私、将軍を怒らせる
本日二話目の投稿です。ご注意下さい。
皇宮の端にある大厩舎では、馬がたくさん飼われていた。
建物は風通しがよく、時折馬糞と飼い葉の臭いが混ざった冷たい風が頬に叩きつける。
将軍は厩舎の中を進み、一頭の馬の前で止まった。栗毛色の大きな馬だ。
「陛下がこちらの馬を、明様に献上なさるそうです」
将軍が手を伸ばし、その栗毛の鼻面を撫でる。毛並みが艶やかで背が高く、凛々しい顔つきをしている。額の白斑は、綺麗な菱形で品があった。
「この馬を、私に?」
「はい。万里という名前の馬です。温和で人によく馴れており、尚且つ速さも持久力もある駿馬です」
そう言って万里を見つめる将軍の顔には、素直に羨ましいと書いてあるようだった。
将軍が万里を撫でていると、向かいの区画にいた黒毛の馬が、怒ったように嘶いて脚をばたつかせた。すると将軍は笑顔で黒毛馬の元に向かい、今度はその鼻面を撫でた。
「焼きもちか? 私も陛下が選ばれた駿馬に一度乗ってみたかっただけだ。――安心しろ。私の愛馬は黒風、お前だけだ」
どうやらこの黒毛馬が将軍の馬らしい。将軍が別の馬を褒めるだけで機嫌が悪くなるなんて、相当な焼きもち焼きの馬なのだろう。
「良馬は千の歩兵に勝ります。――大事になされませ」
馬は古今東西、価値ある財産だ。もらえるなんて凄くありがたいし、大事にしなければ。けれど、私には馬をもらってもどうにもできない、大問題があった。
黒風を撫でる将軍に、背後から恐る恐る言ってみる。
「実は馬には数えるほどしか、乗ったことがありません」
「ははは。あまり面白くない冗談ですね」
将軍は軽く笑い、手を止めて私を振り返る。
「ええと、冗談ではないので」
小さく声を立てて笑っていた将軍は、数秒で真顔になった。私が全く笑わないので、妙だと思ったのだろう。彼は何度か瞬きをした後で、眉間に皺を寄せて私を凝視した。
「馬に、――乗れない……?」
「そうなんです。私がいた瀛州では、乗馬の機会は滅多にないのです」
将軍は黒風の前にある木の柵に寄り掛かった。虚ろな目の将軍を、愛馬が鼻でつついている。されるがままになりつつ、将軍は絞り出すように言った。
「失礼。少し、めまいが……」
「ですので、馬を頂いても目下、私には活用の手立てがないんです」
尚も言い募ると、将軍はしばし絶句した。その後で、思わずのように言う。
「明様は、私が想像していたお方とは随分違うようです。天の遣いとは、存外手がかかるものなのですね」
「すみません……。あの、不要そうでしたら私、青海州に帰りますけど……?」
これ幸いと踵を返そうとすると、将軍は慌てた様子で私の前に立ちはだかった。
「何を仰いますか。ここで抜けられたら、兵達の士気に関わります」
そこで一旦言葉を切ると将軍はドン、と柵に手をついて私に詰め寄った。
「それに戻られるなら、差し上げたものも返して頂かねば」
痛いところを突かれた。あの金錠のことか。池に落としてしまって、手元に一つもないのに。
「もし、もしも……金錠をお返しすれば、大巫者の所に帰ってもいいんですかね?」
「今、なんと? 私の耳がおかしくなったようです。もう一度仰って頂けますか?――その勇気がおありなら」
ギシッと私の寄りかかる木の柵が鳴った。怖くて振り返れないが、多分将軍が柵を握り潰しているのだ。もしかしたら、割れているかもしれない。
表情には微笑を浮かべ、優雅さすら醸し出しているが、対照的に玻璃のような輝きを持つ深い黒色の瞳からは、背筋が凍る殺気を感じる。
(まずい。物凄い失言をした。多分、一番言っちゃダメなやつを!)
冷や汗をかきながら黙っていると、将軍は満足げににやりと笑った。
「仕方がありませんね。馬に縛りつけるわけにも、ずっと相乗り頂くわけにもいきません――急いで乗馬を学んで頂きましょう」
「ど、どなたかに教えてもらえるのでしたら、頑張ります!」
金を積もうが衛帝廟に帰してもらえないなら、仕方ない。いや、もういっそ、あの金錠が手元になくて良かった。ない方が、魔が刺して墓穴を掘らなくて済む。
それにこの先、講和派がおとなしくなり、羅国討伐が決定すれば、私も行かされるのは必至だ。馬を操ることができなければ、困るのは私自身だ。
将軍はなぜか少し意地悪そうに笑った。
「乗馬は私がお教えしましょう」
想像できる限り、最悪の展開だ。できる限り謙虚な微笑みを返す。
「そんな、とんでもない。将軍はお忙しいでしょうから、どなたか他の方で結構です」
「明様のことが、今の私には最優先ですので。これより大事な用事はございません」
状況が違えば、うっとりしてしまいそうな発言だ。
勿論目下、甘さは一切なく、肉食獣に睨まれている負傷した草食動物の気分しかしない。
「なんとありがたいことでしょう。でも、」
「――あまり時間もございませんので、厳しく致しますよ。よろしいですか?」
よろしくないって言いたかったが、気迫に気力が吸い取られて言葉にならなかった。
将軍は即実行の男だった。
翌日から彼の緊急乗馬学校は始まった。
「馬とは、信頼関係が何より大事です。馬は自分が認めた者しか、主人だと思ってくれません」
その将軍の固い信条の下、馬に慣れていない私は馬の世話の仕方から厳しく教え込まれた。
「理想を言えば、毎日万里の世話をして頂きたいくらいです」
飼い葉の交換や掃除、そして馬の毛梳き。その後禁軍の訓練見学に付き合わされ、午後にやっと馬の背に跨る。
大厩舎の一角に木の柵を円形に巡らせて作った特設訓練場で、将軍は私に檄を飛ばして操縦法を教えてくれた。
初特訓が終わる頃には、全身が悲鳴を上げていた。
痛む肩を自分で揉んでいると、将軍は僅かな疲れも見せずに言った。
「明様には厳し過ぎましたか?」
乗馬訓練というより、最早拷問だった。が、そんなことはまさか言えない。二人でほとんど同じことをしていたのに、将軍は余裕の様子だ。
こちらは立っているのも辛いほどの疲労に襲われているのに、悔しい。将軍は体の構造がおかしいか、異常な体力値の持ち主なのだろう。
言いわけがましく弁解する。
「実は昨晩、首を寝違えまして。瀛州と違って、光威国の枕ってやたら硬いんですよね」
「陶枕のことですか? では、後で別の枕を用意致しましょう」
なんと! 瓢箪から駒とはこのことだ。
羽枕とまでは言わないが、もしかしたら綿の枕に変えてもらえるだろうか。思わぬ朗報に、少し嬉しくなった。