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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
早蕨(さわらび)
216/251

 正月の行事の真っ只中ではあったが、大君の四十九日となった。その法事は薫がすべて請け負うことになっていたので、薫は公務よりも宇治行きを優先させた。

 法事について、阿闍梨との相談はついている。冷泉院も少なからぬ布施を下さった。

 法要は寺にて行われたが、女人は門内に入れない。そこで寺での法要が終わってから阿舎利や僧たちに山荘に来てもらって、そこであらためての法要も行われた。静かだった山荘に人があふれ、それがかえって往時を思い出させて薫の目頭を熱くした。

 そしてさらにひと月半ほどたてば、中君は喪服を脱ぐ。そうなると彼女はこの地を離れて、都の匂宮のいる二条邸に引き取られる。本当なら薫がそのようにして大君を都に呼び寄せるつもりであったが、もうそのすべはない。

 法要も終わり、山荘に再び静けさが戻った。一泊した薫は、その庭に向かってたたずんでいた。自然は何も変わっていない。川の激しい流れの音も、昔のままだ。山も変わらぬ姿で、川の上流に横たわっている。

 山荘の中にも、あちこちに大君の思い出が転がっていた。大君とともに語りつつ、一夜を明かした仏間……夏の暑い日に、二人の姉妹をのぞき見した障紙の鍵穴もそのままだ。

 今日そこをのぞいてみても、中の部屋は格子が下ろしてあるので暗くて何も見えない。そして大君の形見といえば、今や人妻となっている中君だけだ。

「ここ数カ月、これといったことはありませんでしたが、亡き人への尽きせぬ思いを聞いて頂きたく、それがあなた様の心のお慰みになるやもしれぬと思いますので、どうか物越しででもお話し下さい。身内同然の私ではありませんか」

 薫は女房をつかまえて、そのような言葉を中君に伝えさせた。だが、中君はなかなか出てこなかった。薫の申し出を渋っているところを、女房が説得しているのかもしれない。

 薫はこの時かつて亡き宮の居間だったところにおり、しばらくしてから同じ身舎もやの中でも障紙で仕切られた向こうにようやく衣擦れの音がした。

 薫は一つ、咳払いをした。

「あれこれと申し上げたいことはございますが、何からお話していいか……」

「私もまだ気が動転しておりまして、とんでもないことを口走りそうです」

 久しぶりに聞く中君の直接の声だ。

 似ている……と、薫は思った。大君がいた頃は姉妹それぞれに美しさはあっても似ているとはあまり感じなかったが、今はその声を聞いただけでも襖の向こうに大君がいるというような錯覚にとらわれた。形見として、しっかりと姉の面影をこの妹は受け継いでいる。

「本当は都に上るお祝いを申し上げるべきでしょうが、今のお気持ちを拝し、祝いの言葉はひかえとう存じます」

 薫は一度言葉を切ってから目を伏せ、そしてすぐに目を上げて障紙を見た。

「お移りになる二条邸に接する三条邸に、近々私も移ります。何かご不便がございましたら、夜であれ昼であれ何なりとお申し付けください。命ある限り、お世話をさせていただきます。どうか、私を父とも兄とも思って下さい」

 中君の返事は、すぐにはなかった。出過ぎたことを言ってしまったかなと、薫は悔やんだ。

「夫君の匂宮様も、私を兄と呼んでおりますのでそう申し上げましたが、ご迷惑でしたらお許しください。考え方は、人それぞれですから」

「本当は……ここを離れるのが辛うございまして」

 途切れとぎれの、中君の言葉だった。ここの庭にも春の訪れを主張するかのように、梅が咲き誇っている。その昔、在五中将が詠んだという「春や昔の春ならぬ」などという歌を薫が思い出していた時、不意に中君は言った。

「梅を愛していた人はもうおりませんのに、それでも昔を思い出させる梅の香りですね」

「菅大臣を慕って筑紫まで飛んでいったという梅ですからね、亡き人が好んだ梅も根ごと都に移ると思えば、同じ宿のうちと思いませんか?」

「同じ宿?」

「どこへ行きましても、この山荘に住んでいるのと同じだということです」

 これ以上話していると、薫の方も涙があふれそうになってきたので、

「また、都でお会いしましょう。今後ともよろしくお願いしますよ」

 と、言い残して席を立った。

 部屋の隅に女房が先ほどからうずくまっていたので、ずっと気になっていたことを薫はその女房に聞いてみた。

「弁の君は?」

 今回の四十九日の法事で宇治に来て以来、薫は一度もその顔を見ていない。

「今はもう奥に篭もりきりでして、私たちとも顔を合わせません」

「いることはいるのですね」

「はあ」

 何か奥歯に物が挟まったような答え方を、その女房はしていた。

「なぜ顔を合わせないのですか」

「長生きしたばかりに悲しい目に遭うと、引きこもってしまっておられるのです」

「呼んできてはくれませんか」

 女房は立っていき、しばらくしてから現れた弁の君は髪を短く切りそろえて法衣をつけた尼姿であった。

「弁の君……」

 薫は言葉がなかった。尼となった弁の君は、簀子の薫が立つ前に座った。

「もはやこの婆は、用済みでございます。中君様も都に移られるし、お仕えしていた宮様も大君様ももはやこの世におられないのなら、せめて私はこの地に残ってお二方の菩提を弔いたいと」

「そうですか」

 薫も、そのまま簀子に座った。

「私もですね、中君様が都に移られてしまったら、もう二度とこの地を訪れることもなくなるかと思いまして、それが寂しくもあったのですよ。でもあなたがここに残ってこの山荘を守ってくださるというのでしたら、私はいつでも思い出を求めてこの地に来ることができます」

「どんな因果か……よほど罪深い身なんでしょうね。長生きしたばかりに、辛い目にばかり遭います」

 いつしか老婆の目には、また涙が光っていた。

「生きておられれば、またいいこともありますよ」

 そう言いつつも、言っている本人の薫自身も虚しかった。尼の気持ちは、そのまま今の薫の気持ちでもあった。

 そのうち、日もとっぷりと暮れた。さすがに宮中を休んでばかりもいられないので、薫はその日は泊まらずに都に帰ることにした。

 都に戻れば、何ごともなかった人々が何ごともなく日常の生活をしている。そのような中へ、大いなる悲しみを胸に秘めたまま薫は戻っていかねばならないのであった。

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