彼らの心
「殿下、力加減はいかがですか?」
薄紫色の襦裙に身を包み、腕に披帛を掛けた萌香が、澄んだ愛らしい声で怜王に尋ねる。彼女は長椅子にうつ伏せで横たわる怜王の腰を、先ほどから揉み解していた。
「丁度いい。そなたの指圧は本当に絶妙だな。いつまでもやっていて欲しくなる」
すると萌香は深く親指を怜王の腰に押しつけてつぼを押してから、鮮やかな口紅を引いた唇を怜王の耳元に寄せた。
「もうすぐ毎晩揉んで差し上げられますわ、殿下。――いえ、陛下」
うつ伏せていた顔を微かに上げて、怜王がくつくつと笑う。
(陛下、か。そうだ、間もなく玉座は私のものになる)
ここまで、長いこと努力してきたのだ。そう、子どもの頃からだ。
あれは怜王が十歳に満たない頃だったろうか。謙王の母は皇帝の寵愛を失って、皇后から貴妃に落とされても、まだ少しの支持者がいた。
だから貴妃の侍女に金を握らせ、彼女の愛用する美顔膏に、ある液体を混ぜさせた。
(私特製の、いわば「醜顔膏」……。あれは、面白いほど効いたな)
貴妃の肌はあっという間にぼろぼろになり、彼女は心を病み宮に引きこもるようになった。結果的に支持者は更に減った。
他者を凌ぐ知識があれば、思い通りの未来に変えられると知った。
(そう、それこそ神のように。私こそが、この国を知識で治め大光威帝国へと導く、神の子なのだ!)
謙王の人気をくじいていくのは、少し難しかった。腹立たしいことに、謙王は怜王の想い人でもある萌香と婚約までしていた。
だが謙王打倒に、最後に一番大きな協力をしてくれたのは、誰あろうその萌香だった。
怜王が尚書令に任ぜられ、彼の皇太子としての道が明確になった時。萌香の方から怜王の懐に飛び込んで来たのだ。
その日、萌香は琴を手土産に、怜王のもとを訪ねた。焦げ茶色の木目が美しい琴の表面に、金銀象牙で装飾がされた、名工に作らせた逸品だ。
怜王がその琴を試し弾きし始めると、萌香は鳥の羽を幾重にも重ねた扇子を片手に持ち、舞い始めた。月下香の精油を染み込ませた扇子からは、萌香が体を動かすたびに、官能的な香が漂う。
室内は外の晴天のお陰で、灯りの助けなしに読書が難なくできるくらいに明るかった。だが萌香の舞を見つめる怜王は、まるで闇の中にまばゆい日差しが降り注ぎ、その周辺だけが煌々と輝いているような錯覚に陥った。
風一つ吹かない、酷く蒸し暑い夏の昼下がりだった。
萌香の額から汗が流れ、彼女は上掛けを一枚脱いだ。
琴の弦に掛けられていた怜王の指が、はたと止まる。
萌香が上半身に纏っているのは、紗織のごく薄い衣だけだった。銀色の裳から上、つまり肩から胸の部分は半ば透けていた。
舞を止めさせようと手を上げた時、萌香と目が合った。彼女が振る扇子の風が、心地よく怜王の頰を撫でる。
その大きな漆黒の瞳に声が吸い取られ、怜王は上げかけた手を静かに下ろした。
(私に、見せているのか……? そうか)
片方の口角を上げ、顔を歪ませて怜王が笑う。
艶かしく踊る萌香の体に、指先だけでも触れたかった。琴を跨いで萌香の方へ大胆にも歩を進めた直後。
萌香は時が止まったように舞をぴたりとやめた。そのまま両手を前に組み、膝を床について低頭する。
怜王は伸ばしかけていた手を、慌てて引っ込める。
「お気に召して頂けましたなら、明日の父の話をお受け下さいませ」
「父の話とは、なんだ?」
首を傾げつつ尋ねるも、萌香はそれに答えない。そうして衣を直すなり、唖然とする怜王を置いてその場を去っていった。
門下侍中が謙王と萌香の婚約を破棄し、怜王との婚約を勧めたい、と相談をしに来たのはその翌日のことだった。
怜王は長椅子から上半身を上げ、体を反転させて仰向けになった。そして手を伸ばして萌香の白い手を握る。
(要するに、権力を失いかけていた謙王など、萌香の眼中になかったのだ。――皇后になることに野心を抱く、この女には)
手を取られ、萌香は愛らしく邪気のない笑みを浮かべた。
だがその漆黒のつぶらな瞳の裏に、悪辣な正体が隠されていることを、怜王は知っている。そしてそんな自分達は実にお似合いだ、と思った。
何しろ、謙王が門下侍中邸に侵入した、とでっち上げる計画を思いついたのも萌香なのだから。
春の花のように微笑む萌香を見つめたまま、怜王は彼女の手を自分の方にぐっと引き寄せた。長椅子に浅く腰掛けていた萌香の体が怜王の方へ傾き、怜王はその勢いで彼女に口づけようとする。
だがその先へは行けなかった。上華宮に客が訪れたのだ。
不躾な頃合いでやってきたのは、驃騎将軍だった。
萌香を追い出した怜王は、上華宮で一番壁の厚い部屋に将軍を迎えた。
「こんな夜分に来るとは、珍しいな。宇文将軍」
将軍は茶を持ってきた侍女達が部屋から去るなり、口火を切った。
「殿下は、羅国をどうなさるおつもりですか?」
「羅国はすぐに約束を反故にする。ならばこちらも羅国の十八番を真似すればよいのだ。和平条約を締結し、謙王奪還後は遵守しなければよい」
少しの間、将軍は黙っていた。だが怜王が疲れを理由に自分を追い出す前に、話をつけたかった。
「殿下。我々禁軍は羅国討伐の十分な準備をして参りました」
「勿論、それは知っている。父上がいかにそなたを信頼していたかも」
怜王は椅子に座ると茶器の蓋をずらし、香りを楽しんでから茶をすすった。一方の将軍は茶には見向きもしない。
「羅国に屈することは、我が光威国の恥になりましょう。殿下は謙王が羅国に囚われた今こそ、好機とは思われませんか?」
茶器を机上に戻した怜王は、目の前に立つ将軍を見つめた。
「この危機をそなたはどう好機に変えると?」
「恐れながら申し上げます。謙王を捕らえていることで羅国に生じた油断を、今こそ突くべきです」
怜王はすぐには理解に至れず、肘掛に体重をもたれさせて己の細い顎先を摩る。
将軍は音もなく怜王との間合いを詰めた。腕を伸ばせば触れるほどの距離に迫ると、彼は唐突に微笑を浮かべた。眼前で披露されるその端正な顔立ちに、同性ながら心乱される。
将軍が脳髄に直接訴えかけるような美声で、囁く。
「表向きは和平に前向きな振りをし、水面下で大軍を北に向かわせます。そうして――羅国もろとも、謙王を討伐しようではありませんか」
怜王がその琥珀色の目を見開く。
――皇子である謙王を、始末する……?
無論、謙王は邪魔な存在でしかなかった。彼を救出したいとは露ほども思っておらず、ただ体裁の為だ。
怜王は武芸が不得手だ。危険が伴う戦の総大将など、彼には論外であり父に命じられた場合の最後で最悪の選択肢でしかなかった。
ところが軍神の化身が現れてから、雲行きが怪しくなった。皇帝だけでなく、皇宮全体が主戦派へと傾き始めてしまった。
謙王もどう軍神に取り入ったのか、気に入られた様子だ。
(武力など、時代遅れなのだ。知で勝ち支配する時代が来ているというのに)
軍神の存在は完全に誤算だった。
伝承のままの姿で、腕に覚えのある武官を次々と打ち負かし、民からも慕われる軍神。
怜王の胸の内に、暗い影がかかる。
(あの目が、嫌いだ。どこか我々の遥か先を見知ったような、あの目が――)
知の集約者は自分のはずだった。だが軍神は何かもっと次元の違う情報を持つ、異様な少年だった。
怜王にとっては、目の上のたんこぶでしかなかった。おまけに軍神が宴の最中に転んだせいで、謙王毒殺計画も失敗した。あれはたまたまなのか、わざと転んだのかは分からない。だが、軍神が何も指摘しないことが、余計に怜王の不安を煽り、癪に障った。
そもそも薬で弱り切った父が間もなく死に、皇位が転がり込んでくるのは明白だった。無理をして手柄を取る必要などない。だからこそ、和平派を気取っていた。
だが、のさばる羅国に釘を打ち込んでやりたいのも、本音だった。ことは光威国の威信に関わるからだ。
葛藤する怜王に追い討ちをかけるように、将軍は続ける。
「羅国は殿下が即位の準備で忙しくなるため、大軍を動かしたりはしないと甘く見ています。それを逆手に取るのです」
その提案に怜王は驚いたが、同時に素晴らしい方法だとも思った。
将軍は疲労困憊していた怜王の目に光が宿り、顔色が変わるのを見逃さなかった。
「ただし、大軍過ぎては怪しまれますので、軍勢は精鋭十万に絞ります」
「それほど絞って、勝ち目はあるのか?」
謙王救出のための和平を打ち砕くべく、その上に怜王が持ち上げかけた楔目がけて、将軍は大きな金槌を一気に振り下ろす。
「あります。――殿下は、自ら出陣なさる必要はありません。我らにお任せを」
怜王は降って湧いた素晴らしい展開に、口元を緩ませた。
「そなたも、なかなかに悪い男だな」
そう言いつつ、興奮に震える手で机上の木箱を開けた。
その中から、黄金で龍を象った兵符を取り出す。
「宇文将軍。兵符をそなたに授けよう。――羅国を討伐せよ。……謙王もろともに」
皇帝に代わり、軍を動かす権利を持つ兵符を受け取ると、将軍は跪いた。
「ご英断、感謝申し上げます」
この瞬間、将軍は自分が世紀の悪役になった気がした。罪悪感を覚え、微かに良心が痛む。
だが兵符を手に入れ、全軍を掌握するにはこれしかない。
顔を上げると怜王は残る茶を満足そうに飲んでいた。彼は見限られたのは自分の方だとは、全く気がついていなかった。




