殿下、もしや私の胸を見ましたか?
本日、二話目の投稿です。ご注意下さい。
謙王は桃饅頭をかじりながら、改めて私に焦点を当てた。そうして今更ながらのように言った。
「明様は一見細身に見えても、筋骨隆々とした猛者だと思っておりましたが、どうやら違ったようですね」
「はい。ひょろ細くて頼りなげだ、と将軍からも言われました」
謙王は目を丸くして、そのままグルリと回した。
「軍神に向かって、なんと命知らずな。でも彼らしいですね」
二人で笑っていると、茶丸の鳴き声が聞こえた。二人で声のした方向を、ほとんど同時に振り返る。
花壇や木々に遮られてここから茶丸は見えないが、茶丸の吠え方が少し変で、キャウ、キャイーン、といった甲高く困ったような声なのだ。
私と謙王は茶丸が気になり、すぐに庭園を横断し始めた。何かあったのだろうか。
「茶丸ぅ? どこ? 出ておいで!」
「茶丸、どこにいる?」
低木の葉をかき分け、大きな岩の裏も探す。毛玉を探して東屋や木々の間を歩いているうち、大きな人工池に辿り着いた。
思わずあっと声が漏れた。茶丸は木の小舟に乗っていた。小舟は池を漂って既に池の中ほどまで流され、茶丸の動きに合わせて揺れている。あんなに揺らすと、そのうち転覆してしまうかもしれない。
謙王の行動は速かった。
彼は係留してある一艘の小舟の綱を杭から外すと、小舟に乗り込んだ。
なんとなく流れで私まで同乗してしまう。人手は多い方がいいだろう。
謙王が櫂を握り、漕ぎ出す。
「茶丸、こっちだ! 暴れるな!」
近くに小舟を寄せても、茶丸が手を伸ばすはずもない。
彼は混乱したのか、狭い小舟の中で自分の長い尾を追いかけ、延々と回っていた。小舟が揺れ、水面に細かな水飛沫が飛ぶ。
謙王は櫂から手を離すと、両手を伸ばして茶丸の乗る小舟に手をかけ、渾身の力で二艘の小舟をくっつける。
今だとばかりに、その隙に私は思い切って身を乗り出し、茶丸を捕まえた。
「茶丸、暴れないで! いい子だから!」
こちらの小舟に移そうと茶丸を持ち上げた次の瞬間。彼は私の胸を思い切り蹴り、こちらの小舟へと飛び移った。
踏み台にされた私は、あえなく体勢を崩し、背負う金の重さに耐えかねて小舟と小舟の間に倒れこむ。
(まずい、落ちる!)
私の体重がかかった小舟は大きく傾き、眼前に水面が迫る。その直後、全身に刺すような痛みと冷たさが走った。
――池に落ちたのだ。
水のあまりの冷たさに呼吸が一瞬止まり、全身がぎゅっと石のように縮こまる。
衣は水を吸い、重りのように全身に纏わりつき、体を沈めていく。
背負う風呂敷包みが崩れ、金属音と共に背中が急速に軽くなる。最悪なことに、中身が水中に落ち始めていた。
何とか小舟に手をかけて顔を水面に出すと、すかさず謙王が私の両脇に手を入れ、歯を食いしばりながら全力で上に引き上げてくれた。
私が再び乗った重みで、小舟がギシギシと左右に揺れる。
急いで風呂敷を足下に下ろすと、中は空になっていた。なんてこと。
「私の全財産……、じゃなくて桃饅頭が‼」
船べりから顔を出して池を覗き込もうとすると、謙王は弾かれたように腰を上げ、私の腕を掴んだ。
「危ない! また落ちますよ」
振り返ると謙王は私の腕から手を離した。
なぜか私の胸元に視線を固定した状態で、瞠目している。
まるで感情を一切こそぎ落としたような、間の抜けた表情だった。何を凝視しているんだろう――と、つられてその琥珀色の視線を追うと、今度は私が仰天する番だった。
袍の腰帯が解けて、前部分が大きくはだけていた。胸がほとんど見えている。
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
急いで襟を掴み内側に寄せると、謙王を睨み上げる。見られた焦りと腹立たしさ、そしてやはり羞恥心を堪えきれずに、顔が熱くなるのを感じながら。
「……見ましたか?」
謙王は今更ながら慌てて首を横に背け、激しく瞬きを繰り返しながら、額を指で押さえた。
じりじりとしながら返事を待っていると、やがて彼は呟いた。
「これは、一体どういうことなのか……。聞いてもよろしいでしょうか。――明様は、女性なのですか?」
「はい、生まれてこのかたずっと女です」
気まずい沈黙がいたたまれない。
その時、何やら大きな声を上げながら遠くの宮と宮の間を歩く人物の姿が、視界の端に入った。――将軍だ。きょろきょろと首を振りつつ、誰かを探しているようだ。十中八九、私を探しているのだろう。
まったくもう、間が悪すぎる。なんで今なんだ!
とにかく隠れるしかない。
慌てて小舟の陰に、身を伏せる。隣に座る謙王にも咄嗟に手を伸ばし、一緒に低く伏せさせる。
「どうされたのです?」
謙王は姿勢はそのままに、首を伸ばして私の視線を辿った。遠ざかっていく将軍の後ろ姿を共に見ながら、私の耳元で囁く。
「あれは、不死身将軍じゃないですか」
「――驃騎将軍じゃないんですか?」
「不死身の驃騎将軍、宇文弦月ですよ。砂漠や大海原で遭難しても、断崖絶壁から落ちても生還したらしい。二十四という若さで、皇帝陛下の覚えもめでたい。……将軍は明様が女性だと知っているんですか?」
知らないから、問題なのだ。無言を貫いていると、謙王は聞かずとも答えを悟った。
「なるほど。軍神の化身が一体なぜ、女性なのでしょう?」
「どう思われても結構です。私もよく分からないんです。突然空から刀が降ってきて……気がついたらここにいたんです」
「それで皇宮からお逃げになろうと? ですがあの将軍から逃げるのは至難の技ですよ。きっと地の果てまでも追ってきますから」
謙王は伏せるのをやめ、座り直した。続けて私を起こすと手を伸ばし、解けかけた私の腰帯の端を掴んだ。そのまま私を、強く自分の方へ引き寄せる。
勢い余って、謙王にぶつかりそうになる。
その上、急な体重移動のせいで小舟がまたしてもぐらつく。
「何するんですか! 舟がひっくり返ってしまいます。離して下さい」
「じっとしていて下さい。よろしいですか? 帯の結び方が甘いのです。結んだらこうして余った端を、中に入れ込んで下さい」
説明を交えながら、謙王は私の腰帯をきゅっと絞め、長さを整える。
帯を丁寧に結び終えると、彼は私の肩に手を回し、自分の毛皮の肩掛けを貸してくれた。ここで初めて、私は自分が寒さに震えていたことに気がつく。謙王の温もりが肩掛けに残っていて、温かい。
この人はどういうつもりなのだろう。困惑していると、謙王は優しげな笑みを浮かべた。
「大丈夫。今見たものは、誰にも言いませんよ。でも提案があります。もし、皇帝陛下に意見を求められたら、弟の怜王ではなく、私を総大将に推薦して下さいませんか?」
「提案というより、脅迫の方がしっくりきますね」
謙王は声を立てて爽やかに笑い、頭を振った。
「一蓮托生の仲間ですよ。皇宮で生き抜くには、協力者が必須ですから」
謙王は小舟を岸につけると、先に降りた。そうして茶丸を抱き上げた私に、手を伸ばす。
渋々ながらも、その手を掴むしかない。