殿下、助けに参りました
笑えばバリバリと頬が割れ、剥がれ落ちそうなほど、分厚い化粧をした。
髪を三つ編みにして纏め上げ、女官から奪った簪で飾る。
白雷刀を制服の背中部分に隠し、腰帯をきつく結んで刀が落ちてこないように、固定する。
まだ目覚めない哀れな下着姿の女官に両手を合わせつつ、私は夜の闇に紛れて部屋を出た。部屋の周辺を見張っている羅国兵も、私を先程の女官と勘違いし、特にこちらに意識を向けない。
(慎重に行こう。慌てず急がず、とにかく慎重に!)
いくら女官の服を着ているとはいえ、油断は禁物だ。
女官が持ってきてくれた食事が乗ったお盆を抱え、そのまま建物の東側に向かう。
他の女官達とすれ違うたび、目を合わせないように会釈をする。緊張から、歩き方がぎくしゃくしてしまう。
私の部屋は一階に位置していた為、階段を見つけると上階へ向かった。
三階に到着すると、間もなく謙王の居室が分かった。
階段から一番遠いと思われる部屋の入り口に、槍を構えた二人の若い兵達がいたのだ。入り口には壁と同じ白色の、分厚い垂れ幕が下がっている。
私は背筋を伸ばして彼らに近づき、羅国の訛りを猿真似しながら声を掛けた。
とにかく、全部濁音をつけまくるのだ。
「謙王のお夜食をお持ちしました」
「食事ぃ? なんでこんな遅くに」
「今夜は宴会がありましたので、特別にご馳走と酒を陛下が振る舞えと仰せです」
二人は私のお盆の上に視線を落とす。
肉の煮込みや、乾燥茘枝など、明らかに貴人向けの贅沢な食事だ。
ごくりと生唾を嚥下してから、兵達が左右に退いて垂れ幕を上げてくれる。
「お前はあまり居座るなよ。いつも叱られるのは俺達なんだから」
軽く頷きながら、中に入る。
愚痴から察するに、謙王の世話を命じられた女官達は、居座りがちらしい。優男は、敵国にいようが優男らしい。今は却って好都合だ。
室内に入ると毛皮の敷布が掛かった二脚の椅子と机が目に飛び込んだ。その奥には間仕切りがあり、先へ進むと金色の掛け布団が掛けられた大きな寝台があった。
謙王はそこに腰掛け、入ってきた私に気づいて顔を上げたところだった。
お盆を近くの飾り台の上に放り出し、彼の名を呼びながら駆け寄ると、謙王は素早く寝台から降りた。
「殿下、助けに来ました。逃げましょう!」
謙王の両腕を掴む。
謙王は困惑に目を見開き、私の手をそっと払った。よそよそしい様子で私から遠ざかるように、身を引く。
「君は……?」
そうか。――どうやら私が誰だか分からないらしい。羅国の女官服に、この極厚化粧なのだから、仕方ない。
急いで光威国式のお辞儀をしてみる。
「私です。化粧のせいで別人に見えるかもですが、殿下と一蓮托生の衛明ですよ」
謙王はゆるゆると目を見開いた。琥珀色の瞳が、いつも以上に薄く見える。
「まさか。いや、本当に?」
何度も瞬きをし、挙句に手の甲で目を擦り、顔をグッと近づけて私を見る。ちょっと恥ずかしい。
「――なるほど。確かに、明様ですね」
やっと納得がいったのか、謙王は安堵して肩を下ろした。
急いで救出作戦について伝えると、彼は驚いたようだが、すぐに行動を開始した。
掛け布団をめくり上げ、寝具の下に腕を突っ込む。
「ここに短刀を隠してあります。持っていきましょう。実はしばらく滞在して内情を探ったら、頃合いを見て逃走するつもりでした」
謙王の押さえた声を聞き取るために、一緒に寝台の横に膝をついていた私は、はたと謙王を見上げた。拐われたことが想定内だったようなその言い方に、違和感を覚える。
怜王は何事も起きなければ皇帝の座についただろう。だが、謙王の起こした捨身の騒ぎのお陰で、情勢が変わったのだ。
「もしかして――。殿下は敢えて赴任先に北砂州を選ばれたのですか?」
私の隣で屈んでいた謙王は、短刀を探す動きを止めてこちらを振り返り、静かに頷いた。ふわりと香の匂いが漂う。
怜王と違い、微かに分かる程度の、心地よい香りだ。
「あのままではいずれ怜王に殺されるのが明白でしたから。わざと羅国に捕まりました。――以前、とある方に一か八かの賭けに出ろと発破をかけられたのです」
悪戯っぽく向けられた琥珀色の瞳を見て、急速に私達の出会いを思い出す。
(たしかに、そんなことを言った! そういういい加減なことを、言った記憶がある!)
どうやら謙王のお尻を叩いたのは、この私だったらしい。
過去の己の無責任な助言に、頭を抱えたくなる。
「お陰で目が覚めました。防御一方では、八方塞がりなのだと。そして、皇位とはもぎ取るものだと」
この私の一言が、そんな影響を与えていたなんて。
寝具の下から謙王が引っ張り出したのは、刀身が急な弧を描いた見慣れぬ形状の短刀だった。この形が羅国風なのかもしれない。
「そんな物が、よく手に入りましたね」
「女官達と少し仲良くなっておいたのです。色々と親切にしてくれました」
入り口にいた見張りの兵の言葉を思い出す。
「私が来なくても、殿下はお一人で脱走できたかもしれませんね」
思わず漏らした台詞は、少し嫌味っぽくなってしまった。
謙王から返事はなかった。怒ったのだろうか、と不安になって顔を上げると、彼と思わぬ近さで目が合う。その琥珀色の瞳は、物凄く真摯に私に向けられていた。
「いいえ。明様がいらしたからこそ、全てが変わるのです」
そうかな、と首を傾げてしまう。
その時、入り口から声がした
「いつまでかかってるんだ! 夜食はもう渡したんだろう」
(まずい、なんとかしないと!)
白雷刀を使って、ちゃんばら騒ぎをここで起こすわけにはいかない。三階の奥なので、見張りに加勢が来れば逃げるのが難しい。
物入れや衣掛け、衝立といった最低限のものしかない中で、視線が灯籠に止まった。
急いで美しい水仙の絵が描かれた紙製の灯籠を開き、蝋燭を取り出す。手に持つと蝋燭の熱が手の甲に伝わり、熱い。おまけに固定台から引き抜いた衝撃で蝋燭が傾き、溶けた熱い蝋が人差し指にかかった。
その直後、ズカズカと入ってきたのは、見張り兵の一人だ。私は咄嗟に手元の火を吹き消し、困っている表情を浮かべた。
「灯籠が、消えてしまって。これでは殿下がお食事に困ります」
「ええ、なんだよもう」
見張り兵は不満そうに私から蝋燭を強奪すると、火のない灯籠の正面に行き中を覗き込んだ。謙王はその無防備な行動を見逃さなかった。彼は両手で拳を作って高く振り上げると、見張り兵の後頭部に力強く打ち下ろした。
ゴツ、と言う鈍い音がして見張り兵が倒れる。
早くここを脱出しなければ。窓の外を見ると、三階にも関わらずその下にも見張り番がいた。そもそもこの高さから飛び降りるのは無謀だ。
入り口にいるのは、これで残るは一人だ。一人なら、白雷刀ですぐに強行突破できるかもしれない、と謙王の手を掴んだ時。
外から叫び声がした。
「火事だ! 外の建物で火が出てるぞ‼」
「火事?」
そんな馬鹿なと大急ぎで部屋の出口に向かうと、丁度残る見張り兵が駆け出すところだった。
「見てくる! 皇子が出ないよう、見張ってろ!」
彼は私にそう命じながら、廊下の先へと走っていった。
(出るなら今だ! 迷っている暇はない!)
私は謙王の腕を強く掴んだまま、部屋を飛び出た。
廊下を走り、円形の建物の中心である広間へ出ると、大勢の女官や兵達が右往左往していた。そのうちの数人が、こちらに気がついて動きを止める。何か声をかけられる前に、先手を打つ。
「殿下を避難させます! 早く外の消火を手伝って!」
彼らの反応を確認する間も惜しく、急いで階段へ向かう。
階下へ降りると煙がうっすらと立ち込めてきていた。
「殿下、袖で鼻と口を覆って下さい」
自分も煙を吸わないよう、きつく袖を押し当てる。
早く下へ、外に出たい。
焦る気持ちで足がもつれそうになりながら、謙王と一階を目指す。心臓がばくばくと暴れ、胸が痛いほどだ。




