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新史・源氏物語  作者: John B.Rabitan
梅が枝 (え)
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 春の除目が発表になった。

 公卿については大きな異動はなく、民部卿中納言が正三位大納言となり、小一条の左金吾が権中納言から正規の中納言に昇進したほかは、兼任で小さな動きがあったくらいである。

 新しい参議も二人増え、そのうちの一人は若手の三十二歳で、源氏の叔父で昨年の春に出家入道した式部卿宮の次男であり、やはり賜姓源氏であった。これで公卿のうち源氏を含めて源姓を名乗るものは六人となり、藤氏と全く同数となった。ただし、大納言以上はすべてかの一門で占められていた。

 この除目でも、源氏は従三位中納言左衛門督検非違使別当のまま、今年も据え置きで昇進はなかった。


 この日は除目の発表だけで政務もなく、源氏は久々に午前ひるまえに宮中を退出することができた。西宮にしのみや邸に戻ると源氏は寝殿で直衣に着替え、すぐに西ノ対に渡った。妻とはともに寝殿で暮らしてもよいと思っていたが、まだ何か妻は遠慮をしている。だからここでも西ノ対に入った、北ノ対は空いている。

次郎君じろうぎみは?」

 身舎もやに入るやいなや、源氏はすぐに乳母めのとを呼ぶ始末であった。これは高松邸に行って北ノ対に渡るときも同じであった。どちらもそれぞれ愛する妻たちが産んだ子である。

「どれどれ」

 乳母から受け取って赤児を抱いた源氏は、ほとんど溺愛に近い様子を見せていた。まだ全く表情もない、猿のような赤子である。それでも、日増しに少しずつ重くなっていくのが分かる気がする。実際はそんなに体感できるほど乳児の体重が急に増えるわけはないのだが、源氏は抱くたびにこの子の将来の重みを感じるのだ。

「あちらのお子さんは?」

 対の上も立ってきて、源氏の腕の中の我が子をのぞき込みながら、おどけたように源氏を見上げて言った。

「ああ、順調だよ」

「もう這います?」

「いや」

 源氏は笑った。

「まだ七ケ月だよ。お座りくらいはできるようになったけどね」

 高松邸でも源氏は行くと真っ先にちい姫を抱くが、ちい姫は次郎君よりは姉だから少しは重いが、やはり女の子だからそれほどでもない。

 その重さにも、同じく姫の将来を感じる。次郎君は男としての生涯の重さが、ちい姫は女としての生涯の重さがそれぞれ源氏の腕にのしかかってくるのだ。

五十日いかの祝いは盛大にしよう」

 そう言いながらも、源氏はふと妙な気分になった。長男が生まれたときは、今のこの浮き浮きした感覚はなかった。たしかにあの頃は若かったし、またあの場合は長男の誕生とその母の死が同時だったので、四十九日の法事の翌日が息子の五十日の祝いという異常な状況であった。

 それにしても、今さらながら初めて我が子を得たような気分になっているのは妙であった。

「高松邸の方は、五十日も質素だったからな」

 向こうでも五十日は盛大にしようと言っていた源氏であったが、やはり明石の上の父の入道からの申し出もあって、質素なものとなってしまった。それを思ったとき、あることがひらめいて源氏は妻を見た。

「そうだ。五十日に合わせて、香合こうあわせもしよう。私と君と、そして高松の上とで競争だ」

「まあ、いいわね。私、負けませんことよ」

 妻の顔も輝いていた。

「最近大宰大弐が唐渡りの香をくれたけど、古いものでも劣ることはないだろうと思うけどね。新しいのと古いのといろいろ香をあげるから、二種類ずつ調合するといい」

「よかった」

 まるで何かに安心したような顔を妻は見せた。

「何がよかったんだい?」

「だって、殿は御公務がお忙しいようでいつもばたばたしていて、ゆとりのあるお顔を拝見したのは久しぶりですもの」

 源氏も笑った。

「公私ともに一段落ついたのでね。やっとみやびと縁ができそうだよ」

 それからはさっそく、香の調合が始まった。源氏は寝殿でそれを行ったが、妻からは香合の日まで西ノ対へ渡ることは禁じられてしまった。そして、二条邸に使いを走らせ、その蔵から香木もたくさん取り寄せた。また、高松邸にも使いを送って、明石の上にも香合のことを知らせておいた。

 源氏が合わせていた香は、父院の曽祖父の帝の代から伝わったもので、選りすぐった女房にだけ手伝わせて、源氏が参内している間も寝殿には一日中鉄臼(かなうす)の音が響く日が続いた。

 西ノ対は恐らく九条流で来るだろう。それなら負けない自信が源氏にはある。果たして高松邸はというと、恐らく源氏には舅であり叔父でもある入道の風流爺さんが口をはさまないはずはない……そう思うと、源氏は当日が楽しみになってきた。


 そして、その当日も近づいてきた雨の日に、同じ年の異母兄弟の源宰相治部卿の来訪があった。

「おお、珍しいな」

 取り次ぎの家司に思わず源氏がそうもらしたほどこの兄弟は人付き合いが苦手で、他人の屋敷を訪れることなどまずなかった。

「何やらおもしろいことを始めると聞きましたのでね」

 風流の道にも疎いはずの人である。ただ、源氏にとっては異腹ではあっても同じ賜姓源氏で同年齢ということもあって、ほかの親王である兄弟よりはいくぶん親近感を持っていた。それでも二人が初めて対面したのは、七年前にこの兄弟が参議になった時であった。

 寝殿の南面で二人は、しばらくは香の話などをしていた。

「見事な紅梅ですね」

 雨に濡れる庭の植え込みを見て、不意に治部卿宰相は言った。梅はまさに満開であった。

「あちこちから集めるのが、大変でしたよ」

「近々、うえが二条院に観梅のために行幸あそばされるとか」

「また、奏楽でお呼びがかかりますね」

 ふと源氏は、何かを思いついたように言った。

「そうだ。治部卿殿に香合わせの判者をお願いしょう」

「そんな、私なんて煙たくっていけない」

「治部卿殿が煙たいのですかな? それとも香の煙が煙たいのですかな?」

 二人は声を上げて笑い、源宰相治部卿ははっきりとは断らずに帰っていった。


 香合は、数日後の夜に行われた。庭に埋めておいた源氏の香も掘り出されて運ばれている間に、西宮邸には次々に女車が立てられた。

 高松邸の妻と西宮邸の妻は、これは初対面となる。さらには二条邸の長男とその乳母、右大臣の妻となっている同母姉も一堂に会した。これはまさしく空前の出来事である。

 さっそく香が炊かれ、源治部卿の審判が始まった。まず治部卿がことさら誉めたのは、源氏の侍従香、そして西ノ対の上の梅花ばいか香であった。

「今の季節の風に、ぴったりですね」

 それが評であった。そして極めつけは、明石の上の薫衣香くのえこうとなった。部屋にくゆらせる香ではなく、着物に焚きこむ香だ。その根底には源氏の祖父の故一院法皇の秘法と百歩ひゃくぶの方を加えたものがあることはすぐに分かった。かれこれ七、八年ほど前になるが、公忠きんただ朝臣が一院法皇の秘法に自ら百歩の方を加えたものを、当時の帝であった今の朱雀院の上皇に献上したのは有名な話で、明石の上の父の入道がそれを聞きかじって入れ知恵したなと源氏にはすぐに察しがついて思わず苦笑した。また、二条邸の太郎君の乳母のは荷葉かよう香であった。

「これはだめだ。甲乙つけ難い」

「それでは、判者は務まりませんよ」

 源氏は大笑いをし、一同もそれにつられて笑いに満ちて、結局この香合わせは勝敗なしとなった。そして、半月より少しふくらんだ月が中天近くにあった頃、さらに五十日の前祝いということになって酒宴となり、西宮邸のうららかな春の夜は盛り上がっていった。

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