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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
宿木(やどりき)
221/251

 八月には匂宮と六の君との婚儀をと、摂政は決めていた。そしてついにその日がやってきた。

 聞けば三日通いの初日、匂宮は二条邸の中君のもとにいて夜になってもなかなか出かけようとはせず、とうとう摂政からの迎えの使者が出されたという。

 六の君は摂政の秘蔵っとして、東三条邸ではなく摂政が常住する東二条邸の方にいた。都もはずれで、二、三日前の大嵐の爪あとがまだ残っていた。

 大嵐の日は夜になってから暴風雨が吹き荒れ、承明門の東西の廊や建礼門、左近陣の前の軒廊、応天門の左右の廊など、倒壊した門舎は枚挙にいとまがなかった。宮中だけでもそれだけの被害だったのだから、民屋に至っては計り知れないくらいだった。家が全壊して放り出されたりしたものも多く、死傷者や行方不明者はかなりの数に上がった。被害は都のみならず畿内諸国にわたり、その報告の整理で蔵人の薫は大わらわであった。

 そんな時に、匂宮は新しい妻を得るべく三日通いをしていた。いや、させられていたという方が正確だろう。その通い先の東二条邸のすぐそばまで、鴨川の水はあふれ出て押し寄せていた。河川敷すべてが流域になっていたのである。

 大嵐は毎年秋の自然界の年中行事とはいえ、今年のは規模が尋常ではなかった。

 水が引いても、東二条邸では昼間は破損した殿舎修復のための槌音が響き、そして夜になってから匂宮を迎えた。

 東二条邸は二条邸からは三町東進すればすぐであるが、何しろ物の怪の噂がある屋敷だ。そんなところに匂宮は三日もよく通っているなと薫が思っているうちに、三日目の露顕の儀に薫も出るようにと姉が使いをよこして言ってきた。

 この公務雑多な時にそれどころではないと口実を作って薫は断ろうとしたが、姉はそれでは摂政への対面が保てないという。もともと薫の参列要請は摂政から出たものだから、公務の方は摂政のひと言でどうにでもなるというのだ。

 薫の方が、主役の匂宮よりも東二条邸への到着は早かった。新婦の六の君には同腹の兄弟はいないが、異腹の兄弟のうち内大臣左大将、粟田殿権大納言、そして薫の妹婿の権中納言右衛門督の三兄弟の姿はそろっていた。

 ただ、その三兄弟とはさらに異腹の右中将は参列していなかった。弟が権中納言で妹も宮家の妻となるのに、自分だけが三十五歳にして非参議の三位中将なのであることがばつが悪かったのかもしれない。いずれにせよ、東二条邸に集った一族は、肩を並べるものもない権勢の家だ。

 すでに暗くなっている時刻なのに、屋敷内はおびただしい燭台の火によってまるで昼間のように明るかった。寝殿の南廂の東側に新郎の席があり、部屋の中央には几帳が据えられ、その前には一つの燭台が特別な台の上に乗っている。摂政家と式部卿宮家の両家のかまどの火を一つにしたもので、一昨日より三日間灯り続けているはずである。

 そこへ、匂宮の行列が到着した。この日は対の屋ではなくそのまま匂宮は寝殿に上がり、脱いだくつは沓取がさっと持ち去る。やがて新郎新婦が几帳に入ると、高らかな声で朗詠が始まった。

 ――嘉辰令月勧無極!――

 几帳の前には御台が八つ置かれ、そこには贅を尽くした料理が乗っていた。そして几帳が少しだけ開かれ、その中で匂宮は確実に餅を食べていた。自分の手で、匂宮は三日夜の餅を食べていたのだ。

 薫は胸がつまった。ここで餅を食べることを拒否すれば、すべてがなかったことになる。だが匂宮は餅を食べたので、これで名実ともに摂政家の婿となった。今、この同じ時刻を、中君は独り二条邸でどのような思いで過ごしているのだろうか……それを思うと、薫の胸は苦しかった。

 新郎は几帳から出て、自分の席に戻る。ここから、酒宴が始まる。朗詠は催馬楽に変わった。本来ならここで蔵人頭が新郎に杯を勧める。ところが、頭弁であった老人はすでにひと月前に蔵人頭は辞しており、二月に狐顔の頭中将が参議となってやはり頭を辞した後に頭となっていた新頭中将は、亡くなったばかりの故太政大臣の長男ゆえに喪に服していて参列していない。

 そうなるとこの役は、弁官であり蔵人である薫に回ってくることになる。だから薫は、座って飲み食いしている場合ではなかった。仰々しく瓶子を手に、薫は匂宮の前にと進んだ。

 重苦しい儀式の進行の中でふと薫の顔が見えたので、匂宮も気が緩んだようでその顔にほころびが見えた。だが薫には、それが苦笑のようにも見えた。その苦笑に薫は幾分心が救われた思いがしたが、直接には応えることはせず、あくまで形式ばってうやうやしく杯を勧めた。

 そして役柄上そのまま東ノ対に渡り、そこで匂宮の供のものの接待も薫はしなければならなかった。その中には見知っている殿上人も多く、彼らにはそれぞれ禄がかづけられる。

 東ノ対から戻る途中で、薫は寝殿への渡廊から暗い庭に人影がいるのを見た。それも二人で、何やら寝殿の方をのぞき見しているようであった。

「やってられないなあ」

 その声に、薫はそれが自分の従者だとすぐに気がついた。薫を待つ間退屈で、寝殿の婚礼をのぞきに来たらしい。はしたないと薫はすぐに咎めようとしたが、同じ従者でも匂宮の従者には東ノ対で酒肴のもてなしを受けているのに対し、彼らは暗い庭の隅で虫の音を聞きつつただ待つしかないのである。それが気の毒になって、咎めるのをやめた。従者たちは前栽の陰で、まだ話を続けている。その声が、薫にも筒抜けだ。

「我らが殿は、何でこの家の婿におなりにならなかったんだ?」

「そうだよな。そうすれば、今ごろは俺たちも」

「いったいいつまで、お独り身をお続けになるのやら。もういいお年だというのに」

 従者たちは、薫に形式上の妻がいることすら知らない。薫は完全に独り身として、世間に認識されていることの象徴のようでもあった。

 薫は咳払いをした。従者たちは一目散に逃げていく。どうやらあまり鼻が利かない連中だったかもしれないが、薫の自然の香りは上流の貴族階級に対してだけ有効なようだ。従者とはいっても封建的な主従関係ではないから、主人の悪口もいとわない。それだけに、本心が伝わってきたりする。

 薫には、従者の言葉がいやに耳に残った。摂政の申し出を断りさえしなければ、今ごろは薫が匂宮の席に座っていたのだ。だが少し酔っている薫は、立ち止まったまま暗い庭と月の光を受けた遣り水の流れを見ながら、ほかのことも考えていた。

 もし自分が、大君の勧めに従って中君と結ばれていたら……匂宮の今日の婚儀は何ら変わることなく、むしろもう少し早かったであろう。中君も泣かずにすんだし、匂宮には少し恨まれたかもしれないが、その匂宮には今日の婚礼という未来があった。

 本当にこれでよかったのだろうかと、薫は身を折って高欄に手をかけて考えた。大君への思いを覆い隠して中君といっしょになっても、それは偽りの愛の中で生きることになったであろう……。

 いずれにしても、もう過去は戻らない。未来は不可知だが、過去の変更はきかない。それなのに、この期に及んで自分の過去に「もしも」ばかりをつけて仮想ばかりしているのは卑怯だという気が不意にしてきた。

 薫は体を起こした。

 口惜しい男はもうたくさんだ、卑怯な男ももうたくさんだという声が、薫の頭の中で飛来していた。

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