5
月もだんだんと夜ごとにふくらみを増し、満月に近くなってきた。
源氏たちが須磨へ来たのはまだ細い月の頃であったから、やっと十月ほどたったことになる。その間、時間の流れも止まっているような感でひどく長く感じられた。
源氏は一度は床についたもののなかなか眠れず、ひとりで起き出して簀子の欄干にひじをついて海を見ていた。
二条邸の妻への文はいつ頃届くだろうかと、思いを馳せている。周りは海と山ばかりで人家とてまばらなこの土地は、はじめこそ新鮮で風流を感じたりもしたが、そろそろ人恋しくなりはじめていた。都の雑踏が恋しい。このような士地で一生を暮らす者は、この土地で生まれ育ったからこそそれが可能なのだろう。都生まれの都育ちは、都を離れては生きていけないのでは……そんな弱気にもなってしまいそうな月影の凄さだった。
家司たちは皆寝静まっている。
ふと思いたって源氏は、都から持ってきた琴の琴をとり出した。そっと小さな音で奏でてみる。それがますます都の香りを運んでしまい、とうとう源氏の目に涙が光った。
波の音は間断なく響き、それに合わせるかのように源氏の弾く琴の音が宙を舞う。いつしか家司たちもこそこそしはじめたので、慌てて源氏は琴を弾く手を止めた。そっと涙をぬぐうと、家司たちの忍び泣きの声や鼻をかむ音などが遠慮がちに聞こえてくる。
家司たちを.起こしてしまったようだ。源氏は自分の非を悔いた。
悲しいのは自分だけではない。皆、それぞれに家族や恋しい人と別れてここへ来ている。それなのに普段はけなげに自分に仕えてくれている。すべてが自分のせいで、彼らをこんな目に遭わせているのだ。その自分が泣いていたりなどしたら申しわけないと、もう一度源氏は目をこすった。
翌日から源氏は、つとめて明るくふるまった。勤行したり絵を描いたり、果ては家司たちとともに継ぎ絵などをして楽しんだ。色の紙をちぎって貼り、紋様を作りだすのが継ぎ絵だ。それを屏風に貼らせたりして、
「なかなか風情のある調度ができたね」
と、源氏は笑っていたりした。
夕暮れになって、良清が源氏のもとに用ありげに近よってきた。明日まで暇をくれという。明石へ行くというのだ。
「明石って、どこにあるんだい?」
「はい。ここから西へ、すぐのところです。舟で行けは二時もかかりますまい」
「そんなところへ、どうして?」
「それは……ご容赦ください」
そういえばいつだったか絵の話をしている時に、この良清がやたら明石の浦の光景を絶賛していたことがあったのを源氏は思い出した。良清の父はもとの播磨守であった以上、良清にとってもこの土地に係累が多いのだろう。しかし良清は、それを明かなには言わない。それで源氏は察し、意味あり気に笑った。
「そうか、行ってこい」
「はい」
良清の顔が輝いた。思えば源氏の須磨下りを実現させたのも、ある意味では良清だった。
良清がそさくさと出かけていったあと、ちょうど入れ違いに都へ違わしていた親忠が戻ってきた。
「ご苦労であったな」
今日戻ってきたということは、彼は都に一泊くらいしかしていないだろう。
「もう少しゆっくりしてくればよかったのに」
「それが、二条邸の対の上様からのお文などもお預かりしましたので、源氏の君様は一刻も早くご覧になりたいのではと思いまして」
「そうか、そうか」
微笑んで源氏は、何度もうなずいた。
さっそく源氏は離れに行き、文を開いた。
そこに都があった。瞬時に心は都へと飛んでいっていた。今や賀茂の祭りも近しとて都中が浮き足立っている様子が、書かれている内容以上に源氏には伝わってくる。他にも夏物の衣料なども親忠にことづけて届けられたが、それらもぴたりと源氏の好みのままだった。
心は一つだ……そう思うと、また源氏の目が熱くなった。遠く海山隔てている妻とも、そして今ここでともに暮らしている従者たちとも……。
自分は不幸ではないと、源氏は自分に言いきかせていた。
目を上げるともう気の早い入道雲が、海の上の空に浮かんでいたりする。本来ならこれから後に五日雨の季節を迎え、入道雲が出るのはその後だ。しかも今、源氏の目にある入道雲は頭だけで中天に浮かび、くっきりとどす黒くさえあった。足がない奇妙な入道雲だった。
一年前には入道雲は都の空で見ていた。東山の向こうから、入道雲は顔をのぞかせていた。今は海の上に、黒い奇妙な入道雲を見ている。たった一年前のことが、違い昔の別世界のように思われたりもした。
「去年今夜清涼に侍す」
ふとそんな詩文が、口について出る。筑紫での雷公の詩だ。彼ももっともっと遠い筑紫から、いかに都へ思いを馳せていたか……。今はその詩文の心が痛いくらいにわかる。いや、今になって初めてわかつた。
火雷天神公といえは、都では人々がただその祟りを恐れているだけの存在だ。源氏とってもそうであった。しかし今や彼も心を持った、普通の人間であったと思う。
――去年今夜侍清涼 (去年の今夜清涼に侍し)
秋思詩篇独断腸 (秋思の詩篇独り腸を断つ)
恩賜御衣今在此 (恩賜の御衣今此に在り)
捧持毎日拝余香 (捧持して毎日余香を拝したてまつる)
人を祟るだけの祟り神に作れる詩ではない。
筑紫での雷公の心情を思い、自分をそれになぞらえて源氏はもう一度空を見た。足のない入道雲はいくつも浮かび、左右にとゆっくり動きだしていた。
翌日の夕方になって良清が戻ってきた。なぜか源氏と目を合わそうともしない。笑みさえ浮かべずに形だけの挨拶をすると、憔悴しきった顔立ちでさっさと離れの対の屋へ行ってしまった。
明石で何があったのか……気になった源氏は、暗くなってから対の屋へ行った。家司たちの話の輪にも入らす、良清は壁に背をもたれかけさせて、ぼーっとしていた。
「源氏の君様、彼がへんなんです。何を言っても答えないで、夕餉も食べていないし」
大輔が言うのを聞いて源氏はうなずき、良清の前に立った。一応は良清は居を正したが、うつむいているだけで何も言わない。源氏は良清と同じ目の高さになるまでしゃがんだ。
「何かあったのか?」
源氏の問いにも何も答えず、とうとう彼は大粒の涙をこぼしはじめた。対の屋は格子などはなく、部屋の内外のしきりは遣戸だった。格子の上げ下ろしのような手間がなく、しかも夜も暖かい頃だったのでそれは開けられており、そこから射す満月の光が室内照明の燭台の灯を大いに助長していた。
源氏は何も言わずに立ちあがった。
「彼、どうしましょう」
惟光が小声で尋ねてきた。
「そっとしておいてあげよう。それより、もうみんな休んだらいい」
浮いた話がどうも明石で破局を迎えてきたらしい。それくらいは源氏にも察しはついた。このような時は放っておくに限る。それがいちばんの思いやりなのだ。
外はやたら野犬が遠吠えをし、うるさいくらいだった。
「今日は犬の鳴き声が多いね」
源氏が笑みを戻して言うと、大輔が首をつき出した。
「戌の刻だからじゃないですかあ」
これには皆どっと笑った。笑っていないのは良清だけだった。
「いや、もう亥の刻だよ」
惟光がそう言い返した。犬の声に混ざって、まだ夜になったばかりだというのに奇妙な声で鶏も騒ぎだした。
「やはり早くみんな寝なさい。戸を閉めて。動物たちが騒いでいるというのは、魍魎が跋扈しているからかもしれないぞ」
そう言いながらも、都ではないこんな自然の懐のような士地には魍魎などという存在は不似合いのように源氏には感じられた。
対の屋の家司たちは、源氏が背を向けるとすぐに燭台の火を消した。
主屋へ続く茅葺きの廊を、源氏は渡った。主屋では源氏のそばに宿居をする家人たちの燭台が、揺れて見えた。
ふと空が光ったような気がした。雷というほどはっきりしたものではなかったが、同時に突然激しい風が吹いた。
低い巨大なうなり声が、地の底から断続的に響いた。
次の瞬間、源氏の体は激しく揺さぶられていた。
突然、足元から激しく突き上げるような衝撃を受け、全身が投げ出された。
立っていることもできず、這いつくばって対の屋の方に戻ろうとした。だが、激しい震動で身動きひとつとれず、ただ上からの落下物から両腕で頭を守るのが精一杯だった。
「地震だあ!」
家司たちが大騒ぎをしている声が、建物の破壊音の間に響いている。
「大きいぞ!」
「惟光ーッ!」
源氏も叫んだ。
「良清ッ! 大輔ッ! 親忠ッ!」
「源氏の君様ぁッ!」
家司たちも口々に自分を呼んでいる。几帳が倒れ、遣戸もはずれて柱も折れる。主屋の方では燭台が倒れたせいか、火の手があがった。
源氏もはじめは家司たちの名を呼んでいたつもりが、しだいに意味のない絶叫に変わっていった。主屋の火のおかげで、かえって闇の中の恐怖からは救われた。かなり長い間揺れていたように思われたが、ようやく大地は静けさをとり戻した。
「源氏の君様!」
真っ先に惟光が源氏のそばに寄ってきた。そのまま全員、なんとか庭へと這い出した。皆、無事のようだった。
「源氏の君様、大きな地震の時は、海に大波が立つといいます」
「それにここは山の下。土砂崩れも危ない」
惟光と大輔が口々に言うので、源氏も直衣を泥だらけにしてやっと立ちあがった。
「谷の奥に逃げましょう」
良清が叫んだ。もういつもの彼に戻っていた。
彼らは海と反対側に、ひたすら駆けた。駆けているうちに、またもや大きな揺れが始まった。しかし今度は畑の真ん中で山からは遠く、土地も高い。源氏らは地に伏せて、揺れをしのいだ。
「ここまで来ればもう大丈夫だ」
海を遥かに見おろす高台の、崖の下ではないところで息を切らせて良清が座りこんだ。その時また、激しい揺れが始まった。
「大地が怒っている。神が怒っておられる」
大輔は珠数をとり出し、真言をひたすら唱えはじめた。
源氏はすくっと立ちあがった。
「都はどうなっているんだ。対の上は!」
源氏は裸足のまま、野を走り出そうとした。惟光が必死で、その袖をつかまえた。
「源氏の君様、どちらへ!」
「都だ。都の対の上は……」
源氏が惟光の手をふりきろうとしても、惟光はますますその手に力を入れた。
「こんな夜中に、都には戻れませぬ」
「放せ! 対の上はどうしておるんだ。こんな所でじっとしてなんかいられない」
惟光だけでなく、皆でどうにか源氏をとりおさえた。源氏は肩で息をしていたが、座ると幾分落ち着いた。
「対の上……」
力なくつぶやいて、源氏はうなだれた。
その夜はその場で、座ったまま夜を明かした。揺れは一晩中続いた。
翌日、源氏たちが住んでいた所へ戻ってみると、主屋は見事に焼けていた。そこまで行く大地も、あちらこちらで地割れがしている。ところが奇跡的に対の屋は損傷はあっても、火災からは免れていた。少し修理をすれは住もうと思えば住める。これからはこの狭い対の屋で、ひしめきあって暮らさねばならない。
「こんなことでもなければ、われわれが畏れ多くも源氏の君様と身を接して暮らせることもないさ」
親忠はそう言って笑い、その和やかさだけが人々の心の救いだった。
この日も地震があった。摂津の国府から、国司の使いが様子を見にやって来た。摂津もかなり揺れたが、損傷は少なかったという。
情報では、最もひどかったのは逆に西の播磨の国で、国府も大寺もことごとく崩壊し、村落も壊滅状態でおびただしい数の死者が出たということだ。
国司の使いが帰ってのち、すぐに国司の遣わした普請の下人たちがみるみる源氏の住まいの山荘を復元してくれた。今度は前の茅葺きと違って、まるで寺のような瓦屋根だった。
ただその間、地震がない日は一日もなかった。海の近くでも、家が焼けたり崩壊したりして住む所を失った民たちが、ところどころに集まっては露天の生活をしている。
今回は幸い、大波は立たなかったようだ。
「いよいよ、世も末なのか」
そうつぶやく声が、家司の中からも数多くあがっていた。
半月ほど地震のある日が続いた。時刻は一定していない。地震といってもはじめの時のような大きなものでなく、小さな地震ではあった。しかしこう続くと誰でも嫌な気になってしまう。
源氏は家司の一人を、さっそく都へと遣わした。
まずは二条邸の対の上をはじめ、親しかった人々に自分の無事を知らせ、またそれらの安否を問うものであった。
源氏はその家司に、ひと月ほどは滞在してきてよい旨を言った。ここに来ているすべての家司の家元を訪ねさせるためであった。
家司は早速都へと出かけて行った。




