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砦からの脱出

 階段は下りる者や、反対に上がってくる者でごった返していた。

 ようやく一階まで下り切り、胸を撫で下ろした直後。背後から怒声がした。


「待て! 謙王をどこに連れ出す!」


 混雑する階段を見上げて声の主を確認すると、踊り場で一人の屈強な武官が刀を振りかざしている。そのいかつい顔には見覚えがあった。羅国王の重鎮、蘭大将だ。


(まずい。一番、会いたくない相手だよ!)


「殿下。私があの大男を相手しますので、外に逃げて下さい。もうすぐ厩から瑞玲達が馬を連れてくる手筈になっていますので」


 謙王を背に庇うようにして踊り場に向き合うと、蘭大将が駆け下りてくるところだった。

 だが私が抜刀する必要はなかった。

 ヒュン、と耳元を何かが通過する音がしたと思うと、蘭大将の動きが急に止まった。

 その左肩に矢が刺さり、根本を蘭大将が抑えている。


「お急ぎ下さい! 万里は外にいます!」


 振り返ると瑞玲が弓を肩に背負い、扉を押さえていた。なぜか赤い(ほう)を纏っている。扉に向かって私が走る間にも、彼女は数発の矢を射た。

 外に駆け出ると、強い風が真正面から吹いてきて、一瞬目を閉じてしまった。

 薄目を開けると、そこは更なる混乱の中にあった。

 外は奇妙に明るかった。それは等間隔に置かれた篝火(かがりび)のお陰ではなく、砦の外にある建物で起きている、火事のせいだった。


(風で火の勢いが、凄い! でもこっちにはかえってありがたい……)


 幾つかの建物が炎上し、真っ黒い煙を上げている。方々から上がる煙は夜空に吸い込まれ、草原特有の強い風が吹くたび、意思を持つ獣のように不気味にうねり、肌が焼けるような熱をまき散らしている。

 何枚もの布を重ねた建物の作りは、よほど燃えやすいのだろう。

 消火の為に駆けずり回る人々の横で、刀をぶつけ合い、戦っているのは羅国兵と副使達だ。

 砦の横には万里をはじめとする四頭の馬が待機していた。万里が私に気づき、走ってくる。

 謙王がそのうちの一頭に跨るのを助けていると、砦入り口から瑞玲が飛び出してきた。


「蘭大将は?」

「膝を射ました。追っては来られないでしょう。今しがた数人が脱出し、羅国兵達を引きつけています。我々は二手に分かれ、敵の目を眩ましましょう。私が明様の影武者として奴らを引きつけますので、殿下とお逃げ下さい!」


 私は万里に飛び乗りながら、同じく馬に跨り駆け出す寸前の瑞玲に尋ねた。


「あの火事は、瑞玲さんが?」

「違います。ですが丁度厩で私達が兵達と乱闘になった頃に、火が上がったのです」


 不意に視線を感じ、はっと砦を見上げた。きのこの最上階の窓の一つから、一人の女がこちらを見下ろしていた。直後に女は素早く身をひるがえし、窓から離れてしまった為、よく見えなかった。だが私は直感した。

 王妃だ。――羅国王妃が和平の邪魔をしたのだ。なんとしても萌香(ほうか)に来て欲しくないのだろう。

 乾いた笑いがこみ上げる中、私は万里の手綱をしっかりと引いた。万里はこの異常事態に困惑し、落ち着きがなかった。無理もない。馬は何が起きているかなど、人間以上に分からない。

 私は前屈みになり、万里の耳元に顔を寄せ、名を呼んだ。万里の栗毛色のピンと尖った耳が、さっとこちらを向く。


「いい? 万里。頼んだからね。私を生かして」


 万里がせわしない足踏みをようやくやめてくれると、前で待つ謙王に叫びながら、万里の脇腹を蹴る。


「殿下、行きましょう! (チィア)(走れ)! 驾‼」


 体格のいい万里で駆け抜けると、人々が踏み潰されるのを恐れてさっと道を避けていく。

 大きな桶や樽から、水をこぼしながら兵達が消火に勤しんでいる。その横を、彼らにぶつかりそうになりながら、刀を手にした兵達がぞろぞろと駆けつけ、こちらを指差す。


 幸いここは光威国の街のように、城壁と鉄格子の門で囲まれているわけではない。その点では、逃げやすかった。

 砦の建築群を抜ける際、長い槍を構えた羅国兵達が、私と謙王を待ち構えていた。

 手綱にしっかりと掴まる。緊張からくる汗で手綱の革が滑り、もう一度強く握り直す。

 隣を走る謙王も、必死に馬を操縦している。

 私は謙王の前に万里を飛び出させると、右手で白雷刀を構えた。


(本当は落馬しないように、両手で掴まりたい。でも、万里が槍で刺されたら、終わりだ)


 風は正面から吹きつけ、目から水分を奪い去っていく。だが私はカッと両眼を見開き、あらゆる些細な動きも漏らさぬよう、瞬きをやめた。

 止まれ、と絶叫する兵達の前に速度を落とさず駆けつけ、槍兵の前で万里を高く跳躍させる。

 万里の大きな嘶きを耳にしながら、息を止めて左手で鞍にしがみつく。

 万里の腹を掠める槍先を白雷刀で振り払った直後、着地に備えて前傾姿勢を取るが、それでも衝撃は全身を襲い、その勢いで舌先を噛む。

 痛い、などと自覚するゆとりはなかった。

 私が開いた兵達の隙間を、続けて謙王が走ってくる。


(どうにか、抜けられた! ここからは、追手に捕まらないように、とにかく走らなきゃ)


 満天の星のもと、手持ちの明かりがなくても草原ではぼんやりとその地の輪郭を見ることができた。

 星々が与えてくれるごく淡い光に視界を頼りつつ、南へと急ぐ。

 後方で多数の馬の足音と、私達に止まれと命じる叫び声が聞こえたが、私は一度も振り返らなかった。後ろを確認する時間も惜しかったし、何よりただ恐怖から、自分を追ってくる現実を見たくなかった。

 捕まりたくない一心と、異様な緊張からか乗馬中なのに上半身が小刻みに震える。


(震えるな! 軍神なんて呼ばれてるくせに、情けない!)


 私は追手の声が近付いたり、遠ざかったりするたびに万里に言い聞かせた。


「お前達は、光威国で一番と二番に速い馬だよ。だから絶対に、追いつかれるはずはない!」


 万里は、駆け抜けた。

 そしてそれに遅れまいと全力を尽くしたのか、謙王が繰る禁軍精鋭の馬も、頑張った。

 やがて追手の音はかなり遠のき、完全に聞こえなくなった。

 振り切ったのだ。

 それでも、速度を落とすわけにはいかない。


(チィア)! 驾!」


 馬に走れと命じる私と謙王の声が、風の中の草原に切れ目なく続く。

 やがて平原を流れる川にぶつかった。黄龍川だ。

 灯籠一つない夜の闇の中で見る黄龍川は、薄い墨汁が流れているようで、今は黒龍川と言った方が相応しいと思える。


「川に沿って走りましょう。この先の森で、光威国兵を率いる将軍と待ち合わせています」

「――驃騎将軍は、本当に怜王に背いて私を救出しようとしているのですか?」


 馬を疾走させつつ、謙王は疑り深い表情でそう尋ねてきた。彼にとって、将軍は怜王の側の人間であり、自分の味方ではなかった。


「本当です。今は信じて下さい」


 川に沿って進むと、ポツポツと木がまばらにはえるようになった。

 木を避けながら川を見失わないように注意し、できるだけ速度を保って進む。

 そのうち木々は濃くなっていき、川を視界に入れながら走るのが難しくなった。

 この辺りで馬を下りるしかない。


(万里も休憩させなきゃいけないし、将軍の言っていた森も、多分この辺りだろうし)


 万里の背を滑り降り、川べりに向かって手綱を持ったまま歩くと、謙王も私の後に続いた。

 地面に転がる枝や雑草をバキバキと踏みしめ、川を見下ろすと万里は鼻を水面に突っ込んで水を飲み始めた。

 ジャバジャバと結構な勢いで万里が水を飲む。

 物凄く、喉が乾いていたのだ。ここまで頑張ってくれたことに目頭が熱くなり、万里の首を撫でる。


「頑張ったね。ありがとう、万里」


 遅れて謙王をここまで運んできた馬も、懸命に水を飲み始める。

 私と謙王は首を巡らせて周辺の様子を窺い、耳をそば立てた。高い木々が枝葉を広げて鬱蒼と茂っており、聞こえるのは鳥や虫の声だけだ。

 ここにいればまずは安全そうなことに胸を撫で下ろし、私達はほぼ同時に深く息を吐いた。


「一応は、羅国兵を撒きましたね。とりあえず、しばらくここで将軍達を待ちましょう」


 謙王は頷くと近くの茂みに腰を下ろした。それにならい、私も川べりの岩の上に座る。

 よほどカチコチに緊張していたのか、全身に力が入って硬くなっていた体が、一気に脱力する。

 とはいえ、まだ気は抜けない。

 万里は水を飲み終わっていたが、私の近くから動かない。


(きっともうすぐ将軍がくる。だから大丈夫)


 疲れ切った体を押して、川で顔を洗う。化粧を落とす為だ。

 洗い流してから振り返ると、謙王はぎょっと目を見開いて一瞬固まったが、その後はただ苦笑を浮かべるだけで、黙っていた。

 彼は何も言わなかったが、前後で別人過ぎて驚愕したのだろう。

 女官風の髪型も直さねば、と頭上に手をやり、三つ編みを解く。髻を作ろうと髪を再び纏めようとするも、上手くいかない。

 手が馬鹿になったみたいに、力が入らないのだ。

 肩が上手く上がらないどころか、指が自分のものではないみたいに、動かしにくくなっていた。

 どうしようかと焦っていると、私の手をそっと暖かい手が包んだ。


「大丈夫。私がやりますよ」


 振り返ると後ろに謙王が立っていた。


「殿下に結い上げてもらうのは、これで二回目ですね」


 そう言うと謙王は自分の髻から頭巾を外し、私につけてくれた。その上、自分の上掛けを脱ぎ、私の肩にかけてくれる。


「その方が女官の衣装が目立たないでしょう?」


 気遣いに礼を言う。


 私は謙王が北砂州に行ってから皇宮で起きたことを彼に話した。特に皇帝の死について、彼は詳しく知りたがり、最後に顔を覆って涙した。


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