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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
明石
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 思った通り姫は泣いた。

「やはり殿は都にお戻りになる。いつかはこんな日が来ると思っていたのです」

 宣旨を受けた足で東ノ対に渡った源氏は、すべてを姫に告げた。しばらく姫は呆然として、何も言葉を発せられなかった。

 だいぶ間を置いてから源氏は静かに、そして言いにくそうに切り出した。

「それで、そなたのことだが、やはりお腹の子のこともあるし、ここで……」

「嫌ッ!」

 姫は袖で顔を覆った。

「何もかも思った通りです。私はこの地に置き去りにされて、やはり捨てられるのですね」

 それをなだめるのに源氏は時間がかかった。

「いつか必ず都に呼び寄せる。約束する」

 今はあてはなくてもとりあえずそう言うしか、ほかに手立てはなかった。あとは無言で抱擁し、姫が泣くのに任せていた。


 それから明石を離れるのに吉日となるまで、源氏は毎日山の院へ通った。

 わが子を宿す姫をいたわり、行く末のことなどをもねんごろに語りあった。決して捨てていくのではない。姫は身重でもあることだし、両親のことも思ってとりあえずは明石へ残していくのだと源氏は説得した。

 表面は分かったようなふりをしていた姫だが、心の奥底では全く納得していない様子が明らかだった。

 出発も近いある日、山の院で源氏の家司も全員招かれての、入道による餞別の宴があった。この日ばかりは入道と源氏はともに並び杯をかわした。

「いや一瞬は私も嘆き悲しみましたがね、源氏の君様が都に戻られるのはこれから勢いに乗る手始め。源氏の君様のような方が、このような田舎でくすぶっていてよいはずがありません。だいいちそれでは、娘をもらって頂いた意味がない。源氏の君様には、これから都で大活躍されること間違いなしですからね。だからこそ、娘を差し上げたのです。一院の法皇様もかつては源姓となって一度臣下へ降られたが親王に復して即位されたお方ですしな、源氏の君様にもどのような未来がおありになるかそれは分かりませぬ。そうでございましょう」

「え、まあ」

 こんな時にも、相変わらすよくしゃべる叔父である。

「これで縁が切れてしまうわけではなく、子もできたお蔭で舅と婿の仲も安泰。いやあ、子ができずば不安もあったでしょうが、まさしく子はかすがいですな」

 大声で入道は笑った。そして言った。

「お迎え頂けるまでお子は責任もってお預かりし、お育て頂します」

「かたじけのう、何分よろしうに」

 源氏は隣の入道へ身をよじって頭を下げた。

「私もこれで明石という地と縁が切れるとは思ってはおりません。前世の因縁も浅からぬ土地であるからこそ、こうして一年近くも住まいできたのでしょう。今やここは私にとって第二の故郷です」

「そうじゃ、そうじゃ。新しい足がかりの地でできたと思われればよろしい。さあ」

 入道は上機嫌で、源氏に酒を勧めてきた。

 その宴の中で、入道は一度だけ真顔になった。

「ひとつだけお願いがござる。都にはわが兄、そしてわが長男つまり姫の兄がおりましてな、どこか源氏の君様のお力でこの者たちを盛り上げて下されば幸いです」

左衛門権佐さえもんのこんのすけ殿ですね。存じております。で、ご子息とは?」

 源氏はそちらは知らなかったので、名や官職を聞いておいた。

 この席で源氏の家司は、全員が入道から餞別の品々をもらった。旅道具、旅衣装などであった。惟光も朝忠も、ただただ上機嫌だった。

 宴のあと、源氏は少し酔った顔で東ノ対にわたった。燭台の火の中、姫とふたりきりで最後の夜を過ごした。

 二人はまず畳の上に座って、語り合っていた。

「必ず迎えに来る」

 源氏は同じ言葉を百回繰り返しても、自分の真実を伝え尽くすには不足ではないかとも思った。

「子をたのむ」

「ええ。無事生んでしっかりと育てませんと、私は捨てられてしまうかも」

「そんなことはないよ」

 源氏は姫の肩を優しく抱いた。こんな時にも涙は見せない健気な女だったが、その肩は震えていた。

 源氏は明石に来てからの日々を、ひとつずつ思い出してみた。あまりにもたくさんの思い出があり過ぎた。狭い明石の町だったが、時には入道の船で淡路島にも渡ってみたし、屏風ケ浦も見にいった。そんな思い出がひとつひとつ頭の中をよぎる。

 そして姫と、はじめて出会った時のことも……。

「そうだ、姫」

 源氏は急にあることを思い出して、姫のからだをそっとはなした。

「どうかな、今宵また箏を……」

「え? そんな急に」

 はじめははにかんでいたが、気のきいた女房が姫の箏の琴を几帳の中に押し入れたので、娘はその前に座った。その間に源氏は廂の間にひかえていた家司の一人に命じ、自分のきんことを浜の院までとりに行かせた。

 姫が箏を鳴らし始めた。松風とあいって、そのは室内を包みこんだ。やがて源氏の琴も届いた。

 まずは一曲、こんどは源氏が腕を見せてから二人の琴のは合わさって奏でられ、ひとつの心を象徴していた。

 曲の途中でとうとう、姫は泣きだした。

「私が必ず姫を都へ迎えるというその証拠に、この私の琴は姫に預けていくことにしよう。都へは忘れずに持ってきてくれ」

「この琴の糸の調子が、狂わないうちに……」

 源氏はもう一度、姫を抱きしめた。

「女は水でございます。どのような流れにでも従って流れていかなければなりません。その点男の方は炎で、ご自分で燃えていかれる宿命ですものね」

「だが、姫、水も炎によって流れるが、その火も水によって燃えるものなのだよ」

 源氏の手で燭台の火が消された。あとは暗闇となった。

「朝になれば淡路島からのうるさいほどの千島の声でいつも目が覚めた、こんな町を私は愛していたのだよ。この町の匂いと潮の香りを私は忘れない。そして私がここへ来たのも、あなたに出会うためだったのだ。だから早く潮の香りと元気なわが子を都につれてきてくれ」

 源氏が姫の耳元でそっと囁いた時、庭の方でふと物音がした。微かなしのび泣きの声があった。男の声だ。しかしそれは源氏の家人ではなく、この邸のあるじの入道の声だと分かった。宴ではあれほど上機嫌だった入道も、ひそかに源氏との別れを悲しんでいるようだった。


 ついに朝になった。いよいよ出発の日だ。源氏一行ははじめに上陸した所から、船で都に戻る。空は秋晴れの快晴だった。暦ももう八月に入っていた。

 海の青一色に、淡路島の緑が映えてまぶしい。群れ飛ぶ白い鳥たちの風景もこれで見納めかと思うと、源氏はすべてを目の中に焼きつけておきたかった。

 入道は自ら浜まで見送りに来てくれた。あれほど饒舌だったのにこの日は言葉少なで、その目にはまた涙があふれていた。

「お世話になりましてございます」

 源氏は頭を下げた。潮風に烏帽子が飛びそうになったので慌てて押さえた。

「道中、つつがのう」

「ご機嫌よろしうに」

 船はやがて、ゆっくりと岸を放れていった。

 源氏も泣いた。家司の手前もどうでもよかった。

 とにかく源氏は泣いた。

 都を離れた春、あれほど辛い思いをして離京してここへ来た。それなのにこの秋にあの春と同じくらいの、あるいはそれ以上の辛い思いをしてここを離れて都へ帰る。都を出る時には予想だにしなかった成りゆきだった。

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