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昼前に西宮邸にお着きになった帝と院はまず馬場にお入りになり、そこで馬術をご覧になってから昼過ぎに寝殿にお渡りになった。反橋や渡殿にはすべて綿の布が敷かれ、建物にも幔幕が張られていた。池には数々の舟が浮かべられ、そこで鵜を使って魚を採るところを両帝のお目に入れたりもした。
源氏の座は両帝の座の一段低い所に設けられていた。
寝殿にお入りになった帝は、そばに控えていた源氏に仰せになった。
「今日は兄君の私宴なのですから、帝と臣下ではなく父を同じうする兄弟として語り合いましょう。兄院様も、それでおよろしうございますね?」
「もちろんですとも」
院も賛成された。
やがて、池で取れた魚が庭の方から献上されてきた。これからそれが調理される。さらには北野で狩りをして得た鳥も両帝にご覧に入れた。
寝殿には左右大臣も招かれていた。その子息たちもことごとく参列している。また、源氏の同母や異母の兄弟である親王や一世源氏たちも座を連ねていた。
すぐに料理はでき、酒とともに人々にふるまわれた。
「これは素晴らしい趣向で」
院は目を細めておられた。それを受けて帝のお言葉もあった。
「そう。来年は兄君の四十の賀ですが、これほどまでに盛大なもてなしをしてくださった以上は、これ以上の賀にして差し上げないと申し訳ない」
源氏はいよいよ畏まって頭を下げた。
「真に恐れ多い仰せで」
「それに花を添えられればよいが」
「は?」
源氏は思わず身を乗り出して、帝のお顔を拝した。
「花と仰せになりますと?」
「兄君は年ごろ中納言として労も多ございました。空きができ次第……」
源氏はふと帝から視線をはずし、右大臣を見た。右大臣も含み笑いをして、黙って座ってこちらを見ている。
源氏は合点がいった。しかし、いつ空きができるかというのは誰にも分からない。そんな源氏の心境が顔に出たのであろう、右大臣はゆっくりと口を開いた。
「ここだけの話だけど、民部卿大納言は床に就きがちで、起きていても始終蒼い顔をしているそうな。自分の孫が東宮になりそこなったのが、かなりの衝撃だったと見える」
帝がそこで咳払いをされたので、右大臣は首をすくめて口をつぐんだ。
夕暮れになって人々の酔いもかなりまわってきた頃、源氏の合図で池に竜頭鷁首の舟が繰り出された。縁には五色の幕が張られ、その舟に楽人が乗っていた。庭の舞台では篝火の中で童たちの舞いが、流れだした楽の音に合わせて始まる。まだ真っ暗にはなっていないが、日はすっかり没していた。
「おお、この世の浄土だ」
院はただそれだけを、繰り返し言っておられた。
曲が「賀王恩」になった。十二、三歳くらいの元服前の童形の少年が、今度は一人で見事にそれを舞った。右大臣の八男で、何年か前から童殿上している子であり、その母は源氏の同母姉なので源氏にとっては境でもあった。
「お見事!」
帝は喝采し、右大臣にお声を掛けられた。
「あれは……」
「はい。我が八郎で、まちをさの君と申します」
「間もなく加冠ですね」
「はい」
帝はそのまちをさの君を招き、御衣を賜った。父の右大臣がその礼の為に拝舞をする。それがしきたりだ。その間、源氏は端近に出て朋友の舞を見ていた。
終わって戻ってくると、その友を源氏は端近に座っていた自分の隣へと誘って座らせてから、その耳元でささやいた。
「確実に世代交代だな」
「何を言うかね、まだまだだよ」
右大臣は笑った。
「これから大納言になろうという君が、寂しいこと言うなよ。まだまだやることはたくさんあるだろう。もっともっと昇らねば」
少しだけ笑ってから目を伏せた源氏は、真顔になっていた。
「大納言で十分だよ。私は上皇様にも匹敵するような待遇を受けたし、その上大納言となれば母方の一族の祖とようやく並ぶこととなる。母の一族は四条大納言より後はだんだんに身分は低くなっていったけど、私が大納言になれば一応は挽回したことになるからな。それで十分だ」
「また、欲のない」
右大臣はまだ笑っていた。
「私なんか大臣にまでなったけど生まれつきの臣下だから、帝の御子である君には逆立ちしたってかなわない。だからうらやましくもあるんだよ」
「いやあ、私は君がうらやましい。ま、我が長男も君のお蔭で何とかなりそうだし、次男は君の孫だし、姫もそうして頂いた。今日の宴で私の人生には一区切りついたような気がするし、大納言になったらそのことで名だけ残して、後世のための生活に入ろうかとも思っているんだがね」
「もう、いいから! はいはい、席に戻ろう。帝がお待ちかねだ」
笑ったまま立ち上がって右大臣は中へ入っていったが、源氏はしばらくまだそこに残っていた。
今自分が言った言葉ではないが、源氏はまさしく今こそ人生の区切りだとあらためて思った。俗人としての生涯は、ここで完結したと思ってもいい……庭の童たちを見ながら、源氏はぼんやりとそう考えていた。今は何の執着も未練もない。これからは、ゆっくりと悟りの境地に入っていける修行生活を始めたい……。
そんなことを考えているうち、すっかり暗くなった庭に優しく雨が降り始めた。庭での楽の演奏と舞は中止せざるを得ない。
ちょうどよかった……ちょうどよいのだ……源氏は心の中で、何度もつぶやいていた。
一つの人生を完結させる区切りとして、この宴はちょうどよいと再度実感し、そう固く信じていた。
宴の遊びは室内へと移り、数々の楽器が取り出され、帝と院の御前での演奏が始まる。やはり右大臣の三男の歌声がこの夜も冴えわたっていた。源氏の長男の笛もそれに劣るものではなかった。
宴はいつまでも続いた。
光源氏――その生涯の最初から今日までを、源氏自身がゆっくりと心の中でたどっていた。
(つづく)




