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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
逆気 (さかき)
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 車の中で急に源氏は恐くなった。考えてみれば帝と摂政とが、そろって自分を呼び出したのである。復任を奏請するどころの騒ぎではないかもしれない。

 車はじれったいはどゆっくりと二条大路を西へと進み、宮廷へと向かいつつある。ようやく二条大宮、すなわち大内裏の南東角のあわの辻を右折し、大宮を上りはじめた。大内裏の塀沿いの北上だ。すぐに郁芳門が見えてきた。

 もしかしたら尚侍の君のことが、摂政や帝のお耳に入ったのでは――そのためのお咎めのために呼び出されたのでは――。そんな思いが源氏の顔を蒼ざめさせ、車の中に座る膝を震えさせた。

 それにしても、なぜ今頃――?

 これまで通り車は陽明門の外に停めた。ここからは徒歩で行かねはならない。その足どりは重かった。

 官人たちは多くは退出している夕刻である。帝の御座所は後宮の常寧殿だが、源氏はとりあえず自分の居城ともいえる淑景舎に落ち着いた。そしてすぐに摂政が遣わした案内の女房について、源氏は意を決して常寧殿へと向かった。

 ほとんど彼は開き直っていた。咎められたら何も否定するまい。沙汰も甘んじて受けよう、そう思うことがかえって気を落ち着かせたりした。

 源氏はあの大嘗祭の直後に昇殿を許されていたし、官職を失ってもその資格は剥奪はくだつはされない。

 殿内へ入るとまず摂政の姿が目についた。そちらへ一礼して、帝の正面、すなわち昼御座ひのおましの前の南廂に、源氏は畏まった。厚畳二枚の中央のしとねの上に、帝はお座りになっていらっしゃる。

「兄君様、お顔をお上げ下さい」

 帝の優しそうなお声がかかった。ゆっくりと顔を上げて、源氏は龍顔を拝した。そして驚いた。そこにいらっしゃったのは源氏の記憶にあるまだあどけない少年の帝ではなく、立派に成長された青年であった。

 思えばこんなに間近に対面を許されたのは、故院の御危篤の折の行幸の時以来であった。ましてやお言葉を賜るのははじめてだ。

「申し訳ありませんでしたね。わたしがどうしても兄君とお会いしたくて、摂政に頼んだのですよ」

 御元服あそばされ、冠をお召しの帝を拝するのも初めてだ。しかし、本当にあの気性が激しいという噂の弘徽殿大后腹なのかと思われるくらい帝はお優しそうで、またお弱そうでもあった。正直、源氏は驚いていた。色の白い細身で、かなり女性的な御容貌だった。

「お目通りがかない、幸悦至極に存じます」

 源氏はもう一度頭を下げた。

「まあ、そのような固苦しいことは……。母后も今は里にてござればごゆるりと」

 そのお優しそうな性格は一見いいことのように見えるが、これでは母后の言うことに逆らいなさることはできまいと、無礼ながらもふと源氏は考えてしまった。三歳におなりになるまで、雷公の祟りを恐れ、母后によって殿内でしとみも上げずに育てられたその結果の優しさという噂も、の当たりにすれはうなずけてしまう。

「母も里なればつれづれにて、久しく会わなんだ兄君様と物語でもしたく思いましてね」

 帝はあくまで自分を兄として遇してくれる、そういう御性格なのだ。源氏が無官の散位であるにもかかわらず御簾もない直の対面である。

 それにしても同じ父の御種より出ながら、かたや一天万乗の君、かたや散位の前途茫洋たる者である。その落差は大きかった。ただひとつ源氏にとって喜びだったのは、帝の御まなざしに父の面影が見てとれたことである。やはり似ていらっしゃる。二人が兄弟であることの、またとない証だった。

「亡き父院はその御最期に、光源氏の君様をお頼り申し上げよと仰せになりましたのに、今まで何もお話も伺えませなんだこと、真に申し訳なく」

 少し帝は頭を下げられた。源氏はかえって慌てた。

「そのような。もったいのうございます」

「して今は、御母君の喪の服解ぶくげのままとか」

「はい」

 源氏は目の前の床を見た。今がいい機会かもしれない。そう思って源氏は思い切って目を上げた。

「そのことでございます。毎日自邸に篭っておりましては、帝の御恩にも何らお報いすることもでき申さず、つきましては……」

 その時、激しく不自然に摂政が咳払いをした。源氏は夢中になっていた自分から醒めた。それでも勢いで、

「復任の御沙汰は」

 と、声を落として言い、目を下げた。しばらくお言葉はなかった。

 ふと源氏が目を上げると、帝は悲しそうな、すまなそうなお顔をされていた。脇では摂政も、困った顔をしている。

 その状況がすべてを物語っていた。

 人事に関しては、帝とてその御意のままにはならないのだ。すべてを牛耳っているのはその母后、弘徽殿大后――それは分かっていたはずなのに帝に奏してしまったという愚行に、源氏は顔が赤らむ思いだった。

「申し訳ございません」

「いや。ほんに、お気の毒には存じますが…」

 その先は、帝はおっしゃらなかった。

 しかしこの頃、源氏の心の中に、一筋の明かりが灯りつつあった。

 帝の御下問の調子が急に変わり、早口となられた。

「ところで兄君に、お伺いしたき儀がございまして。いや、ふみの道のことでございます」

「なんなりと」

 帝は漢籍の詩のことや故院の思い出話、また有職のことなど話題に出され、こまこまと源氏と問答をかわされた。いつしか話がはずんでいた二人は、やはり兄弟だった。

「今日は管弦の遊びでも致しましょうか」

「いえ、それは」

 せっかくの帝の仰せ言ではあるが、それだけは素直に受けることのできない源氏であった。今から管弦の催しとなると、すでに日も暮れかかっているので、源氏としては宮中泊まりとなろう。

 彼が泊まるべき淑景舎と同じ後宮の弘徽殿に、尚侍かんの君がいる。彼にとってはあまりにも甘美すぎる誘惑であった。

 だめだと、彼は自分を裁断した。自分を宮中泊まりにさせるわけにはいかないと、自分で判を下したのだった。

「申し訳ございませんが」

 源氏は頭を下げた。

「そうですか」

 帝は残念そうだった。源氏はやがて、御前よりまかりでた。

 結局、帝との御対面は何だったのかと、後宮の廊を歩きながら源氏は思った。復任の奏請は無駄だった。最初に懸念していたお咎めもなかったし、大方を差し障りのない文学の話や思い出話に終始したのだった。

 いや、もしや帝は自分と尚侍の君とのことは御存じなのでは――御存じなのだけれどあのお優しい性格ゆえに……そんなことが突然源氏の頭の中に湧いたりしたがとにかくお咎めはなかった、それだけは事実だった。

 その時、廊の向こうから、何人かの人がやって来た。黄昏でかなり薄暗くなっていたからすぐには分からなかったが、その中の一人は故本院大臣の三男の頭中将だった。

 源氏は胸が激しく波打ち、身が固くなった。あの尚侍の君との一夜のあと、弘徽殿の南の簀子を歩く自分を目撃した男だ。

 とにかくも源氏は道をあけた。

 近づくにつれ、頭中将の隣に小一条のすけ殿、すなわち摂政太政大臣の息子で宰相中将の弟もいるのを見た。今の尚侍の君と源氏がかつて小野宮邸東ノ対で会っているところを目撃したあの少年だ。あのころは元服前だったが、今はすでに青年となって左兵衛佐さひょうえのすけとなっている。

 一行がまさに源氏のそばを通り過ぎようようとした時、その小一条の佐殿の口が開いた。

白虹はっこう日を貫く。太子(これ)づ」

 源氏の全身がこわばった。それは源氏を見て発した言葉ではなかったが、源氏に向かって発されたことは確かだった。

 何が言いたいんだ!――源氏は走っていって小一条の若物の胸ぐらいをつかみ、叫びたい気持ちをやっと抑えた。しかし今は、それができる立場ではない。源氏は全身が血に満たされたように熱くなっていた。

 小一条の左殿が口すさんだのは『史記』「鄒陽すうよう伝」にある一節だ。その部分が、昔燕の太子の丹が秦の始皇帝への反逆を試みた時に白い虹が出て太陽を貫き、ことの露顕を恐れたという故事であるくらい源氏も知っていた。それをなぜ自分に言うのか。自分が帝へ反逆を企てているとでも言いたいのか。よしんばそうだとしても、誰を擁してというのだ。いまだ東宮とて定まってはおらず、その候補とておぼつかない時にである。

 帝のお優しいお人柄に接してきた矢先にそのような痛くもない腹を探られて、あのように諷されたことが不快であったし、さらには怒りさえ覚えてきた。

 源氏は大股で、音をたてて廊を歩んだ。

 その外に車を停めてある陽明門まではほとんど小走りで、そのため木沓が沓擦れを起こし、痛みとともに出血すら感じたが、かえってそれが源氏の逆上をあおった。

 なぜあの時、小一条の若僧をつかまえてその頬のひとつでもはってやらなかったのか――そんな後悔さえ感じはじめた。

 せっかくの帝との和やかな会見も、すべてがぶち壊された。

 陽明門を出る時、もう二度とこの門をくぐるものかという思いさえ源氏の中にあった。

 その晩は激しく妻を抱いた。

「殿、殿、どうしたのです、今日は。恐い。殿が恐い」

 妻の泣き声を耳にしながらも、源氏はただその妻の肉体のみを粉々《こなごな》に抱きしめていた。

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