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軍神、追い込まれる

 羅国兵は追いかけてこなかった。彼らも陣形の立て直しをしているのだろう。

 撤退ができたのは、第三部隊のうちの四分の一ほどの人数だった。

 私達はゴツゴツした大きな岩が転がる一帯まで撤退した。その岩を風除けとして使いながら、負傷兵の手当を始め、防具を装着し直したり、馬鎧を急遽繕ったり。

 私達は僅かな時間を使って建て直しに腐心した。

 岩に寄りかかり、竹製の水筒から水を飲む。貴重な水を溢さぬよう、細心の注意を払う。

 謙王は水を切らしたらしき、禁軍の将校に水を分けていた。

 突然、辺りに怒号が響き渡った。


「何をしている! 待て!」


 露骨な怒りが込められた怒号に、何ごとかと私と謙王は声の方へ向かった。

 すると丁度若い兵が、一人の将校に背後から斬りつけられているところだった。その場面を目撃し、謙王が血相を変える。


「これはどういうことだ!」


 謙王が問うと、将校は慌てて膝を地面についた。周囲にいた兵達も、一様にその場に膝をつく。

 将校は背を切られて、もはや動かない若い兵を顎で指した。


「殿下、脱走兵です。この者が隊を無断で離れようとしておりました」


 謙王は目眩でもしたように、一瞬両眼を閉じた。

 どうせ敵に殺されるなら、と逃げる兵が現れたのだ。

 隙間だらけの革製の防具を胴回りに巻いただけの、軽装の兵だ。下級兵には武器や防具類が最低限しか支給されない。

 禁軍兵とは異なり、募兵された郷軍兵は経済的に恵まれない者も多い。自前で揃えるにも、限度があったのだろう。

 やるせない思いで、将軍に着せられた重すぎる装備を見下ろす。

 だが感傷に浸る時間はなかった。間もなく見張り兵が絶叫した。


「敵兵、東北方向に確認! 来襲します‼」 


 謙王が兵達に急いで陣形を整えるよう指示し、自身も馬の鎧をかけ直す。


(このまま羅国軍を迎え撃っても、必ず負ける)


 確信があった。敗走直後で、脱走兵まで出た。何より、士気はガタ落ちだ。


 このまま総崩れになるのを、待つわけにはいかない。兵達が慌てて装備を整え始めるのを視界の端に捉えながら、私は自分が何をすべきかを考えた。

 万里を連れて、ひと際大きな岩の陰に回った。

 岩に寄りかかると大きく息を吐き、目を閉じて空を見上げる。

 後方で兵達が出撃の準備をする忙しない音を聞きながら、私はゆっくりと目を開けて(かぶと)を脱いだ。

 脱いだ途端に頭皮に風を感じ、頭全体が軽くなったように感じる。

 手を後頭部に回すと、汗で髪までぐっしょりと濡れている。

 濡れた髪をほぐしながら、髪を全て上に纏め上げる。そしてふと思った。


(今なら塾で生徒達に、甲冑を着込む大変さを教えられるな……。首と肩が猛烈に凝るとか、頭皮が強烈に汗臭くなるとか)


 直後に、腹の底から笑いが込み上げる。


「塾、潰れちゃったのに。何考えてるんだろ」


 私はもう、講師じゃない。それどころか、元の世界に戻れるかも分からない。

 歯を食いしばると、奥歯でジャリ、と砂粒を噛んだ。岩の下に、唾液と一緒に吐き出す。


(でもここで、無駄死にしたくない。今できる最善を尽くすんだ)


 兜を地面に置くと、肘回りに巻きつけられた防具の固定紐を、解いていく。

 将軍にもらった防具を全て脱ぎ去ると、後は胴回りの鉄板の鎧だ。


(流石に、これを戦場で脱ぐのは勇気がいるな……)


 だが全て脱ぎ去ると、本当に解放感がみなぎった。全身が軽くなり、妙な万能感が湧き起こる。

 ――今なら、軍神になりきれるかもしれない。

 絵巻や書物。今に伝わる衛明の姿は、全て真紅の(ほう)に、簡素な髻姿だ。

 栗毛の馬上で白雷刀を空高く掲げるその身には、何の防具もつけていなかった。彼は騎馬民族との戦場で、何より速さを優先したのだ。

 あの姿こそまさに、光威国の人々の頭の中にいる衛明なのだ。

 目を閉じて白雷刀の柄に触れ、話しかける。


「私を衛明にして」


 その途端、体の芯に震えが走った。雷痕の痺れではない。これは武者震(むしゃぶる)いだ。

 両目を見開くと、軍神になり切って大股で歩き出す。


 岩の陰から出ると、兵達が整列し新たに陣形を組み始めていた。

 謙王は既に騎乗し、その甲冑が真昼の日差しを浴びて、眩しい光を放っている。

 万里の手綱を引いて私がそばまで歩いていくと、謙王は瞠目した。

 甲冑を脱ぎ、全身の真紅が目立つ私のこの姿に、驚いたのだろう。謙王から焦りの言葉が飛んでくる。


「その格好は、どうされたのです? 間もなく出撃ですので、早くご支度を!」


 衛明になり切る為に、扮装(コスプレ)しているのだ。謙王の指示に従うつもりはない。

 東北の方角を見れば、すぐ先に砂埃が上がっている。

 羅国の大軍がこちらに向けて、馬を走らせていた。

 私は言われたことを無視し、謙王のすぐ隣まで歩いた。そうして手綱を握る彼の手袋をした手に、そっと素手で触れた。


「私が前に出ますから、殿下はどうか後方に。ご無理をなさらないで下さい。殿下だけは、失うわけにはいかないんです。――本来、皇帝は戦に出ないと聞いていますし」


 謙王の返事を待たず、私は万里に跨った。

 兵達は目を見開いて、瞬きもせず私を見上げていた。鎧も纏わず、異様に見えているのかもしれない。


(ううん。きっと、衛明の化身に見えてくれている)


 そう信じ、謙王を押し除けるように万里を歩かせ、兵達の前に出る。

 後方の安全な位置に陣取り、彼らに戦えと命じてきた自分が、前に出るなら今しかない。

 万里の向きを変えて兵達を背に、進軍してくる羅国軍の方を向く。

 槍や剣を手に、駆けてくるその大軍に鳥肌が立つ。


(怖いからじゃない。これは、興奮しているからだ)


 白雷刀を鞘から抜く。そのまま振り上げ、高く掲げる。

 敵陣の正面を向き、息を大きく吸い込む。


「この先に、光威国軍が必ずいる!」


 正直、確証はない。でもいてくれなければ、終わりだ。


「光威国の最も大切な皇子と共に、必ずこの戦いに勝利する!」


 振り上げた右手が、じわじわと痺れ始める。袖を捲らずとも、雷痕が赤く熱を持つのが分かる。

 ほんの少し震えていた腕が、真っ直ぐに伸び、一層力強く柄を握る。

 震えは完全に収まった。


「この衛明が、白雷刀で敵をなぎ倒し、道を切り開こう」


 前方から砂埃を巻き上げながら、羅国兵達はすぐ近くまで迫っていた。

 彼ら一人一人の顔が、確認できる。馬は全て、白馬。栗毛や黒毛部隊は、他の光威国兵達が倒してくれたと、今は信じるしかない。

 刀を上げたまま、左手で手綱を握りしめる。


「光威国は必ず勝つ。なぜなら、天がこの衛明を遣わしたのだから。天に誓ってこの衛明が、勝利を約束する‼」


 後ろは振り向かず、兵達の反応は確認しなかった。

 私はただ、万里を走らせた。「怯むな!」と脇腹を蹴り続ける。

 万里にではなく、自分に放った言葉だ。

 間もなく、先頭の羅国兵とぶつかった。

 私は躊躇なく、刀を振った。

 振り下ろした刀が敵兵の首元に刺さる。肉と骨に食い込む確かな手応えを感じた。

 今度こそ、目を背けるわけにはいかない。

 沸き起こる恐怖と懺悔に似た感情を、戦という非日常がもたらす異様な高揚感で覆わせ、意図的に見えなくする。

 続けて左前方の騎馬に剣を振り上げ、次の瞬間顔に降りかかった生温かい液体は、血なまぐさい。

 それに構う暇などなく、次々に刀を振る。

 単身斬り込んでいった私は、周りを見ればもう一人ではなかった。


「軍神をお守りしろ!」


 気がつけば私は沢山の味方の兵達に囲まれていた。ついてきてくれた臙脂色の軍勢と、茶色の軍勢が衝突していた。

 私達は怒涛の勢いで羅国兵を押した。

 数で劣る私達は、短時間で決めなければ勝利はない。

 何度も馬上から振り落とされそうになるも、なんとか踏ん張り駆け続ける。

 刀を振り回し、道を切り開く。

 全身は返り血だらけだが、真っ赤な袍のお陰で分かりにくい。

 奇妙な興奮と、相反する冷静な自分がそこにいた。

 もはや自分は盤上の駒なのだ。敵に取られて盤上から落とされれば、命はない。全てを賭けたことで生じる、達観とも言える落ち着き払った自分が、頭の片隅にいた。

 戦場では下級兵から将校に至るまで、皆が駒でしかない。

 この先に、他の部隊がいると、信じて。

 不意に敵の陣形が崩れた。何事かと辺りを見渡すと、敵兵の後方から大軍が攻め込んできていた。羅国軍はそれに対応しようと急遽、兵達を反転させている。


(臙脂色の軍服に、掲げる軍旗の色は――)


 雪崩のように羅国兵の背後から押し寄せてくる騎兵達と、はためく軍旗が見えた。

 赤と黄。光威国の軍旗だ。


(来た。来てくれた。――助かった!)


 刀を振りつつ、援軍の動きを目で追う。どの部隊だろう。

 羅国兵を脅かす大軍の中に、先陣を切り怒濤の勢いでこちらへ進んでくる兵がいた。兜で顔が確認できない。けれど風のように駆けるその馬は、濡れ羽色の黒馬――黒風だ。


(将軍だ。第一部隊が来てくれたんだ)


 将軍は飛来する矢を斬り落とし、次々と向かい来る騎兵をそのたった一突きで落馬させていく。彼を起点として、敵陣がまるで土砂崩れのように撃破されていく。

 私は謙王を死守しなければならない。謙王のいる部隊の方へ突っ込んでこようとする敵兵達を抑え込むことに集中する。

 戦乱の中、百を超える敵兵を飛び越え、ふと将軍と目が合った。砂埃が空気を濁らせ、視界は悪かった。だが将軍が非難がましい目つきで私を見ていることだけは、分かった。

 改めて自分の格好に意識がいき、苦笑する。


(約束を破ったからだ。多分、この軽装っぷりに怒ってる)


 つけてもらった防具は脱いでしまったが、将軍には感謝しかない。彼が当初いた場所を思えば、ここまで援護に来ているというのは、信じられないような速さなのだ。

 素直に認めるしかない。


(――かっこいい。武官としてかっこ良すぎる。もう、ズルいくらいに)


 胸の奥底でじわじわと沸き起こる女々しい感情に、何とか蓋をする。

 そうして将軍に負けじと白雷刀を駆使し、体力の限界まで戦った。


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