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戴冠式

 羅国兵は撤退し、緩衝地帯から消えた。

 光威国軍は、勝利を納めたのだ。

 謙王は敗走した羅国兵を追走しなかった。緩衝地帯から追い払うことが目的であり、それより彼には急務があった。

 怜王の即位式を、止めることだ。

 即位式は二月弱後に迫っていた。謙王は一転して南に進路をとると、羅国軍に勝利を納めた光威国軍を引きつれ、北砂州を目指した。


 光威国に入る寸前のことだった。

 草原で最後の休憩をとっていると、将軍が謙王の前に膝をつき、一枚の折り畳まれた布を差し出した。謙王は怪訝そうな顔でその布を開いた。

 広げると長方形で、上部に旗棒に括りつける為の輪がついており、のぼり旗になっている。真ん中には、五本の爪を持ち二本の角を頭に生やした龍の姿が刺繍されていた。 


「皇帝の龍ではないか。これがなぜここに?」

「五本爪の龍は本来、皇帝のみに使用が許されており、皇帝の象徴です。殿下がお持ち下さい」


 謙王は最初、驚いた様子だった。将軍は光威国軍を率いて草原に向かった時に、既に皇帝旗を謙王に渡すことを決めていたのだ。

 謙王はゆっくりと手を伸ばし、旗を広げると龍に見入った。


 こうして私達光威国の軍は、皇帝旗をはためかせた謙王と共に、皇宮へ向けて光威国内に戻ることになった。

 北砂州に戻ると、謙王や私達は大歓迎された。私達が彼らを苦しめた羅国に勝利したことと、謙王の北砂州での献身を、皆忘れていなかったのだろう。州民は貧しい暮らしにも関わらず、兵達に食料を進んで提供してくれた。

 問題はそこから先の州だった。

 謙王が勝手に皇帝の龍を掲げていることは、既に皇宮の知るところだった。怜王は謙王を捕らえるよう、各州に命令を出しているようだった。

 だが謙王も黙っていなかった。彼は通る各地で、怜王は父親である皇帝を毒殺した、と触れ回った。

 それに謙王が北砂州で訓練していた私兵達も、謙王の帰還を聞きつけて集結し、我々一行に加わった。


「何より、明様がいれば私には怖いものなしです」


 謙王は私にそう言った。


「衛明様と初代皇帝の建国物語は、誰もが子どもの頃に読みます。貴方を傍に北方民族を追い払った私は、皆の目にどう映ると思いますか?」


 羅国討伐から帰還する私の姿と謙王の姿は、象徴的に受け止められた。

 本来ならば州の入り口で城門を閉ざし、私達と戦わなければならない州軍達は皇宮からの命令の正統性に疑問を抱き、謙王率いる軍勢に抵抗するより何もしないことで、大局を見た。こうして私達は、各州を無血で通っていった。

 謙王は私と将軍を従え、開京に凱旋するなり、真っ直ぐに皇宮へと向かった。


 宮門を押し入り、皇宮に入っても謙王は騎乗したままだった。


(皇宮の中は、馬で走ったりしちゃいけないはず――!)


 彼の後を追った私は、にわかに焦る。ここまで共に戦ってきた禁軍兵達は律儀に馬から下り、走って必死に謙王を追いかけている。

 だが規則に従う時間はなかった。怜王の即位式に間に合うよう、急いでいるのだ。

 謙王は儀式用の殿舎である、永和殿に向けて駆けた。


「殿下、単身乗り込まれては危ないです! お待ち下さい」


 謙王の後ろから、万里に跨って大きな声を出すが、彼は速度を落とさない。

 謙王はそうして甲冑のまま、即位式真っ最中の永和殿に乱入した。

 永和殿の前の広場には、即位式に参加する百官が勢揃いしていた。

 殿舎へと上がる長く白い階段は、祝いの為に敷かれた金色の縁取りの赤い絨毯が上まで伸び、その中ほどに怜王がいた。彼は登る途中で、こちらを振り返った様子だった。あり得ない形で乱入する謙王を目の当たりにし、白い顔が醜く歪んでいるのが見える。


(間に合った? 怜王は、まだ戴冠していない!)


 怜王は黒地に金糸でふんだんに装飾された、礼服である冕服(べんぷく)を纏っており、長い裳を引き摺っていた。殿舎の入り口に立っているのは、冕冠(べんかん)を手に怜王を待つ門下侍中だった。その隣には、玉でできた大きな印璽を両手に捧げ持つ、式部官が立っている。更に背後に控えるのは、宰相達だ。

 対処に迷っていた怜王の侍衛が、慌てて謙王を止めようと槍を掲げながら走ってくる。

 謙王は彼らを馬で蹴散らして基壇の下まで来ると、やっとここで馬から滑り降り、階段を上り始めた。

 永和殿の正面中央を上る階段は皇帝専用であり、侍衛達は後に続けない。彼らはひと時躊躇した後、脇を上がる階段を上った。

 謙王は怜王の数段下まで駆け上がると、立ち止まった。そのまま二人が睨み合う。先に口を開いたのは、謙王だった。


「私は、知っている。お前が血を分けた兄である、私を見殺しにしようとしたことを」


 怜王は黙っていた。私は皇帝にしか許されない階段に、一歩足を掛けた。


「私はまた、知っている。お前が時間をかけて、私達の父を殺したことを」


 怜王の頬が痙攣し、彼の拳が硬く握られて震えた。私は睨み合う兄弟が気づかぬよう、こっそり階段を上り始めた。


「私が知らないと思うなよ。お前が私の母を陥れ、心を病ませたことを」


 怜王が歯を剥き出し、怒りの形相とともに両腕を突き出した。そのまま謙王に掴みかかり、彼を階段の上から落とそうとする。


(それだけは、絶対にさせない!)


 私は二段飛ばしで階段を上がり、後ろに傾いた謙王の腰に突進し、全力で彼を階段横の手すりに向かって押した。そのまま三人で揉み合いになり、謙王と階段に倒れ込む。したたかに脛を階段に打ち、直後に額が固い手摺りにぶつかる。

 うわぁぁぁッ‼ という悲鳴が耳元を通り過ぎ、後ろへと流れて行った。

 強打して星が散るような痛みを押し、額を摩りながら目を開ける。前方にいたはずの怜王はおらず、首を傾けると彼は階段の一番下で仰臥し、呻いていた。

 階段から転がり落ちたらしい。

 静けさを破ったのは、将軍の美声だった。彼は一人の初老の男を連れ、怜王の侍衛達を押し退け、脇の階段から永和殿の入り口に向かっていた。


「門下侍中を始めとする宰相の皆様。今一度、確認しようではありませんか」


 確認とは、何を? というその場に居合わせた皆の心の声が、聞こえてくるようだった。

 将軍は何をしようとしているのだろう? 謙王と一緒に将軍の前まで向かう。

 将軍は宰相達の前に初老の男を押し出した。


「大医殿をお連れしました。さて、大医殿。皇帝陛下がご臨終の際に後継を指名なさったというのは、本当ですか? ……少し遠くにいた私には、聞こえなかったのですが」


 大医が怯えた目で将軍を見上げる。葛藤しているのか、声なく口を開けたり閉じたりしていた。

 将軍は大医の肩に手を乗せ、言い聞かせるように言った。


「貴方の嘘は、貴方を守りませんよ? このままでは寧ろ早晩口封じの為に、殺されるのがオチですよ」


 途端に男の顔が泣き出しそうなほど引きつり、彼は両手を床に投げだして跪いた。そうして頭を何度も下げる。


「申しわけありません! 偽りを申しました。怜王殿下と門下侍中に話を合わせねば、自分の立場が危うくなると思ったのです。――陛下は遺言なく、崩御されました」


「この簒奪者を捕らえよ!」と広場から大声で禁軍に命じたのは、瑞玲だった。数人の兵達が駆けつけ、喚いている怜王の脇に手を入れ、引きずっていく。

 怜王の喚き声が遠ざかると、突如として永和殿前の広場に登場したのは、萌香(ほうか)だった。どこかから、怜王の即位式をほくほくと見守っていたのだろう。

 彼女は脇の階段を駆け上がるなり、謙王の前に膝をつき、自分の両手を胸に当てた。


「殿下! わたくしをお許し下さいませ! 全て父に脅されてやったことなのです」


 声を震わせ、磁器のように白い頬に涙を流すその様は、事情を知らぬ者が見たら、かなりの憐憫の情を誘ったかもしれない。だが、私は怒り心頭だった。


(この二股令嬢! どこまで謙王を馬鹿にしたら、気が済むの?)


 隣で怒りのあまり茹で上がっている私とは対照的に、謙王は萌香に優しく語りかけた。


「萌香――。私は君ほど美しい女性を、見たことがないよ」


「殿下……!」と感激に胸震わせながら、萌香が縋るように謙王の手を取る。


「だが萌香。私は君ほどあざとく、姑息で、卑怯な女性も、見たことがない」


 萌香の可憐な花のような顔が、凍りつく。

 その肩をとんとんと叩き、声を掛けたのは瑞玲だった。


「殿下のお気持ちが分かったところで、もう行きましょうか。お父上と同じく、貴女をこれから取調べが待ってますから」


 喚く萌香を瑞玲が引きずっていく。銀色に輝く披帛が腕から滑り、地面に虚しく落ちる。

 その喚き声が遠ざかると、中書令が門下侍中の前まで歩き出した。門下侍中の正面に立つと、彼に怒りに満ちた目を向ける。


「もう貴殿の思い通りにはさせん」 


 そう言い放つと、中書令は門下侍中の手から冕冠を取り上げた。

 何をするのか、と睨む門下侍中を無視し、中書令は謙王の正面に立ち、彼に冕冠を差し出した。


「最早、天子の象徴をどなたが戴くべきなのかは、誰の目にも明らかでございます」


 それは今までの苦労が全て報われたような瞬間だった。

 謙王が冕冠を受け取り、それを厳かに頭上に被る。

 その直後、徐々に歓声が上がった。集まっていた百官達が、たった今即位した皇帝に対する万歳三唱をする。

 続けて式部官が謙王の前に進み出て、印璽を恭しく彼に差し出す。玉でできた正方形の印の上に、うねる龍の持ち手がついている。


「皇帝陛下は天子位に着かれました。謹んで印璽を奉ります」


 謙王が印璽に手を伸ばす。

 達成感と同じくらいの大きな疲労を感じながら、その歴史的瞬間を目に焼きつける。


(これで私もエセ軍神なりに、ちょっとは存在した意味があったかな……?)


 自然と安堵の笑みが溢れた。そしてここが衛明の引き際だろう、と思った。


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