宝刀の所有者
与えられた宮まで濡れた袍のまま、とぼとぼと引き返す。
宮の中の一室には、衣装箱も置かれていた。ここにあるのだから、おそらく私が使っていいのだろう。というより、あの不死身将軍にほぼ身一つで連れてこられたのだから、使うしかない。
何十着と積まれた中から、一応赤系統の袍を選んで着替える。
濡れた髪を火鉢の前で頑張って乾かしていると、将軍が私を呼びにきた。
私を見つけるなり、大股で部屋に入ってくる。
「どちらに行かれていたのです? お探ししました」
知っている。お探ししている貴方を、陰ながら見ていました。
「ちょっと庭園を散歩していました。ご覧の通り気持ちの良い天気だったので、つい」
保身からか、考えるより早く嘘がスラスラと転がり出た。
いかにも寒そうに火鉢にしがみつきながら、「気持ちの良い天気」などと引きつる笑顔で答えた私を、将軍はしばし無言で見下ろした。
「……これから陛下にお会い頂きますが、少し時間がございますので、途中にある武器庫や、禁軍の訓練をご覧頂きたいと思います」
「なるほど、陛下に。その上武器庫まで、わざわざ……」
笑顔が更に引きつる。
勝手に敷かれた線路の上を、猛スピードで後ろから押されて走らされている気分だ。
しかも完全に間違った路線に。
「その前に明様に、私の腹心の部下をご紹介させて下さい。その者に案内させますので」
それは楽しみだ、と頷いてみせたが心の中では震え上がる。
進んでいく展開が恐ろしい。
外に出ると宮の階段の前で、すらりと細身の人物が私達を待っていた。
臙脂色の袍を纏い、肩に弓を持っているが、赤い紅を指しており、女性だ。彼女が腹心の部下らしい。
てっきり男の部下を想像していたので、意表を突かれた。
りりしい眉と意志の強そうな瞳に、視線が吸い寄せられる。
右手を左手首の上に乗せ、膝をついて女性が私に低頭をする。
彼女が顔を上げると、将軍が隣に立って私に説明を始める。
「この者は禁軍の右羽林軍中尉です。女性ながらに武芸に秀で、光威国兵で一番の弓の使い手です」
なるほど、弓というものは筋力で引くものではないと聞く。どうせなら彼女が軍神の化身をやった方がいいんじゃないかと思う。むしろ全力で交代してほしい。
女性は勇ましい肩書きとは裏腹に、たおやかに微笑んだ。綺麗に引かれた鮮やかな口紅が艶かしい。
綺麗な人だな、と見惚れてしまう。
「瑞玲と申します。お会いできて光悦至極にございます」
「瑞玲は弓の名手なだけではなく、武器全般の豊富な知識を持ちます。まずは禁軍の武器庫をご覧に入れましょう」
そう言って将軍が瑞玲に声を掛け、彼女を立たせる。瑞玲ははにかんだような視線をちらりと将軍に向ける。
「お褒めに預かり、恐縮です」
褒められたのがとても嬉しそうだ。私には油断ならない人物でしかないこの将軍も、瑞玲にとっては尊敬する上官なのだろう。
皇宮の武器庫には、びっしりと武器や防具が納められていた。
剣や刀ばかりでなく、鉾や弩、戟といった、戦場以外ではあまり使わなさそうな武器も多い。
「三百年前の羅国との戦では、騎馬戦で苦労したと伝えられております。羅の民は皆物心つく頃から、自在に馬を操りますので。ですが今や光威国も良馬をたくさん保有していますから、ご安心下さい」
瑞玲は誇らしげだった。
武器庫の裏には禁軍の詰所があり、その前には広大な石畳の広場があった。
臙脂色の軍服に身を包んだ禁軍兵達がそこに勢揃いし、手にした槍を号令に合わせて動かしている。
兵達の年齢層は幅広く、幼さの残る顔立ちの者から白髪の老人までいた。
私を連れて将軍が彼らの前に登場すると、皆一斉に槍を地面に置いて膝をついた。
すぐ目の前にいる兵から、遥か遠くにいる兵に至るまで、広場を埋め尽くす兵達が整然と叩頭していく。
なんと圧巻の光景だろう。腕の肌が粟立つ。
瑞玲は自信に満ちた笑顔で言った。
「ここにおりますのは、皇宮に詰める禁軍三軍のうちの、右羽林軍です。みな軍神である衛明様の一言で、羅国の果てまでもついて参ります」
皆、私に頭を下げているのだ。
引くに引けないとはこのことだ。
実は軍神ではない、なんてとても言えない雰囲気だ。もし偽物だとバレたらどうしよう……。
瑞玲の迷いない物言いに、却って恐ろしくなる。
一人一人の兵を前に、軍神と祭り上げられている事実に体が震えてくる。
それにもし戦になんて行くことになったら? ――これはもう、絶対に負けられない。
ひとしきり見学が終わると瑞玲が私の前で手を組み、頭を下げた。
「明様。どうか私と手合わせをお願いできませんか?」
手合わせとは、何の話だろう? すぐには何を言われたのか、分からなかった。
だがその長い睫毛が並んだ気の強そうな瑞玲の焦点が、私の持つ白雷刀に当てられていると気づき、にわかに焦る。
(ええっ? まさか刀の手合わせということ!?)
少し離れた所に立つ将軍も私と瑞玲に注目しており、その視線を痛いほどに感じる。
おまけに訓練が終わった兵達まで、こちらに駆けてきた。「私も拝見したいです」と朗らかに口々に言い、純粋な期待に満ちた眼差しを私に向け、傍から動かない。
困った。一体、どうすべきなのか。
迷いながらも私は宝刀の柄に手をかけた。
白状してしまえば、私は鋼鉄の刀どころか、竹刀すら振ったことがない。
もし瑞玲の提案を今断ったとしても、私に剣技なんてまるでないことは、遅かれ早かれバレるだろう。それを後回しにしても仕方がない。
(断る理由もない……。ええい、もう焼けくそだ。やるしかない……!)
運が良ければ、一回くらいは剣筋を読んで、この宝刀とやらで受け止められるかもしれない。
意を決して、柄をぐっと握りしめ、瑞玲への返事の代わりに抜刀する。
シャラ、と刀身と鞘が擦れる音が響く。
同じく刀を抜いた瑞玲の前に身構えた瞬間。
右腕がにわかに痺れた。
痛い、と思わず呟きながら手の甲を押さえると、そこから肘にかけて素早く熱い痛みが電流のように走る。何ごとかと急いで袖を捲り上げると、腕に刻まれた樹状の雷の傷痕が、異様に濃く腫れているではないか。
予期せぬ事態に慌て、刀を離そうとするも、刀は私の手に吸いつくように収まり、右手も言うことを聞かない。
まるで私の右手が、刀に支配されたような感覚だ。
(何これ。いやだ、気持ち悪い……。この刀、邪刀なんじゃないの⁉)
私の動揺をよそに、瑞玲は一歩踏み出し、素早く自分の刀を突き出してきた。その刹那、私の右手に急に力が入って動き、刀を盾のように構えた。
瑞玲と私の刀の衝突音が響く。
受け止めた衝撃も凄まじく、右腕が肩先まで熱を持つ。
私の右手はまたしても意思に反して勝手に動き、瑞玲の刀を左方向に払った。
次の瞬間には、右手が前方に向かい、慌てて追うように踏み込む。今度は瑞玲が私の振り下ろした刀を受け止める。
(う、腕が、勝手に動く――‼)
今や右腕全体は脈打つように熱を持ち、その痛みを感じる隙すらなく、右に左にとせわしなく位置を変えた。
瑞玲に向かって息つく間もなく腕を次々と振り下ろし、その予期せぬ動きに必死に足がついていく。右手が別の生き物になったかのようだ。
追い詰められた瑞玲がよろめくと、私の右腕はその隙を逃さなかった。大きく後方に振り切ってから刀を突き出し、その急な動きに私の腰が密かに悲鳴を上げる。
白雷刀は瑞玲の刀の柄先に取りつけられた環状の飾りに狙いを定め、そこに刃先を突き入れた。直後、刀身を上に振り上げ、彼女の刀を勢いよく奪う。瑞玲の刀が手から飛び、空高く舞い上がる。
刀は煌きながら回転し、私の背後に落ちた。カシャン、と激しい落下音が辺りにこだまする。
――勝負あった。
とりあえず終わったことに、胸を撫で下ろす。
いまだ熱を帯びる右手を摩りながら、刀を鞘に戻そうとした時。悔しげに空になった右手を押さえていた瑞玲が、はっと顔を上げた。
その視線は明らかに私ではなく、私の背後に向けられていた。
(えっ、何? 何を見てるの?)
私が振り向いたのと、私の背後に回った将軍が刀を向けてきたのはほとんど同時だった。
(勝手に入ってこないでよ――!)
将軍は落ちた瑞玲の刀を拾い上げ、手合わせに乱入してきたのだ。自由過ぎる。
「卑怯者! 後ろを取るなんて!」
怒鳴りながら将軍の刀を受け止める。
ギィィィィン、という耳障りな音を立て、将軍の刀と私のそれが押し合う。
その衝撃と重さは瑞玲のものとは比較にならないほど、大きかった。体では到底受け止めきれず、靴底がずりずりと石畳の上を滑る。
なんて強さだろう。
右手は既に感覚がない。
「戦地では、勝つことが全てです」
正々堂々とそう言い放ち、急に間合いを詰めた将軍が長い腕を伸ばし、私の左手首を掴む。
勢いよく引き寄せられ、体勢を崩されるが、私は躊躇なく彼の首筋付近に刀を突き出した。
左手首が離され、どうにか距離を確保する。
(は、速い! 全然、瑞玲と違う‼)
将軍が次々に刀を繰り出す。左右斜めあらゆる方向から刀が向かってくるので、瞬きの間すらない。
一太刀ごとに猛烈な圧が込められており、気づけば私は随分後ろに下がってしまっている。
振り払った将軍の刀が、私の頭上を斜めに掠めていき、刀身が起こした微かな風圧を頰に受ける。
手合わせなんかじゃない。一つ間違えばこれは確実に、殺される。
(ここで負ける程度の軍神なら、いらないってこと⁉)
呼吸を整える隙もないので、心臓がどくどくとやたらに早鐘を打つ。
防戦一方では、勝ち目はない。
やがて私の背後に土塀が迫り、それ以上下がれなくなった時。
将軍が助走をつけ、足を大きく振り上げた。勢いよく振り下ろしたその靴裏で、私の刀の側面が蹴り下ろされ、白雷刀は激しく地面に打ちつけられる。刀と石畳が衝突し、火花が散る。
私が急いで刀を振り上げる前に、将軍の右腕が動いた。
負けるかもしれない、いやそれどころか殺されるかもしれない。
(こんな所で、死んでたまるかー!!)
闘志だけは投げ出すものか。
捻りながら刀を動かし、いまだ私の刀を踏みつけたままの将軍の靴の下から、引き抜く。
――刀が起こした風圧を首筋に感じた。
そしてお互いの動きはぴたりと止まった。
周囲も固唾を飲んだのか、異様なまでに鎮まりかえっている。
将軍の刀は、私の首筋から腕一本ほどの距離で止められていた。
私はゆっくりと口角を上げていく。――内心の盛大な困惑とは裏腹に、静かな笑みがこみ上げてきて止まらない。
私の白雷刀は、将軍の首筋から指一歩分の地点で、静止していたのだ。
止めなければ先に首が飛ぶのは将軍の方だっただろう。
安堵で上擦りそうになるのを堪えながら、低い声で問いかける。
「――ご満足頂けましたか? 不死身将軍殿」
嫌味を言ってやると、将軍の左頬がぴくりと痙攣した。
どうやら不死身との渾名は、本人には不本意なものらしい。
でもその反応が私には逆に愉快だった。
(予告もなく割り込んできて……! どう考えてもずるいじゃないの! 将軍のくせに)
「お見事な腕前です。明様、私の完敗にございます。隙をついて挑ませて頂いたにもかかわらず、歯が立ちませんでした」
刀を鞘に戻す将軍を、軽く睨みつける。
いつの間にこんなに大勢が集まっていたのか、周囲にいた禁軍兵達が野太い歓声を上げながら、破れんばかりの拍手をしてくれる。
「軍神衛明様が、人の姿を借りて戻られた!」
「白雷刀の速さを見たか!?」
みな興奮冷めやらぬ様子で、感想を語り合っている。
その音に消されそうになりながら、将軍が言い足した。
「太刀筋は滅茶苦茶、構えは珍妙な態勢で、呼吸すらまともに確保されていなかったご様子……」
「そういうの、負け犬の遠吠えって言うんですよ!」
「――だからこそ、動きを全く読めませんでした。実にお見事です。明様の腕は夾竹桃より、よほど使えるではありませんか」
なんだろう、ちっとも褒められた気がしない。
痺れて仕方がない右腕を邪刀から解放しようと、さっさと鞘にしまう。
痛みを逃がそうと、左手で右腕を摩った。