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大嘗祭は十一月の卯の日である。この年は十三日がそれに当たった。
まだ半年以上先だ。
本来なら一昨年行われるはずであった大嘗祭であったが、故院の喪のために延期になり、昨年も一院の喪で再延期。まだ正式にその議は始まってはいないが、今年こそは何ごともなければ、まちがいなく行われるはずである。
源氏は当面、中将としての職のみに精を出していた。今のうちに衛府の職掌は一段落つけておかないと、いよいよ大嘗祭の議が始まったらまた近江権守として忙殺されるであろう。
しかし今年は昨年と違ってある程度勝手がわかっている上に、彼にとって頼もしい相方ができていた。
それは頭中将が春の除目で近江介を兼ねることになり、常に源氏と悠紀国近江のことに関しては共に行動することになったからである。たしかにそれは源氏にとって心強いことではあった。しかし同時に、頭中将の親密な笑顔を見るたびに、心が痛むのも事実だ。彼は頭中将の娘、三の君をその父親に内緒で自邸内にて養育しているのである。
昼過ぎに宮中より下がると、寝殿で束帯から直衣に着替えるや、西ノ対に直行するのが源氏の日課だった。
二日ほど宮中で宿直が続いたあと二条邸へ戻ると、更衣の日でもあって邸内は家司や女房たちが慌ただしく動きまわっていた。更衣とは単に衣服を替えるだけでなく、室内の装飾や調度もすべて夏用のそれに替えるのだった。
西ノ対へ行くと、少女は泣いていた。
「おやおや、ちょっと私が留守にしたくらいで、そんなにおべそさんとはね」
訴えるような涙目を源氏に向かってあげた少女はすでに尼君のための喪服も脱ぎ、夏用の薄い単衣を着していた。
「違うのォ! 人形のおうちを犬君が壊しちゃったのォ!」
見れは部屋じゅう人形や、その小さな家が広げられている。人形遊びの最中だったようだ。
「しょうがない犬君だねえ。ろくなことしないじゃないか。北山へ帰してしまおうか」
「だめ!」
急に少女の目は鋭くなった。
「大事なお友達なんだから」
どうもこの年頃の子供の論理はよくわからない。
「だって、人形の家を壊したり、前も雀の子を逃がしちゃったりしたじゃないか」
「えッ、お兄さま、見てらしたのォ?」
「見てたさ」
「やだあ」
やっと姫は笑った。そばにいた乳母の少納言が、安堵のため息をついた。
「まあ、源氏の君様がいらっしゃって、やっとお笑いになってくださって」
少納言がそう言っている問に源氏が端の方を見ると、もう一人の少女が柱の影からのぞいていた。
「君が犬君だね。こっちへおいで」
はにかんだ様子で犬君は、部屋に入るのをためらっている。
「でもねえ源氏の君様。姫様は今やこの西ノ対をお預かりしておりますけど、犬君は侍女。少しけじめをつけさせなければ」
「いいんだよ、まだ、今はね」
源氏は少納言にも、優しく笑う。
「あ、犬君。今度は双六しよう!」
「双六なんて、そんな下賎な」
少納言は顔をしかめたが、もう姫は犬君と双六板をはさんで坐り、賽を振っている。さっきまでけんかしていた二人だとは、とても思えなかった。
「姫様」
源氏は立ちあがって、そんな二人のそばに寄った。
「いちどお人形たちをかたづけてからね」
「だって、まだあとで遊ぶもん」
「もうねえ、十になったら普通は、人形遊びはしないものですよ」
「私、まだ九ツだもん」
「しかしそろそろ、手習いの時間ですよ」
「やだあ、そんなの。あ、そうだ。ねえお兄さま、お庭につれてってよ」
「つれてってくださいまし、でしょ」
慌てて少納言が口を挟む。源氏は笑っていた。
「高貴な姫君は、そう簡単に外へ出るものではありません」
「だってまだどこかに、桜が残っているかも」
「やれやれ、こんなじゃじゃ馬さんだとは思わなかったよ」
たしかに姫が借りてきた猫のように大人しかったのは、最初の三日問だけだった。すぐに本性を発揮しだしたという感じだ。
「源氏の君様も、あの姫様の前では形なしですね」
少納言も笑っていた。これでいいんだと、源氏は思っていた。
「今の姫は、いちばん幸せなんじゃないかな。世の中のいやなことを、まだ何も知らずにいる」
「それでも、夜中に尼君様をお慕いして、泣くこともしばしばなんですよ」
「そうか。やはりな。あの年にしては、今までしてきた苦労も多いからなあ」
「あッ! 地震!」
姫が叫んだのと、屋敷全体がきしんだのは同時だった。揺れはすぐに収まった。特に損傷はない程度の、小さな地震だった。
気がついてみると、少女はすでに源氏の直衣の袖の中にいた。
「最近、地震が多いね。十日ほど前にもあったはかりだし」
しばらく震えていたが、やがて少女は顔を出した。
「お兄さまの御直衣、いい匂い!」
源氏はふと気がついた。地震に怯え姫がとびこんだのは、乳母ではなく自分だった。
犬君は地震と同時に、すでにすばしっこく庭へととび出していた。
いよいよ大嘗祭の一連の行事が始まった。まずは悠紀国、主基国のト定だが、これは昨年すでに近江、丹波と定まっていたので、そのままそれが踏襲されて形だけのト定となった。中将の任にあわせて、近江権守としての職が多忙を極めはじめる。
自然、近江介である頭中将と、宮中で顔を合わせる機会も多くなった。そのたびに彼は、ばつの悪い思いをしなければならない。頭中将との友情のためにもこんな隠しごとはいけないのではとも思うが、今はまだすべてをあからさまにする時機ではないと源氏は思っていた。
永らく通わないのも何かと不都合と源氏は思い、妻のいる宰相中将の小野宮邸へも彼は時折は出向いた。宰相中将は相かわらず相好を崩して源氏を迎え、自慢の石帯などを源氏に贈ったりなどしている。しかし妻の方は、やはりこちらも相かわらずだった。
ほとんど会話がない。夫婦としての心の交流も全くない。
「二条邸の西ノ対には、新しい妻をお迎えとか」
薄暗闇の微かな大殿油の灯に照らされた妻の白い横顔は、無表情にそう言った。源氏は胸がつぶれる思いだった。
「どこから、そんなことを」
おおかた二条邸のおしゃべりな家人の一人が、こちらの家人へ世間話のつもりで話したのだろう。
「新しい妻なんかじゃないんだ。その人は……」
「自邸へいきなり迎えるのですから、そう身分も高くはない、宮中あたりの釆女か何かでしょうけれど、行く行くはと格別の思いをお持ちの方なのでしょうね」
この妻にはこれ以上、何を言っても無駄だと思った。たしかに源氏にとっては宮中の釆女や女蔵人などで、自分さえその気になれはなびいてきそうな女はたくさんいる。しかしそんな女たちを相手にする気には、源氏は毛頭なれなかった。
黙って源氏は行為に入った。妻はまた抗いもせず、その身を源氏に委ねている。そしてひとつになった時の妻の顔に、ふっという笑いが浮かんだのを源氏は見たような気がした。
「姫様が、なかなか髪を梳かせなさいませんでしてねえ」
西ノ対で源氏は姫の乳母の少納言から、こんなふうに小声でささやきかけられた。
「それで、あなたは夫もある身なのですからねって申し上げたら、首をかしげておいででしたよ」
少納言は笑った。源氏はくすぐったい思いだった。自分とてあの幼い姫の夫だと、自分を思おうとしたら首をかしげるだろう。では自分はあの少女の何なのか。ますます首をかしげてしまう。
手習いの他、源氏は姫に琴を教えた。のみこみは早かった。しかし姫はまだ、犬君と庭で遊ぶ方が好きなようだった。
姫のことは妻にまで知られていた。
宮中でももっぱらの噂で、源氏がその出自を秘密にしているだけに余計に人々の好奇心をあおりたて、宮中でも衛府でもその話でもちきりになっているようだ。
かなり幼いらしいと、人々は言った。しかし人々は姫が本当に幼いとは思っていなく、ただ振る舞いが幼いと思っているらしい。
噂が広まるにつれ、源氏はますます頭中将に会うのが辛くなった。しかし人々が妻として女を西ノ対に入れたと思っているうちは、頭中将とてまさかその女性というのが自分の幼い娘であるとは思うまいと、源氏はその考えがある限り頭中将とかろうじて接することができた。