1
新しい年が明け、春が来た。
善人の上にも悪人の上にも等しく雨は降るように、幸福にひたる人にも悲しみに打ちひしがれる人にも、春は平等に巡ってくる。
しかし、薫にとっては辛いだけだった。春が来たからといって、それでどうなるということもない。春の訪れとともに、大君が戻ってくるというわけではないのだ。かえって大君と過ごした日々に「去年」という名辞がつき、その存在がますます遠くなる。その去年の春には、紛れもなく大君はこの世の光の中に立っていた。
正月というのはわずか一日の日付が変わっただけなのだが、それによって去年から今年へと年も変わり、そのことで人々は今昔の感を覚えてしまうものである。
都に戻っていた薫は、心は向かずとも一連の正月の行事に参列しなければならなかった。心は闇であっても、世間は彼を喪中とは認めない。それでも、そんな薫の心とは関係なしに世の中は動いていく。
白馬の節会の日に、権大納言の加冠したばかりの次男が、従五位下に叙せられた。父親は二位でありその蔭位があるとはいえ、次男ではせいぜい従六位上がやっとのはずであったが、今回の叙位は冷泉院の年爵によるものであった。
この権大納言の次男はわずか十一歳の早い加冠で、昨年の摂政の六十賀で権大納言の弟の粟田殿権中納言の長男とともに舞いを舞ったあの稚児の阿古君である。
ちなみにあの時ひと騒動起こした粟田殿の長男の福足君は、すでにこの世になかった。蛇をいじめ、その祟りで頭に腫れ物ができて他界していた。それを思うとあの舞の舞台での癇癪は、彼の短い人生の中での最大限の生の主張であったのかもしれない。
そんな頃に、宇治の阿舎利から薫のもとに文と進物が届けられた。
「大君様の後の弔いは、年が明けても滞りなく執り行っております」
そんなあいさつとともに届けられたのは、宇治の山里で採れた蕨や土筆の初ものであった。
そのようなものにも心を慰められながら節会も終わったある夕暮れに、薫は二条邸を訪れた。翌日からはまた御斎会が始まるので、当分宮中に缶詰になりそうだったからである。
二条邸の西ノ対の前の梅は、清らかにそのほころびを見せていた。薫が訪ねたのは、匂宮が廂の間に出て筝の琴などを爪弾いている時であった。
薫は梅を一枝折って、匂宮のいる近くの軒下まで庭を歩いていった。今や宇治の思い出をともに語ることができるのは、この匂宮をおいてほかにはいない。
すでに見張りの侍も任を解かれており、そのことが匂宮の文にあったように母の心が解けた証しであった。
「おや、わざわざ梅の枝を手にしていらっしゃるというのは、何か意味がおありですか?」
「いえ、別に。何となくですよ。そういちいち勘ぐられたら、困りますね」
薫がそう言って笑うと、匂宮も笑みを見せた。そして促されるまま薫は殿上に上がり、廂の間に入った。
「兄君に、新年のご挨拶はやめておきましょう」
さすがに匂宮は、薫の心情を察してくれている。今日も空はどんよりと曇り、その空も闇に包まれはじめる時刻であった。
「もう私は抜け殻です。こうして生き長らえているのが不思議なくらいでしてね」
薫はそう言いつつ、匂宮のそばに座った。
「兄君のお心はよく分かりますが、お気をしっかりとお持ちになって下さい。私がここで放蕩にふけっていた時に、一喝された兄上に戻ってくださいよ。あのお蔭で、私は真っ当な自分に戻れたのですから」
薫は苦笑を浮かべた。匂宮はこれから春が深まりいくにつれて、確実に幸せが待っている。外は暗くなり、まるで今の薫の心を象徴するかのように、冬への逆戻りを思わせる冷たい風が激しく吹いていた。
「兄君。中君のことですがね」
さっそく匂宮は、その話をもち出した。
「姉君の喪が明けた頃に、この二条邸に迎えたいと思っているのですけれど」
喪が一年続く親と違って兄弟姉妹の喪は三カ月だから、春のうちには喪も明ける。
「それはよかったですね。私も、あの人がそばにいたらうれしい」
「あのねえ、兄君。中君は私の妻ですよ」
匂宮は苦笑の混じった笑みをもらし、薫も微笑んでいた。
「分かっております。ただ、父宮様のご遺言通りに姫様お二方とも幸せにしてさし上げられず、大君はあのようなことになってしまいましたから、それが心の責めになっているのです。大君も今際に妹を頼むと私に言いましたし」
「そうですか」
「もちろん夫君は匂宮様だけど、私は親代わりのようなものでして、それに中君様は大君の形見でもありますからね。そのように考えるのはいけませんか?」
「ん。まあ……」
匂宮はまだ、何か浮かない顔をしていた。
「とにかく私は、中君様には幸せになってもらいたいのです。匂宮様にかかっていますよ」
「兄君も、早く新しい幸せをつかんでください」
匂宮は、にっこり微笑んだ。薫もそれに応える。しかしその作り笑顔は、薫にとっては辛いものだった。




