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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
橋姫
191/251

 時に、秋も末であった。

 高山などはすでに紅葉の盛りだと思われるが、京洛ではまだであった。洛中では暦の上で冬になってからでないと、周囲の山は紅葉しない。

 薫が出発したのは深夜だった。朝になれば有明の月になるであろう下弦の月が、ちょうど東山の上に顔をのぞかせていた。この時刻に出れば、明け方には宇治に着くはずだ。朝出れば着くのは昼になるであろうし、また泊めてもらうのも恐縮する。だからといって泊まらなければ、宮とは半日しか語れないことになる。この時刻に行けば、泊まらなくてもまる一日を宮との談話に費やすことができる。夕刻に向こうをたてば、夜半には帰りつける。

 薫は時刻も時刻なので車ではなく、馬で出かけた。服装も狩衣という、ごく忍んだ姿だった。

 供も二人で、一人には馬のくつわを取らせ、もう一人には松明たいまつを持たせた。供はそれで十分である。だが、月が明るいので都を出るまでは無灯火で進んだ。火をともしていれば、盗賊への目印となる。

 やがて、道は山の中へと入っていった。たまにある民家の脇を通る時は、家の人々が目を覚ましてしまったらしく、みすぼらしい板窓を内側から押し上げてのぞいていたりする。

「少将殿の、御香りでございましょう」

 供のものが、振り向いて言う。その声があまりにも大きかったので、薫は「シッ!」と制したが、顔は苦笑していた。

 道の左右が小柴垣になると、人里近い証拠だった。道自体も下り坂になっている。微かにあたりは薄明るくなってきていた。

「おお」

 思わず薫は声をあげた。道が降るに従って、どんどん霧が濃くなっていく。宇治のやしろ建立こんりゅうのために何度も訪れていた土地ではあるが、その宇治の川霧を実際に眼にするのはこのときが初めてであった。

 進むにつれて霧の中から、川の激流の音が聞こえてくるようになった。もうかなり明るくなってきているのに、霧のために前がよく見えない。それでも車だと前と後ろの御簾越しにしか見えない景色の真っ只中に、薫は今や体じゅうで浸っていると実感していた。

 川沿いの道に出た。宮の山荘はもうすぐだ。

「ちょっと、待て」

 薫は従者の足を止めさせた。

がくが聞こえるぞ」

「はあ、確かに」

 川の音に混じって、上流の方の霧の中から微かながらも楽の音が漂ってきている。

 宮様だ……と、薫は直感した。宮が仏道修行のかたわらに楽もたしなむということは、すでに聞いている。だから,あの楽も宮の御(きん)に違いないと思った。そしてこんな朝早くから楽とは風流なことで、自分はいい時に来たとうれしくなり馬足を少しだけ速めた。

 ところが、薫はすぐに手綱を引いて馬をまた止めた。

「違う」

 と、薫はつぶやいた。楽の音はきんことではなく、琵琶だった。黄鐘調おうしきちょうの調べで、さらにそれにそうことが重なっている。琵琶と筝の合奏……となると、当然奏者は複数である。

「行くぞ」

 薫は再び馬を進めた。合奏は二人の姫君に違いなかった。その時、薫は自分の意に反して、胸が踊っているのに気がついた。霧深い宇治の早朝の風景と姉妹の合奏には胸がときめいて当然で、それが普通である。だが、普通という言葉が嫌いな薫にとっては、胸が躍るというのは珍しい現象であった。

 薫の覚めた部分は、どうかしていると自分を責めた。だが、女そのものではなく女の奏でる楽の音をめでるのは聖教には反しまいという声も、また心の中でする。それは飽くなき美の世界で、釈尊も天界最奥(さいおう)の紫微実相宮は至高芸術界であると説いている。

 山荘が近づいた。川の音は依然として激しいが、琵琶と筝のはより一層はっきりと聞こえるようになってきた。

 人が奏でる同じがくでも、弾いているのが姫であるということは嫌でも意識されてしまう。申し訳程度の垣の脇には、宿直とのいさむらいの小屋がある。薫はそこに向かって咳払いをしようとしたが、すぐに思いとどまってやめた。ここで自分の来訪を知らせれば、あの楽に音はやんでしまうに違いないと思ったからである。

 なにしろ先日泊まった時は、父親である宮が隠して隔てているわけでもないのに、薫にその存在さえ感じさせなかったほどの姫たちである。

 ところが、薫がどうしたものかためらっているうちに宿直の小屋の戸が開き、侍が寝ぼけまなこで出てきた。

「おお、やはり左佐さすけ殿のおいででしたか」

「薫の君様は少将になられました」

 いきまく供のものを薫は苦笑しながら制して、馬から降りた。考えてみれば左衛門佐から左近衛少将に昇進してから初めての来訪であるから、ここでは左佐と呼ばれてしまうのも無理はない。

「なぜ私が来たことが分かったのかな?」

「それはもう、いい香りがなさいましたから」

 時には、それが不便でもある。

「宮様は、お留守でございます」

 薫が尋ねるよりも先に、侍がそう答えてしまった。

「え? お留守?」

「ええ、このすぐそばの寺にお篭もりですが、すぐそこですからひと走り呼んで参りましょう」

「待て待て」

 今にも駆けて行きそうな侍を、薫は慌てて制した。

「それには及ばぬ。せっかく日限をお決めになっての御参篭であろうから、邪魔立てしては申し訳ない。姫様方にでも、私が参ったことを伝えてくれ」

「では、ただ今」

「まあ、待て待て」

 薫の中で、何かがときめいた。

「こんなことは滅多にない。今取り次がれたら、あの楽を奏するのもやめてしまわれるだろう。どこかでもう少し聞かせていただきたいんだが、いい所はないか」

「人が聞いていないときしか、あの楽の遊びはなさらないのでございます。来客さえなければ、こうして早朝や夕暮れにはああしてを合わせておられますけどね。ところがたとえ下人であっても、都から人がきているときには、琵琶や琴にはお手さえ触れません」

「では、なおさらこのような機会はないではないか。いいか、そのへんの好きものが手引きをせよと言っているのではないのだ。ただ、あの楽の音に酔いしれたのだよ」

「しかし、私が叱られますし」

 そうぶつぶつ言いながらも、侍は薫を小招きして一度坂を下って川沿いの道に出た。馬と供のものは待たせたままだ。そしてすぐに庭の反対側になる辺りの傾斜を登る。

 上は透垣すいがいだった。その戸を少し開けてまた侍は薫を招き、中を見ろと無言で促す。

 薫は息をのんだ。侍は気を利かせすぎた。薫としてはただ楽の音が聞ければそれでよかったのに透垣は建物の近くで、ここからは部屋の中までが丸見えだった。

 ものすごい衝撃が、薫の中で走った。二人の姫の姿が、直に視界の中に飛び込んできたのだ。あたりはまだ明るくなりきってはいないが、薫がのぞいた瞬間に霧が晴れて、黄色い光を若干残している有明の月が庭を照らした。

「あら、お姉さま、撥で月を呼びましたのよ。扇でなくっても」

 声までが、はっきりと聞き取れる。笑んで端近に座す琵琶を持つ姫がそうささやくと、その言葉と重なるようにすぐそばで別の笑い声が上がる。

「まあ、入り日ならともかく」

「でも琵琶の撥は、月とは御縁がありましてよ。隠月っていうではありませんか」

 そうしてまた、二人で笑っている。顔までもがはっきりと見えた。二人とも美しい。二十四と二十二歳と聞いていたが、それよりもずっと若く見えた。

 薫の胸は、今にも飛び出さんばかりに波打っていた。目の前に御簾越しでもなしに若い高貴な姫たちがいる。幻想の中の絵巻物のような夢か幻の世界に迷い込んでしまったような酩酊感が薫を襲い、彼はもはや自分を失っていた。胸が熱くなり、呼吸すら忘れているような感覚で、生まれて初めて味わう状況に、どうしたらいいのかさえ分からずにいた。

 薫の全身は、もはや石であった。その石の中で、目だけが動いている。筝が三つほど音を弾き、撥が琵琶の弦をたたいた。また、霧が立ち込めてくる。琵琶を持つ方が妹で、筝の琴の方が姉……薫は何となく、そう判断していた。

 その時女房が二人に近づき、小声で何かを言っていた。すぐに姫たちは立ち上がり、慌てた様子で奥へと入っていった。そして、御簾が下ろされた。幻想絵巻はここで終わった。

 しばらく薫は、動けないままそのままたたずんでいた。そして少し時間がたってからようやく我に返り、意識も覚めはじめた。

 ――薫! 何をやっているんだ!

 心の中で声がする。薫は首を左右に激しく振った。そうだ、自分はいったい何をしているのか……そう思うと、すべてを振り切りたくて再び顔を左右に激しく振った。

 とてつもないことをしでかしてしまったような感覚だ。成りゆきとはいえ、大それたことをしでかしてしまったという思いで、今度は全身が震えだした。人様の娘御を、しかも高貴な姫の顔を直接に垣間見る……世間の男なら普通のことだが、しかし自分は世間一般の凡人とは違うはずだし、また同じであってはならないはずだ……薫は自責の念にかられた。

 それでも、胸の鼓動はまだ続いていた。美しかった。正直いって、あんなにも美しい姫だとは思っていなかった。それも、姉妹ともにである。

 薫はふらふらと泥酔者のようにして供のものたちの所に戻っていったが、その間も姫たちの顔が脳裏に焼きついて離れなかった。

 ――薫! 都へ戻るぞ。そう供のものたちに言え。馬に乗れ。

 心の中で、また声がする。しかし薫が供のうちの一人に実際に発した言葉は、それとは正反対のものであった。

「おまえたちだけで都へ戻って、車をまわしてくれ。それから、狩衣を濡らしたからと、直衣を積んでくるようにも言ってくれ。馬を貸すから、飛ばして駆け戻れ」

 言いつけられた供のものは恐縮しながらも主人の馬に乗り、たちまちに駆け去っていった。これで薫は迎えの空車が来るまでは、都に戻るすべを失ったのである。馬は早くに都に着いたとしても、車が戻ってくるのは優に半日はかかる。それまで薫は、ずっとここにいなければならにことになった。

 ――どうするのだ、薫!

 そんな自分の心の中の声をよそに、薫は先ほどの侍に言った。

「宮様がお留守とはあいにくだったが、かえってうれしいことがあったよ。姫様方に取り次いでおくれ。衣も濡れてしまっているしね」

 侍はまたもやしぶしぶ中へ入っていき、そのままなかなか出てこなかった。ついに薫は、一人で庭に入った。もうすっかり明るくなってはいるが、まだ霧は晴れきってはいない。

 先ほど見た姫たちがいた部屋は、今では御簾が下ろされている。薫はその前の簀子に上がって座った。中では何人かの女房たちが慌てて行ったり来たりしているようで、衣擦れの音がする。何か困った様子で、互いに相談しているようでもあった。自分に対する扱いを決められずにいるらしいと、薫は察していた。

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