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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
橋姫
187/251

 鎮座祭が終わった後、権中納言には適当な言い訳をして先に帰ってもらった。車は彼に譲らざるを得なかったので、薫は馬で川縁の道へと出た。供も三人だけである。

 ここの川は、川幅が広い。それなのに鴨川のような河川敷はなく、川は流域いっぱいに満々と水をたたえている。そしてその広さにもかかわらず、川幅全体が激流となって左手の山合から右手の川下へと流れていく。その川下の先には広々とした巨椋池おぐらいけの湖水が広がり、その彼方は霞んでいる。

 だが、その光景を見渡すのをさえぎるように、大きな橋がかけられていた。近江の瀬田の唐橋にも匹敵する長い橋だった。その瀬田の唐橋の下をくぐった流れが延々と旅して、山と山の間の谷間から流れ出て目の前の急流の川となっているのである。

 薫のいる位置からだと、対岸にはこんもりとした森が見える。その壮大な敷地は、東三条右大臣の別業だ。宇治の社も宮の山荘も川の手前で、橋を渡る必要はない。

 薫は橋とは反対の上流の方に向かって、川沿いを歩いた。これが阿舎利から教えられた道だ。歩きながらも薫は、馬でよかったとつくづく思った。車だったらこのような周りの景色を、十分に堪能することはできなかったであろう。

 山荘はすぐだった。その山荘へ続く坂の下まで、無精ひげの小太りの家司が一人、出迎えに出ていた。薫を見るとその家司は一度畏まり、宮が待ちかねている旨を薫に告げた。

 馬をその家司に預け、供も待たせて、薫は一人で山荘の入り口の坂を上った。

 山荘は、川よりは少し高い位置にある。狭くてまっすぐな坂道を登ると、宮が庭に下りて待っているのが見えた。狩衣かりぎぬ烏帽子えぼし姿だった。

「おお、ようこそ。このような山深い里に」

 宮は相好を崩していたが、薫はしばらく言葉がなかった。胸が詰まっていたのである。宮の歳は聞いてはいたが、それよりもずっと老けて見えた。しかし、細身のその体は、高貴さを失ってはいなかった。

 山荘は都の貴人の邸宅の対の屋よりも小さく、それが寝殿で、あとにも先にもほかに建物はなかった。しかも、その建物は萱葺きであった。

「さ、どうぞ」

 中に招き入れられても、薫はしばらくあたりを見回してしまった。もと左大臣で、今は皇族に戻った宮の住処すみかとは、とても思えなかった。

「驚かれているでしょう」

「は、はあ」

 正直に言ってしまってから、薫は慌てて取り繕おうとした。だが、宮の大笑いの方が早かった。

「こういうところが、世を捨てた私の隠れ家としてはふさわしいのですよ」

「ご無礼致しました。川が近うございますね」

 言ってしまってから薫は、またしまったと思った。川の音がうるさいということを、暗に言ってしまったことになったと思ったのである。だが、それは事実で、轟々たる川音が耳をつき、とても静かな山里とは言えない。どうやら薫は、相当上気しているようだ。だが、それでも宮はにこにこと笑っていた。

「ようこそ、おいでくださった」

「お会いしとうございました」

 あらためて薫は礼を作る。

「つのる話は後にして、しばらくおくつろぎ下さい。今日は、泊まっていかれますね」

「はあ。しかし、明日は宮中へ出仕せねば」

「今からお戻りになりましたら、都に着く頃は夜半を過ぎます。宮中への假文は、わが家司の一人を走らせましょう。冷泉院へも」

「かたじけのう……」

 それから宮は、席を立った。しばらくは薫一人でくつろがせてくれるようだ。薫は黙って狭い庭を見つめ、川の響きに耳を傾けていた。

 宮は思った通り柔和で、そしておおらかな人であった。そこに父を感じる。幼くして父と離ればなれとなった薫だけに、父と同年齢で、母こそ違え父の兄弟である宮の中に父の面影を重ねたとしても不思議ではない。そして何よりも初対面のはずの宮に、とても初対面とは思えないような、薫は懐かしさを感じていたのだ。

 夕餉はともにとのことであった。酒も出た。俗聖というほどの人だから酒は出ないかとも思ったが、そのへんは存外柔らかい考えの持ち主のようだ。

「俗聖の特権ですよ。本物のひじりでは、こうはいきませんでしょう」

 笑いながら宮は、薫に杯を勧めてきた。薫は恐縮しつつも、やはり昼間に初めて会った時と同じ心の安らぎと興奮を感じていた。

「ときに、法華経はすべてお読みになりましたかな」

 話題が、薫の期待していた方に進んでいった。

「ええ。ひと通りは」

「これはお若いのに感心ですな」

「若いとおっしゃいましたが、私はもうすぐ三十路みそじに手が届きます」

「いや、私から見ればお若いですよ」

 薫は自分が匂宮などからは年寄り扱いされているだけに、くすぐったくもあった。それにしても、目の前に父が座っているという錯覚が何度も薫を襲っていた。

「左佐殿は、お父上とはあまり似ていらっしゃいませんな。お母上の血を濃く受け継がれたのかな」

 その言葉に、薫は一瞬息をのんだ。目の前の宮を父になぞらえて見ていたが、その父は果たして本当に自分の父であるかどうかは分からないのだ。忘れようと努めていたことが、薫の中で頭をもたげてしまった。だから薫は黙った。

「これは悪しく申しましたかな。お許しください」

「あ、いえ、そんな」

 薫の方が慌ててしまったが、宮はまた気さくに笑っていた。薫も付き合いで笑みを浮かべたが、まだ見を固くしていた。

「さ、どうぞ」

 また、杯が勧められる。

「それにしても、どのようなお香をお使いで……」

「いえ、それは……」

薫が初対面の人には必ず言われることであり、それに対する答えももう慣れてしまった。

「おお、自然じねんの香りですか。いや、実は私は昔お父上が主催された香合こうあわせの判者を頼まれてしたことがありますが、この香りでしたら間違いなく勝ちの判定を下したでしょうな」

そう言いながらも宮は、遠い昔のみやびを回顧している様子だった。

「宮様は、思った通りのお方でした」

 今度は、薫の方から話を切り出した。

「世に名高き高僧という人たちは、どうしてああ気難しい顔をしているのでしょうね。またそれとは逆に、気軽に接することのできる僧はなぜか言葉も態度も卑しくて、本当に聖職者なのかしらんと思ってしまうくらいでして」

「それが正直なご意見でしょうな。左佐殿は、釈尊のお顔やお姿を思い浮かべてみられたことがございますか」

「金剛色に輝く、眩しきお姿を頭に描いておりますが」

「いえいえ、御尊像のお姿ではございません。現世に下生しておられた頃の釈尊の、生の御表情でござる」

「それは……」

「釈尊ももとは、われわれと同じ肉身を持った人間だったのですよ。それが民草を相手に、分かりやすく法を説かれたのです。それが、今の高僧といわれる方たちの並べる御託は、釈尊ご自身もわけが分からぬとお手を上げられるんじゃないでしょうかね。御入滅後二千年、間もなく末法に入ります。それまであと数十年の余裕はございますが、いずれにせよ二千年前には釈尊もわれわれと同じ肌を持ち、同じ血が通っていたわけでございます。そのことは、忘れてはならないことと拝します。その民草を導いた釈尊が気難しい顔をされていたのであったなら、誰がついて参りましょうや。釈尊はいつも笑みを絶やされることのない、そんなお方だったと私は思っておりますが、いかがでしょう」

「いや、私は、そのような話は初めてお伺いするものでして」

「そうでしょう。寺の僧たちはとかく釈教に尾びれをつけて難しくして、権力の上にあぐらをかいていますからね。これが今の仏寺の現状ですよ」

 この頃になって、ようやく薫の心も打ち解けてきた。そうなるともはや数十年来の知己に相対するような心持ちになることができ、宮もまたそのように接してくれた。仏典のことについても、もったいぶらずに話してくれる。寺の僧なら、こうはいかない。

「いいですか。考えてもごらんなさい。釈尊は誰を相手に教えを説いたのか。学者にですか? 違うでしょう。文字の読み書きもできないような民草にです。そのような人々に、今の寺僧が口角泡を飛ばして論じているような経典教義を説いて理解できると思いますか? 大衆はついていくでしょうか? 私にはそうだとは思えません。いいですか。真理というのは、本来分かりやすいものなのです。釈尊が説いた教えも、無学文盲の大衆でも理解できるものだったはずです」

「確かに、そうですね」

「そもそも本来の仏法は、大衆のものなのですよ。一部の学者や僧侶のものではないはずです。それを、今の僧侶たちは自分たちの私物のように思って、勘違いしているところがありますね。こうなると、僧とは一種の官職ですな。役人と何ら変わりはない。私が出家しない理由の一つも、そこにあるのです」

「私も同じです。宮様のような俗聖の足元にも及びませんが、一介の優婆塞うばそくとしてでも道を極めたいと思っておりますので、どうか今後ともご教導の程、よろしくお願いします」

「いえいえ、私の方こそ。お若いあなたの感性から、お教え頂くことも多いでしょう。私は一度は権力の頂点にいいたこともある身ですから、政治の世界の醜い裏も知っています。だから、それをまだご覧になっていないあなたこそが、むしろ私の師かもしれません」

「そんな、困ります」

 薫は本当に困っている様子だった。それを見て、宮は笑った。

「では、どちらが師ということはなしにして、友として語り合いましょうぞ」

 それとて恐縮の至りだが、薫は一歩譲ることにした。

「先ほど申し上げましたように、寺の僧とはこのように心を開いて語ることはできません。ましてや私は宮仕えの身ですから、屋敷に戻ったあとの時刻では僧も来てくれませぬし。唯一接することのできる僧といえば、わが父の御堂の、冷泉院に出入りされている阿舎利だけでした。まあ、今回はその阿舎利のお蔭で、宮様ともお近づきになれたわけですけれど」

「私とてその阿舎利のお蔭で、よい友を得ました。さあ、もう一杯」

 自分の父と同年齢の叔父に友と呼ばれてどうしたらよいか分からず、薫はとりあえず杯を頂戴した。しかしここに、世代を越えた友情が成立しつつあるのも事実だった。

 夜になっても、当然だが川の音はそのままだった。ここでは、静かな夜というのは存在しないらしい。だから薫は、いらぬことに気を使ってしまう。

「夜は、お休みになれますか?」

「ああ、この年ですからね。それに慣れというのか、川の音も気にはなりません」

 宮も薫が何に気を使ったのか、機敏に察している。

「娘たちもはじめは川音が耳について眠れずにいたようですが、今は慣れたようです。私も三日で慣れました」

 高らかな声をあげて、宮は笑った。

「姫様がおいでで?」

「実は、この山荘には姫が二人、ともに暮らしておるのですよ」

「そうなんですか」

 別にそれで、目を輝かせるような薫ではない。もっとも、宮に姫が二人いることは、阿舎利から聞いて知識としては知っていた。だがあえて薫は、初耳のふりをした。ここに来て以来、姫がいるということが薫の表面上の意識から消えていたのも事実である。

 さほど大きくはない母屋に、宮のほかに姫が二人もいるという気配は、つゆ感じなかったのだ。もしや姫は亀山においてきて、ここでは宮は一人で暮らしているのではないかと思ったほどだ。それを確かめるべく、薫は遠慮がちに、

「姫様がたは、今宵はどちらかへ?」

 と、聞いてみた。

「いえ、おりますよ」

 宮の答えは、あまりにあっけらかんとしていた。しかも姫のいる同じ建物に、姫の父である宮は薫を平気で泊めようとしているのだ。

「上は二十四、下は二十二で、どっちももうとうが立っておりますな」

 宮は笑う。これで薫は姫の年齢を初めて知ったのだが、確かに婚期は逸しているといえた。

「このような山里で暮らさせているのも不憫ではありますが、あの子たちなりに私に気も使ってくれつつも、のびのびと暮らしてますよ」

 宮のその言葉を最後にして、薫は姫の話題には触れないことにした。


 夜も更け、その部屋で薫は休ませてもらった。格子を下ろしても川の音が耳につき、なかなか寝付けない。それだけでなく、障子をひとつ隔てただけの部屋で、二十四歳と二十二歳の姫が二人寝ているのだ。薫の従妹たちであり、世の男たちがもはや乳母桜と見向きもしない年頃ではあっても、もうすぐ三十代という薫から見れば若い女性だ。だが、さらに障紙をひとつ隔てて、彼女らの父も寝ている。さしずめ匂宮あたりが今の薫と同じ境遇になったら、たとえ父が同じ屋根の下にいようと姫の寝所に忍んでいくに決まっている。

 それなのに宮は、薫をここに泊めた。薫を弟のように慈しんでくれている冷泉院でさえ、その姫宮と薫との間にはものすごい防御壁を置いている。それにひきかえ、この宮の無防備ぶりはなんだろうか……自分には関係ない、どうでもいいことだとは思いつつも、横になった薫は少々気になった。

 もしかしたら田舎育ちの姫だから、二目と見られない醜女姉妹で、それだけに父親も安心しているのだろうか……いやそうなら、なおさらに姫に何とか婿をと父親は躍起になるものである。薫などはうってつけの標的となる。だが宮の言葉の端には、そのような気配は全く見られなかった。自分の娘をつかまえて「とうが立っている」などというのは、婿取りをあきらめている証拠ではないだろうか……しかも、場所もこんな草深い山里である。

 やはり宮は、薫のことを本当に友と思って信頼してくれているようだ。もちろん、そのような信頼を裏切る薫ではない。もうどうでもいい……と、薫は思って寝返りを打った。たとえ宮がわが娘をどうぞと薫に差し出したとしても、薫は辞退しなければならない。女などにかかわりを持っても、関心を持ってもいけない……自分にはそのようなことは許されていないのだと、薫はまたため息をついた。……仏道を極めるためには、凡人になってはならない。普通の人生は送りたくないから、普通の人のように普通に女と幸せになったりしてはいけないのだ……そして……。

 薫は、思い余って目を開けた。闇だけが目の中に飛び込んできた……自分は誰の子かも分からないのだ。本当の父は、本当の母は……何もかもが分からないのだ。つまりそのことは、この世において自分が何ものか分からずに存在していることと同じになる。そのような存在が、女と幸せになる資格などない……そんなことを思いつつも、薫はようやく眠りに落ちた。


 明るくなってから目が覚めて、そこが自邸ではないことを薫は思い出した。

 川も一面に、朝の霧がたっていた。その霧が晴れないうちに、薫はここを後にして都に返らねばならない。

 出発までとうとう、二人の姫君はその存在の気配すら感じさせなかった。宮に送られて、馬で都へと向かった薫であったが、その胸中には宮との語らいがほのぼのとした思いとなって残っていた。

 その熱い思いは、数日間は宮中に出仕している間も消えなかった。

 宮と語った内容、そしてその人柄、宇治の風景、そんなものが混ざり合って熱いかたまりとなっている。

 冷泉院の上皇にも、自分が見てきたありのままを薫は報告した。上皇も大変お感じになって、その後も宮へ文ばかりでなくたくさんの品物をも届けさせた。

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