7. 一人修羅場をひた隠し
補佐業に勤しむようになって二、三ヶ月程経つ頃、とうとうあの謎が判明した。
ラファエル様との食事が日常と化している日々、夕食を給餌されていた時のことである。
食後の甘味として、生クリームを挟んだオムレットが登場した。クリームが見えるように半端に折りたたまれ、上にはベリーを散りばめてあり、可愛さの権化スイーツである。
「デザートは好きな分だけ食べていいぞ」
「いえ、そんな、半分で十分ですから」
「それではクリームをたっぷりつけてやろう。アンジュは甘いものが好きだろう?」
「はいぃ。大好きですっ」
そうしてクリーム増し増しに載っけて口に入れられる。口の周りにクリームが付くことも気にせずに、ぱくりと差し出されたフォークを咥え込んだ。
オムレットはスフレ生地みたいに柔らかくて、あむあむと大雑把に噛むだけですぐに飲み込めてしまう。
スイーツは飲み物だと深く感じ入った。
「クリームがついているぞ」
ぺろっと口の端を舐められた。そのままちゅっと唇に吸い付き、「アンジュは甘いな」と柔らかい声で囁かれた。
その時、天啓にうたれたかのように唐突に理解したのだ。キスの意味を。
母猫が子猫の毛繕いをするように。親鳥が雛鳥に餌をやるように。それはひどく動物的な行為だった。
保護者としての行為。
私はラファエル様から子どもと認定されている。まずはその定義を前提として考える。
メイドの頃はキスされなかったのに、補佐に命じられてからキスが始まった。より身近になることが確定された時点から、である。実際、まるで妹でもできたかのように、近親者並みの近さで接触されるようになった。
初めて私室を与えられたときや鍛練場の兵士たちの中に入っていったとき、保護者として心配していたのではないだろうか。
だとすれば、すべて説明が付く。
保護者として、後見人代わりに、私の面倒を見ていたと。そういうことを表す、それがこの世界では口付けという行為なのではないか。
その後、この分析結果を裏付ける出来事に見舞われた。
聖女様のご紹介で、お知り合いの貴族の養子にと望まれたのである。養子制度があることは法律書で学んでいたので、この解釈に間違いはない。
先方はとても良いご夫婦だったので、喜んで受け入れた。何よりも、聖女様とラファエル様で決めてくださった家なので、異をとなえることはありえない。
私は貴族の家にもらわれて、いずれラファエル様の使用人ではなくなる。
こんなにも面倒を見ていただいて、とてもありがたく、感謝している。身寄りのない私の後見をしてくださったのだ。
感謝しなくちゃいけないのに、とても悲しい出来事。もうすぐ、ここから去らねばならなくなってしまったから。
**********
貴族の家の子になっても、しばらくはラファエル様の元で仕事を続けることを許可してもらった。
平民でなくなったからか、音楽会や昼食会などに同行することも許可された。時間をかければ日帰りできる距離の場所に限ってではあるが。こういうところも過保護なくらいに保護されていると実感する。
補佐のための授業もまだ続けているので、教わったことを遺憾なく発揮し、ラファエル様に恥をかかせないように気を付けている。
仕事として事務的な作業はあまりなく、授業を受ける他はこうした社交会の同行ばかりであった。引き継ぎの必要なく辞められるよう、業務内容を調整してくれているのかもしれない。
帰りの馬車ではいつもキスして褒めてくれたり励ましてくれたりする、優しい保護者のラファエル様。
疲れきっている私の肩を抱き、寄り掛からせてくれる。
「結婚式のことなんだが」
「……結婚式? ですか?」
お茶会からの帰路、馬車が出発してからおもむろに話し始めたのは、誰かの結婚式のこと。
「ああ。半年後に結婚すると決めた。もう待てない。限界だ」
「……」
結婚式? 結婚? さっきの茶会でそんな話題出てたっけ。誰の結婚式のことかな。
「どちらの主催の結婚式ですか?」
「俺たちだが」
「……へ? ……そ、それ、は……」
私たちが主催。ということは、ラファエル様が結婚する?
どうして今? そんな気配なかったのに。急すぎる。
婚約者がいらしたの? そうだよね、いないわけないよね。だからご令嬢たちも遠慮していつも近づかなかったのだろう。さっきの茶会では男性もちらほらいて、カップルもいたから、刺激を受けたのかもしれない。
「ええ、はい、わ、わかり、ました」
動揺を隠さなければ。ちょっと待って、なんで私動揺してる?
「わわわ私の仕事としては、ええと」
「招待状などの対外的なことは俺がやる。お前はその辺はまだよく分かってないだろう。結局最後には俺が招待客を選定することになるしな」
「はい、そう、ですね……」
「お前には式の準備を頼みたい。使用人を総動員させて構わない。まずは花嫁の衣装を最優先で用意してくれ。こないだドレスをオーダーした店なら、サイズは分かっているはずだから、デザインさえ決めればすぐに着手できるだろう」
花嫁の衣装。ウエディングドレス、と訳すべきか。
デザインから生地からすべてオーダーメイドで揃えろとの指令。急いでも半年かかるから、これは急がないと。お相手の方にご足労願わなくても可能なのは幸いであった。
「招待客の人数を決めたら知らせるから、それまでは衣装の準備に集中だな。俺の衣装は後回しで良い。使用人としての最後の仕事になるが、できるか、アンジュ」
「は、はい! もちろんです! 誠心誠意、務めさせていただきます! 素敵な結婚式にしましょう!」
これが最後の仕事。
とうとう、ラファエル様の使用人でなくなってしまう時がきた。その最後が、まさかウエディングプランナーだなんて。
素敵な結婚式と聞いてラファエル様は満足げな表情を浮かべ、キスをする。
応援してくれてる? たぶんそんな意味だ。彼にとって私は子どもでしかないのだから。
今は仕事のことだけ考えろ。余計なことは考えるな。
考えたら、泣いてしまうから。
とにかく無になって帰路を過ごした。
夜にお屋敷に着くと、ドレスを脱いでから水浴びもせずにベッドに潜る。
外出の翌日は、休暇か午後出勤にしてもらっているから、今夜はゆっくり休もう。少しは泣いてもいいよね?
一度涙の流出を許すと、止めどなく溢れてきた。
ラファエル様と部屋続きなので、声が聞こえないように、枕に顔を押し付ける。嗚咽が漏れないよう、苦しくても我慢して。頭から布団を被り、体を丸くして息を止める。
「うっ……! ぐっ、ふ……っ!」
聞こえないように。
気付かれないように。
誰にも悟られないように。
私は、ラファエル様に恋していた。完璧な失恋をして初めて気が付いた、淡い初恋。
一人の男性として、いつの間にか好きになっていた。
優しさに喜び、逞しさに憧れ、強さを信じられ、温かさに安らぎ、彼のために何でもしたいと願った。
その感情が好きという以外に何があるだろうか。私に向けてくださった思いはただの同情であるというのに。
「……くっ……、うぅっ! …ぇぐっ」
結婚することを知って、おめでとうございますって、言えなかった。真っ先に祝辞を伝えるべきだったのに、できなかった。
どうして私はこんなにも性格が悪いのだろう。
心根が腐っている。最低だ。
醜い。
醜い醜い醜い。
好きな人に好かれるような人になりたかった。
好きな人の幸せを願える人になりたかった。
絶対に叶わない願い。
泣く資格はない。だって私は醜いから。
それでも涙は止まらない。心がざわついて、眠れそうにない。
少し落ち着いて横になっても、またすぐに涙が溢れてくる。そうしたらまた体を丸めて息を止めた。頭が割れそうに痛くなっても、嗚咽を聞かれないために我慢して顔を塞いだ。
そんなことを夜中中繰り返した。
**********
「どうしたんだ、ひどい顔だぞ。今日は休め」
「……申し訳、ありません」
午後、執務室に出勤すると、第一声に休暇の許可。ラファエル様が立ち上がって私の前へ来ると、心配そうに顔に手を掛ける。
ひどい顔は元からだ。今日はそれに輪をかけてひどい。泣きすぎた。
心配させてはいけない。もう二度とキスなんてしたくないから。
手から逃れるように一歩下がり、もう一度「申し訳ありませんが」と腰を折る。
「本日はお暇をいただきます……」
腰を折った姿勢のまま後ろに下がり、そそくさと執務室を出てきた。足早に自室へ戻り、またベッドに潜る。
今日は私室を与えられて初めて浴室を使ったのだけれど、贅沢な気分には浸れなかった。水で頭を冷やしても、心は晴れるどころか落ち込むばかり。
ラファエル様は何も悪くない。そんなことは分かっている。それでも割り切れないのだ。
なんとか、しなくちゃ。
自分が最低な人間であることは純然たる事実。せめてそれが白日の元に晒されないよう注意しよう。良い人の振りをするんだ。完璧なウエディングプランで、必ず結婚式を成功させる。そして笑顔で「おめでとうございます」と拍手で見送るんだ。
それだけは絶対。
「うぅっ、ぐずっ……」
また涙が溢れてきたので、顔を洗いに行く。
ああ、ひどい顔だ。
そりゃそうだよね。当たり前だよ。
こんな不細工が美の神に恋するなんて、喜劇もいいとこだよ。
「ふ、ふふふ……! うっ、ううっ……」
もう泣きたくないので笑う。笑いながら涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる。
しばらくはこの制御不能状態が続きそうだ。それでも、良い人の振りができるように、できる手段はすべて講じる必要がある。
夕食前、共に部屋でとろうとラファエル様が部屋に訪ねてきた。だが部屋には入れず、わざわざドアの前まで行って、食欲がないと断った。
実際体調はすこぶる悪い。泣きすぎて頭がくらくらする。
距離をおくにはそれだけでは足りない。これからの食事も断らないと。
「私は結婚式の後からは使用人ではなくなります。その時のためにも、授業で教わった通りの食事作法を日常としていきたいのです。貴族主催の様々な会に参加する機会も増えたことですし」
「あ、ああ。結婚後に向けて気合いを入れるのはわかるが、しかし」
「これを機に貴族の一人として、養父母にも、ご紹介くださった聖女様と旦那様にも顔向けできる淑女でありたいのです。いつまでも子どもの扱いに甘んじるわけには参りません」
「いやそこまで重く考えなくても」
「いいえ! 旦那様、これは大事なことなのです!」
なんとか部屋食は免れ、明日からダイニングルームでの食事で手を打った。本当は使用人仲間とまたワイワイやりたかったのだけれど、作法とか言ってしまった手前、庶民派ゴハンにはありつけなかった。