私、皇宮でやらかす
光威国の都である開京は、想像以上に大きな都だった。
瑠璃色の瓦が乗る木造の建物が並び、よく整備された石畳の道が続く。
家々の軒先からは灯籠や布飾りが掛けられ、華やかだ。
今まで通った場所に比べると、格段に人が多い。人々の足音や賑やかな話し声が車内にも聞こえ、大都市に来たのだと実感する。
街中には大きな川が流れていた。その上を優美な曲線を描く木製の橋が架けられていて、橋の両脇には屋台が軒を連ねていた。
馬車が橋を渡り始めると、屋台の売り子の声が車内にまで聞こえてきた。
胡麻団子や豆花といった菓子から、麺類や粽を売る屋台。
包子の売り子が蒸籠を開けると、蒸気が一気に立ちこちらにまで甘い香りが漂い、食欲を誘う。凄く美味しそうだ。
時代劇のような光景に時の経つのも忘れて見惚れていると、やがて巨大な建築群の前に着いた。将軍がやや緊張を解いた様子で口を開く。
「皇宮に到着致しました」
(これが、この光威国の皇宮? なんて大きいんだろう……)
皇宮は朱色の高い城壁に囲まれ、堀がその全周を取り囲んでいた。その規模に、身が竦む。
宮門から先へは馬車で走ることはできないらしく、将軍と私は徒歩で皇宮内を進んだ。
内部は大小様々な建物が並んでいた。
建物は白い基壇の上に建ち、柱という柱が全て朱色で、甍の上にはたくさんの素焼きの龍の像が飾られている。
屋根は奥まで累々と波打ち、その果てが見えない。
敷地を仕切る塀は延々と続き、終わりがない。
時折、華やかな刺繍や染物のある衣装に身を包んだ女性達とすれ違う。
(凄く綺麗だな……。宮女達なのかな?)
無地の地味な衣を纏っている人達もいた。ほうきを手にしているところを見ると、下級の宮女達なのかもしれない。
女性達は皆、袖のゆったりとした上衣と、動くたびに靡く長い裳といった、上下別れた装束を着ていた。いわゆる襦裙のようなものだ。
将軍は小さな池の前にある建物まで私を連れてきた。
正面扉の両端にたつ朱色の柱には、色鮮やかな鳳凰と雲の絵が描かれている。その小ぶりだが立派な建物を見上げつつ、将軍は言った。
「皇宮ではこちらの宮をお使い下さい。私は陛下にご報告して参りますので、一旦お側を離れます」
皇帝に「軍神が来てくれた」とでも伝えるのだろうか。嘘がどんどん広まっていく。
(う〜ん、まずいよ。大ごとになっていくのが止められない)
途方に暮れて、ストレスから胃のあたりが微かに痛む。そんな私の困惑をよそに、将軍はさらりと続けた。
「また声をお掛けしますので、明様はそれまでこちらでお待ち下さい」
そう告げると、将軍はやっと私の前から姿を消した。
将軍の予告通り、準備してもらった宮はとても素敵だった。
部屋の中には椅子や机、棚といった調度品が申し分なく揃っていた。
金庫のような物入れもあり、開けてみると銅銭がぎっしり収められていた。真ん中が空洞の、丸くて軽い硬貨だ。
将軍からもらった金錠より、こちらの方が街中では使えそうだ。
窓の格子は竹の形に装飾されていた。油紙を張った窓の向こうから日の光が差し込み、竹の陰が室内に落ちている。その窓の前に立つと、まるで竹林にいるような気分になり、風流だ。
宮の一番奥にあるのは、ひときわ広い部屋だった。どうやらここが寝室のようで、大きな寝台が置かれている。天蓋からは綾織の光沢ある布が幾重にも垂らされていて、色彩の重層感が美しい。
枕は白い陶器で、唐三彩のような落ち着いた三色の模様が入っていて、綺麗だ。
(いやいや、豪華な部屋に感激している場合じゃないでしょ。皇帝の前で偽軍神なんて、とてもできない!)
ちょっと、冷静になろう。
私は電光石火の如く空間を切り裂いて、異世界にやってきてしまった。――こうなったらそれはもう、認めるしかない。
「だからって、なんでこの私が軍神なの? 色々と怖過ぎだよ」
とはいえ、元の世界から誰かが探しに来てくれるはずもない。そもそも家族はもういないし、職場も失った。
たとえ友人が私の失踪に気づいてくれても、どうすることもできない。
――もう一度雷に打たれれば帰れるかもしれない。
ふとそんな考えがよぎるが、死ぬ確率の方がずっと高そうだ。
とにかく、私を降って湧いた便利な旗としか思っていなそうな将軍の手元にいるのは、危険だ。それだけは確かだ。
(幸いお金はたくさんあるんだから。ほとぼりがさめるまで、どこかで過ごそう……)
逃げるが勝ち、とばかりに私は風呂敷包みを背負い、与えられた宮を飛び出した。
石畳の上を走り、大きな殿舎の間を抜ける。
南側に進むと、官服なのか揃いの紺色の袍に身を包んだ官吏達がそこかしこを歩いており、宮の前に立つ兵達の人数も多かった。慌てて基壇の陰に隠れる。
(こりゃだめだ。こっちに向かうと、人が多過ぎる。逃げられそうにない)
諦めて北へ進路を取り、人目を避けて庭園を通る。
だが順調に行けたのは、そこまでだった。
庭園は北側を高い門に囲まれ、外へと通じる扉には兵達がいた。
(どうしよう、逃げられない)
それ以上進めない。その上、じっとしているととても寒く、吐く息が白く染まる。ここ開京は、東京より冷える。
「だめだ。闇雲に逃げるには、寒過ぎる。あの部屋に戻るしかないかぁ……」
たたらを踏んでいると、後ろからカサカサと何かがこっちに向かってくる音がした。
何事かと振り返ると、山茶花の咲く花壇の角から、茶色い小型犬が飛び出してきて、私の背中に突撃してきた。
「ぎゃー、なに、何!?」
何度も飛び跳ね、私の風呂敷包みに噛み付いてくる。体毛は耳の上の毛に至るまで長く、顔も全体に潰れているのでまるで長い毛の球みたいな犬だった。
ぺちゃんこの鼻が、物欲しげにヒクヒクと動いている。――これは絶対に、風呂敷の中の桃饅頭を狙っている。
「あっちへ行きなさい! これは君の餌じゃないの!」
饅頭と金を守る為、背中を必死に振る。
食い意地の張った茶色い毛玉とそうやって格闘していると、背後の石灯籠の影から一人の男が現れた。
男は青色の袍の上に白い毛皮の肩掛けを羽織っており、暖かそうな格好をしていた。
頭の上に小さく髻を結い、残る薄茶色の柔らかそうな長い髪を、後ろに垂らしている。
私と同い年くらいだろうか。
「茶丸、その方から離れなさい」
男は犬を両手で持ち上げると、私から遠ざけてくれた。今度は毛玉が男の足元で飛び跳ね、纏わりついている。
「ありがとうございます。飼い主さんですか? ふさふさで可愛いですね」
躾はなっていないようだ。一応礼を言いつつ風呂敷包みを直すと、男は苦笑した。
「いえ、違います。茶丸は怜王の飼い犬です。――萌香が献上したばかりなので、まだ懐いておりませんが」
「萌香?」
「怜王の婚約者です」
私はああ、と思い出した。
「たしか門下侍中のご令嬢の……謙王の元婚約者ですね」
すると男の琥珀色の瞳が少し陰り、寂しげな微笑を浮かべた。その視線が私の衣服に移り、腰に下げる刀に辿り着く。
「それは一昨日宝物庫から消えた白雷刀ですね。――失礼ながら、貴方様が先ほど皇宮にいらしたのを、拝見しておりました。青海州からの賓客の、明様ですね?」
どうやら既に軍神の話は広まっているらしい。
詐欺師になった気分になりながら、私はその通りだと頷く。
男は爽やかに微笑むと、膝を石畳の上について胸の前で両手を組み、頭を少し下げた。
「羅国を追い払う為にいらして下さり、感謝申し上げます。どうかこの国をお守り下さい」
茶丸が男の膝に前足を乗せ、男の顔を舐める。
男は顔を上げ、茶丸の背を撫でながら言った。
「お前もご主人様が羅国討伐に行ったら、寂しくなるな。戦地まで連れて行ってはもらえないだろうからね」
私はおやっと首を傾げた。
「どなたが大軍を率いるかは、今のところ未定だと聞いています。怜王が行くと決まったわけではないのでは? 謙王になる可能性もまだありますよね」
男は数回瞬きをした後で、時間をかけて私を見上げた。琥珀色の瞳が、興味深そうにこちらに向けられている。
「陛下のお心は怜王でほぼ固まっているようですが。……もしくは、明様は謙王が行きたがると?」
う〜ん、と私は首を捻って考えを巡らせる。自分が謙王の立場だったら、どうするだろうか。
話に聞く限り、第一皇子の謙王はもう後がない。一発逆転を狙うなら、今しかないだろう。
「そうですねぇ。私が謙王なら、一縷の望みをかけて羅国と戦って、皇位をもぎ取りに行くかもしれません」
すると男は愉快そうに声を立てて笑った。その笑い声を聞きながら、私は庭園を見渡す。
こんなにも巨大な皇宮の主というのは、さぞや絶大な権力を持つに違いない。そう考えながら、更に言い足す。
「皇子達の間には、きっと既に色々と禍根があるでしょう。怜王が皇位についたら謙王は安心して寝られなくなるかもしれません」
男はさっと私から視線を離し、地面に目を落とした。そうして小さな声で、呟いた。
「そうですね。謙王はこれまでも、何者かに毒を盛られたことが何度かありますし」
なんと。そこまで熾烈な争いが繰り広げられてきたのか。
血で血を洗う玉座争いに負けた者の末路は、概して悲惨なものだ。謙王はもう、一刻もうかうかしていられない立場のはず。
「それなら尚のこと、今謙王が何も動かなければ、彼の運命はきっと風前の灯ですよ」
「なかなか手厳しいことを仰る」
ここで男は黙りこんでしまった。何やら前方に視線を投げ、思案に暮れるように眉を寄せている。
会話に集中して相手をしない私達に飽きたのか、毛玉の茶丸は私達の足元を離れ、どこかへと走り出した。
彼の首輪の鈴が鳴るシャンシャンという音が、遠ざかっていく。
茶丸を視線だけで追いながら、男はゆっくり立ち上った。その拍子に男が腰帯からぶら下げている玉飾りがくるりと回転する。その乳白色の石に刻まれているのは、「謙」という漢字だった。
その字に、目が釘づけになる。
(まさか、この人――。いやでも、そういえば萌香を呼び捨てにできるのは……)
男の頭上の髪飾りも、改めて観察すると血のように赤い大きな楕円形の珊瑚が使われている。親指にはめられた指輪は翡翠をくり抜いたもので、濃く透明度の高いその緑色は、間違いなく一級品の翡翠だ。要するに男は非常に身なりが良かった。
まずい。下手をこいたかもしれない。
焦りのあまり、声が震える。
「ええと、貴方はもしや……」
男はやや罰が悪そうに首の後ろをかきながら、言った。
「名乗り遅れて申しわけありません。私が、その風前の灯の謙王です」
やってしまった!
これできっと、私に対する第一印象は最悪だ……。
もういっそ、寧ろこれ以上悪くなりようがないことを、喜ぶべきだろうか。
なんとかしようと、必死に考える。
(持ち合わせは金錠と桃饅頭だけだし。――どうする、私⁉)
背負っていた風呂敷包みを下ろし、中を開ける。
軍神といえば瀛州らしい。
そしてそこは仙人の住む所で、仙人と桃――とくれば西王母の仙桃が有名だ。
竹籠に入れていた桃饅頭を一つ取り出し、目の前の謙王に差し出す。
謙王が不思議そうにこちらを見つめる瞳を見返しながら、私は必死で作った笑顔を披露した。
「殿下。仙桃をご存知ですか?」
「神仙界にあるという、寿命を伸ばす桃のことですか?」
良かった。仙桃を知っていたようだ。
「そうです。失礼を申し上げたお詫びをさせて下さい。瀛州の仙桃を、どうぞ召し上がれ。これで殿下は間違いなく、長生きされます」
謙王は破顔一笑した。
そして仕方がないなと言った風情で首を左右に振りながらも、桃饅頭を受け取ってくれた。