おかあさんのせかい
伊藤しおりはシングルマザーである。
香水のキツい匂いをいつもさせている派手な服しか着ない若作りの母と、昔から仕事以外に興味の無さそうな顔をしたいつも家にいない父に育てられたしおりは、家族というものがよくわからなかった。
しおりは家族全員で食事をしたことがなく、幼稚園の時の好物は近所のコンビニで売っている唐揚げ弁当だった。
しおりはしばしばテーブルに置いてある1000円を見て、
「おかあさんというのは1000円をくれる人で、おとうさんというのはいつも家に居ない人の事を言うのだろう」
などと言う事を本気で考えていた。
五つ上に兄がいるのだが、小さな時から癇癪持ちで、なにか気に入らない事があるとすぐにしおりを殴りつけた為、しおりは兄のことが大の苦手だった。
そんな兄も受験の失敗を機に部屋から一歩も出なくなり、しおりが中学卒業してから寮のある高校に入り家を出るまでの間一度も顔を合わす事はなかった。
そんな幼少期を過ごしたしおりの高校時代のあだ名は、「卑屈な公衆トイレ」であった。
家族に愛される実感というものは、自己肯定感を高めてくれるものだ。また逆に家族を愛する事は他人を大事にする為の第一歩でもある。
そのどちらもが欠けているしおりにとって、いつも消しゴムを拾ってくれるA君も自分を無理矢理体育館に連れ込んで犯したB君も特に違う様に思えなかった。
元々、引っ込み思案な性格もあり、迫られるとどうしても断る事が出来ないのだ。
避妊具の存在すら知らなかったしおりは高校三年の春に妊娠、中退を余儀なくされ、恐らく父親だろう男と一緒に暮らし始めるのだった。
しおりにとって徐々に大きくなっていくお腹は意味不明の恐怖でしかなく、またその男も本当の意味で父親になる事など理解していない単なる子供であった。
そんなしおりの産んだ子供は、いおり、と名付けられた。
3000g後半の元気いっぱいの女の子であったのだが、しおりにとっては文字通り肩の荷が降りた、ぐらいの感想しか持てないのであった。
最初の一年程はしおりの母の助けもあり、なんとなく家族らしき形になっていた物の、そのうち男が他に女を作り段々と家に寄り付かなくなった。
そうこうしている内にしおりの両親が離婚してしまう。
どうやらしおりの母の浮気が原因らしく、離婚を機に遠方の浮気相手の家に移り住むとの事であった。
母の助けが無くなったしおりは、そうして初めて自分がどうやら「イキモノ」を育てているらしいことに気がついた。
だが、何をして良いのか分からない。母の言われるがままにおこなっていた行為の意味を理解していないのだ。
例えば、いおりは三歳まで離乳食を食べさせられた。
本来なら1歳を過ぎれば徐々に通常の食事に慣らしていくのだが、そんな事を全く知らないしおりは保育園でその事が発覚するまでひたすらに離乳食を作り続けたのであった。
そんな状況でまともな生活が成り立つわけもなく、結局いおりが4歳の時に男は、しおりを完全に見捨て家を出てしまう。
しおりは途方に暮れた。
何故自分がこんな目に遭うのか分からず、いおりに毎日怒鳴り散らしたが、何度怒鳴りつけてもその「イキモノ」は自分の所に擦り寄って来たので、そう言うものなのだと彼女は諦めた。
それからしばらくしてアルバイト先のスーパーで、しおりは斉藤という男に出会い同棲するようになる。
いおりにとっての地獄の始まりはここからであった。
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