には子供がいる。もっともまだ腹中にいるのだが、源氏はそのことをまだここの西ノ対の妻には話してはいない。
明石の姫君とのことは明石にいた時に妻にはすでに文で伝えてはいた。だが、帰京以来あえてその話題には互いに触れずにいた。それでも、やがて子の誕生ともなれば、その母の明石の姫ともども都へ呼び寄せることになろう。そのときどう切り出したものか――あるいは先日五条の伯父が言っていたように、明石で生育させようか。こればかりは公事ではないにせよ妻には相談できぬ悩みであり、源氏は重圧の息苦しさを感じてしまった。
五節の舞姫に関しては、政所別当の惟光に命じて家司をすべて集めて相談をした。いちばんいいのは別当の娘だが、これはまだ三つで舞姫の役には立たない。十三、四歳の娘を持つ者は家司の役職者にはいなかったが、かろうじて二条邸の殿上の家人の中にひとりおり、なかなかの容姿の娘だというので、その娘を一時的に源氏の養女にすることとして話がついた。
さっそくその姫は二条邸の東の対に移り住み、下仕えの女房や童女なども選りすぐって二条邸に集められた。それからは舞姫の稽古が始まる。二条邸の中は一気に慌ただしくなった。舞姫や童女の衣裳などは、西ノ対の上が一切を取り仕切って、女房たちに命じて着々と準備は進んでいった。五節の舞姫を出すというのは経済的にも半端ではない負担となるのだが、それも何とかやりくりした。
源氏の公務も兼職がないから暇だとは言っていられなかった。紫宸殿に向かって右側にある宜陽殿でさらに東国推問使の主典のことが議せられたし、また臨時御読経のこともあった。これは春秋二回に宮中で大若般経が転読される季の御読経とは別に、必要に応じて臨時に行われるものである。この議も宜陽殿で行われたし、実際の御読経は初冬の十月中半の四日間、綾綺殿にて行われた。
それだけでなく、ほとんど毎日のように公卿は召集された。案件は太政大臣六十賀と皇太后の病のことで、皇太后の病はますます重く各寺で修法読経がさかんに行われていた。さらに摂政太政大臣までが、この月になって熱を出して倒れたのである。踏んだり蹴ったりで、源氏は兼職がないからいいようなものの、兼職のある参議たちの忙殺による悲鳴が聞こえてくるような気がした。
新嘗祭の月を迎え、一時は摂政太政大臣の重態も伝えられたがもち直したようで、その六十賀の雑事も定められるに至った。
確かにこのような状態では、自ら発願しての院の御八講もその予定に入りこむ隙はないことは実感された。個人的な願いである住吉参詣も、いつのことになるやら分からない。
こう公務がたてこんでいては、明石へ文を送ることすらできないのだ。さぞかし先方は、自分たちは見捨てられたと恨んでいるだろう。それを思うと心も痛む。だが、源氏は宮中から戻って夕餉をとると、ほとんど同時に眠ってしまう毎日だった。西ノ対にすら足が遠のいている。
公務はさらに繁く、九月から延びていた不堪田佃の議も行われた。各地からの解文をもとにこの年の収穫を鑑みて、必要あれば免税をとり決める議だ。この議の決議は太政官からさらに帝に奏上され、その御裁可を頂いてはじめて有効になる。
さらに陰陽寮に卜された太政大臣六十賀の奉幣の吉日は月末だったので、新嘗祭が執り行われた後にということになった。
新嘗祭はまず五節の舞姫が常寧殿で帝に舞を披露する帳台の試から、一連の行事は始まることになる。ところがどうした手違いからか舞姫たちの参入が異常に遅れ、病みあがりの摂政太政大臣をきりきりさせた。
その後の行事は順調に行われたが、今度は帝が御体調がすぐれぬ御様子であった。最後の豊明の節会では、とうとう帝の御在所の御簾は上げられぬままだった。
源氏にとっては久方ぶりの新嘗祭の一連の行事で、胸は踊りつつも緊張していた。昨年の同じ日は明石の潮騒の中にいたのだと思うと、不思議な気さえしてくる。しかし自余の人々にとっては、何か不吉な予感を感ぜしめられる新嘗祭だったようだ。
果たして新嘗祭も終わり、摂政太政大臣六十賀の奉幣もすんだ。帝も摂政太政大臣も病はもち直したが、大后は依然不予だという。さらに賀茂の臨時祭が行われたが、中納言以上の者は全員が支障を申し立てて参列せず、やむなく源氏と同じ参議で本院大臣の次男の宰相左兵衛督が宣命を読んだ。
その翌日である。平安京始まって以来とも思われるような大衝撃が、まるで雷のごとく宮中に鳴り響いたのであった。




