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夏の更衣が過ぎても小倉山の宮とは何回かの文通をしただけで、訪ねて行って対面するといった念願は薫はまだ果たせずにいた。
公務に加えて、私事の面でも慌ただしくなってきている。まずは、父光源氏の同母兄弟のうちたった一人生き残っていた大蔵卿宮が出家入道した。これは流行の遁世出家ではなく病を得てのことであり、宮は即日他界した。
薫が東京極の向こうの宮の東二条邸に駆けつけたときはすでに遅く、枕もとでは薫の妹が泣きはらした目で兄を見上げ、首を激しく横に振っていた。妹は父が筑紫に下ってからずっと、この宮によって養育されていたのである。薫の叔父宮は、享年六十九歳であった。
これで薫たちの父・光源氏の同腹の兄弟姉妹は、一人もいなくなったことになる。異腹を加えれば薫の伯父・叔父は十数人を数えていたが、今でも健在なのは六十三才の彈正宮、そして亀山の俗聖の宮の二人だけであった。
故大蔵卿宮の葬儀には匂宮の母である式部卿宮妃――すなわちかつての明石の姫の姿もあったし、さらに冷泉院、式部卿宮、新院法皇などからも不祝儀が届けられた。明石の姫の実母の明石の御方は、故宮の母方の従妹である。
問題なのは薫の妹であった。すでに二十二歳になるのに、定まった婿もいない。そして、ここで後見となってくれていた叔父をも失ってしまった。さらには、母の実家からの後見がないことも、何とも頼りないことである。母は九条家の養女であったとはいえ所詮養女は養女にすぎず、本来は内親王である。しかも、今は尼である。その妹を薫が引き取るにしても、なにしろ薫自身が冷泉院に住みついており高松邸にはほとんど戻っていない。すべての家政は政所の家司に任せきりである。
そんな困惑の中にあえいでいた薫に、朗報がもたらされた。
噂を聞きつけたようで、東三条右大臣の娘である梅壷御息所が薫の妹の世話をしたいと申し出てきたのである。
御息所は二十五歳で薫の妹とあまり年は変わらないから、親としてというより姉として面倒が見たいということであろう。妹の母は一応は九条家の養女、すなわち東三条右大臣の仮の妹なので、御息所から見て薫の妹は仮の従妹となる。
その御息所は新院法皇の御在位中は女御だった人で、何より今の東宮の母である。東宮即位の暁には国母となるはずで、中宮にこそなれなかったがいちばん皇太后になる可能性の強い人だ。
御息所は今は宮中を出て、父の東三条邸の南院にいる。ほかに東三条邸では冷泉院の第二皇子、第三皇子、第四皇子も右大臣のもとで養育されていた。冷泉院の皇子では今の帝だけが一条摂政の娘を母とし、その他は右大臣の娘、すなわち梅壷御息所の亡き同母姉が母だからである。
こうして薫の妹は東三条邸の南院にいる梅壷御息所のもとに引き取られ、ひと安心がついた。私事だけでもこう立て続けにいろいろとあっては、薫が亀山を訪ねるのは難しかった。
公事でもまた、薫の体は自由にならない。
先帝皇女である前斎宮が、大蔵卿宮の逝去から半月もたたないうちに薨去した。三十七歳だった。薫は詳しくいきさつを知っているわけではないが、その前斎宮の母も斎宮であったようで、薫の父・光源氏の後見で先帝に入内したのだという。さらにその母、つまり前斎宮の祖母の六条御息所という人も、光源氏と何かしら縁があった人らしいい。
これでまた父の縁の人が一人、この世を去ったことになる。父の存在が、また世間で薄くなっていく。そのことに薫は、一抹の寂しさを感じていた。
父の縁といえば、父が恩を蒙ったとして話してくれた宇治修理大夫を祀る社の建立が父の遺言でもあったわけだが、それがこの夏には完成の見通しが立った。薫は、ますます忙しくなりそうであった。
薫はこの宇治の社の鎮座祭と御霊入れのため、院に二、三日の暇乞いをしていた。そのときにまた、例の嵯峨の阿舎利がやって来た。阿舎利は何か暗い顔をしていたが、その阿舎利にも薫は宇治行きの話をした。
すると、宇治と聞いた途端に阿舎利の顔は急に輝いた。
「いや、これこそ塞翁が馬」
院も薫も、わけが分からずに唖然としていた。
「実は今日は、左佐様に何と申し上げたらよいかと、悩みながら参上したのですよ。例の宮様が都を離れて、別の山荘にお移りになるとお聞きしたものですから」
「都を離れて? なぜ?」
薫の顔は、真顔になった。公私にわたる多忙さにかまけて訪問が延び延びになり、対面も実現しないうちに宮によそに移られてしまったら、せっかくの邂逅がすべて水泡に帰してしまう。来た時の阿闍梨の顔が暗かったのは、薫の落胆を十分に予想したからであろう。
だが今は、なぜか阿闍梨は妙に笑んでいる。
「仏道を極めるためには亀山では人里近すぎるので、もっと山奥の地にと……」
「では、小野あたり? まさか、比叡の山では」
「いえいえ」
もったいぶって笑んだまま、阿舎利はしばらく黙った。
「これぞみ仏の導き」
そう呟いてから、薫を見て阿舎利は言った。
「移られたのは……宇治でござるよ」
「え?」
薫の顔も輝き、思わず上皇と顔を見合わせていた。
「左佐。いい口実ができたではないか」
「はい」
院の言葉に、薫は大きくうなずいて返事をした。確かにそうだ。小倉の亀山には、よほどの口実がないと行くことはできない。宇治とて本来は同様だが、今の薫にとって宇治ならば宇治の社の鎮座祭という《《よほどの口実》》がある。
「で、宮様はいつお移りに?」
阿闍梨の答えは、薫が鎮座祭にと卜した日よりも前であった。これもまた、幸いなことであった。その日から薫は、鎮座祭の日が前にも増して待ち遠しくなった。
鎮座祭の当日には故一条摂政の子の、かつて頭中将だった権中納言も同道した。帝の外叔父ということで、今いちばん羽振りがいい人だ。
今年三十になったばかりなのに、右大臣にも対等にものを言う。その権中納言が同道したのは、やはりその父も宇治の社に祭られる人から恩恵を蒙ったという所縁があったからだ。そもそもこの社建立の遺言を光源氏が薫に託した時には、一条摂政とともにということであった、だが、その一条摂政はもはや世にない。そこでその直系の権中納言も何かとかかわってくれていたのである。
朝に都を出ても、宇治に着くのは昼過ぎになる。だから、昼前に着こうと思えば、かなりの早朝に出発しなければならない。
幸い季節は夏で、かなり早くに明るくなる。鬱陶しい梅雨空の続く毎日であったが、この日は梅雨の中休みの五月晴れで、またそう暑くもならない頃であった。
薫と権中納言が同乗した車は、どんどん山道に入っていった。初めて宇治に行った時は、宇治がこんな草深い所だということに薫は驚いたものだった。それでも、社建立のことでもう何度もここを通っているというのに、今だ心細さを感じてしまう。
車は、かなり揺れた。森の中を抜け、傾斜する道を昇る。車の両側から断続的に草が当たり、車が進むたびにそれがこすれる音がする。
この道の果てで何かが自分を待っているという予感が、薫の中にあった。とてつもなく大きな、自らの未来をも創造し得る何かがあると、そう感じていたのである。
やがて道がゆるい下り坂になると、もう川音が聞こえてくる。かつて応神天皇の皇子でこの地に遁世した菟道稚郎子を祀る社が川の近くにあり、その脇の道を川の方へ向かったところに新しい社は建立されていた。
薫が到着したときには、すでに神官たちは準備を整えて待機していた。
さっそく鎮座祭は執り行われた。これで父の遺命は果たしたことになる。だが、父には申し訳ないことではあったが、薫が今この宇治にいること自体にはもうひとつ別の心があった。




