彼の心
皇帝が倒れたその日。皇宮にいる者は皆、眠れぬ夜を迎えた。
皇帝は四頭の龍が彫られた支柱に支えられた寝台に横たわっていた。重苦しく古めかしい青銅の燭台の上で、灯された蝋燭の火がゆらゆらと揺れている。
皇帝を治療する太医も、最早できることがなくなり、床に跪いている。
混濁した意識の皇帝は、集まった宰相達が何を尋ねても、意味ある言葉を話さなかった。
寝台には近づかず、隣室から遠巻きに皇帝を見舞う宰相達をかき分け、将軍が皇帝のもとに駆けつける。その勢いが起こした風が蝋燭の火を揺すり、長く伸びた将軍の影も震わせる。
将軍は寝台の脇に膝をつき、皇帝を見上げた。
「陛下。禁軍の準備は既に万全です。どのようなご命令でも、喜んでお受け致します」
皇帝は要領をなさない呟きを漏らしながら、左手を上げた。震えているその手を、将軍が握る。その手は思いの外細く、骨張っていた。
その時、皇帝ははっきりと目を開け、何かを言おうとしたのか息を吸い込んだ。
すかさず怜王が割り込み、皇帝の手を取る。
「父上。何を仰りたいのですか? どうかお話し下さい」
将軍が場所を怜王に譲り、後ろへ下がると門下侍中が皇帝の枕元に寄った。
その直後。皇帝は突然、ガバリと上半身を起こした。
「もう朝か。朝儀に向かわねば」
それは驚くほどはっきりとした口調で、誰もが息を呑んだ。
室内は薄暗く、外は細い三日月が辛うじて輝きを見せるような、夜の闇の中にあった。だが皇帝の目には毎朝見つめたような、夜明けの白んだ室内の景色が映っていた。
皇帝になってから繰り返し迎えた目覚めの時間と同じように、今日の執務に精を出そうと体を起こし、――そしてふっつりと全身から力が抜けた。
誰かがすぐ傍で叫んだ気がした。自分を引き留めようとする声だ。
だが何と言われたのか、分かることはなかった。
皇帝の魂はもう、肉体を駆け去っていた。
太医が慌てて皇帝の手首と首筋に指を当て、脈を見る。そうして鎮痛な面持ちで怜王に向かって首を振った。
門下侍中は皇帝の枕元にいる怜王に向き直り、厳かに両手を組んでその場に膝をついた。
「皇帝陛下は御臨終の際、殿下を皇太子にとご指名なさいました」
遠巻きに集まっていた宰相がどよめく。少なくとも彼らには、聞こえなかったのだ。
それをものともせず、門下侍中は顔を上げて太医の視線を捉えた。
「一番近くにいた太医も、聞こえただろう? 陛下はこの場で後継者を選ばれた」
太医は狼狽のあまり視線が宙を彷徨いそうになるのを、懸命に堪えた。皇帝は何も言わなかった。
だがここで真実を語り、何になるのか。抵抗などしても、自分には何の得もないし、それどころか我が身を危険にさらすだけだ。
門下侍中と同じ姿勢をとり、頭を深く下げる。
「皇太子殿下、千歳、千歳、千々歳!」
怜王に向かって三唱し、床についた手が震えるのを必死に抑える。同調するように素早く膝をついた将軍が、太医の震える手を、後ろからじっと見ていた。
皇帝の死が伝わると、皇宮中が混乱に陥った。
父の葬儀の準備の為、夜遅くまで陣頭指揮を執った怜王は疲れ果てて自分の宮である上華宮に戻った。
そんな怜王を訪ねて彼の宮までやってきたのは、驃騎将軍の宇文弦月だった。
将軍は夜の闇を背負う上華宮の甍を見上げ、宮へと上がる階段の前でしばし立ち止まった。
深く深呼吸をする。
これから自分が怜王に提案する内容を知れば、自分に深く失望するであろう人物の顔が、まぶたの裏にちらついて仕方がない。
(初めて出会った時はただの胡散臭い少年だと思った――)
それでも良かった。昔から民に人気の高い伝説の軍神の名を、遠征の時に利用できれば構わない。
だがそんな考えも次第に変えられていった。
少年は謙虚と見せかけて、行動の端々が大胆で自由だった。
問い掛ければ、打てば響くように的確な考えを披露した。何事にも直球で当たり、直球で返すその姿に、いつしか将軍は興味津々になっていた。
流石は人ならざる存在――軍神だと思った。
だが賓客として滞在しているにもかかわらず、毎朝早くから馬の世話に尽力し、はにかんだ笑顔を軍神が見せた時、自分は武官として惹かれているのではないと気がついた。
その滑らかな手を握ると、陽だまりの中にいるように気持ちがとろけ、心地良かった。その手をいつまでも握っていたい、と無意識に思っている自分に気がついた時、将軍の全身を激震が走った。
自分は少年の手を握って浮かれているのか、と。
そしてあの元宵節の夜がきた。
屋台を回り、影絵芝居を見た。その万華鏡のようにくるくると良く変わる表情に、目が片時も離せなかった。
おどけたり、怒ったり、無邪気にはしゃいだり。祭りで初めて見せる表情や側面が、真っすぐに将軍の心の中に飛び込んできた。
そのせいで芝居にはちっとも集中できず、最後に主人公は異国に嫁いだ女と、どんな超展開が起きて都合よく結婚できたのかが、分からなかった。
軍神が灯籠を見上げて流したその澄んだ涙を見た時、肩を抱かずにはいられなかった。
その孤独を癒したいと思った。癒したいと思っている存在が、ここにいると知ってほしい、と。
この感情は、一体何なのか。
(私は、男色だったのか……?)
湧き起こる感情に、何度も首を傾げてしまう。
将軍はまだ妻帯者ではなかった為、皇宮の女達から人気があった。一夜の過ちでもいいと思うのか、寝室に忍び込まれたことも多い。
そんな状況に嫌気がさし、また彼女達が二度と同じことをしないよう、自分が男色だと偽りを教えたことは幾度かあった。だが、それは事実ではなく、実際には男を恋愛対象として見たことはない。それなのに。
「明様……」
その名を口にするだけで、胸いっぱいに愛しさが広がるなど、どうしてあり得るだろう。
そんな風に悩んでいた矢先。
将軍は自分の右腕を広げ、見下ろした。
(あの時。――後ろから拘束した体は、間違いなく女だった。あの宮女が男であるはずがない)
元宵節に共に出かけた翌日の夜。将軍の部屋に侵入した宮女は、確かに女だった。
あの時襦裙の裾がまくれ上がり、宮女の太腿まで足がはっきりと見えた。目蓋の裏に焼き付いた白い足は艶かしく、今思い出すだけでぞくりと唆られる。
なぜ、あの白い腿に手を這わせたい、触れることが出来ればどれほど甘美な気持ちで胸が満たされるだろうか、などと思ってしまうのだろう。
想像するだけで不甲斐なくも鼓動が速くなってしまう自分に、ただ恥じ入るしかない。
将軍は腰帯の隙間から、巾着を取り出した。
二羽の鳥が刺繍されたものだ。これは宮女が寝室に落としていったものであり、同時に将軍が軍神に買って贈ったものでもある。左側の鳥の嘴の刺繍が粗く、少々歪んだ形になっている点まで同じだ。
寝台の脇に転がるこの巾着を見た時、全ての疑問に答えが出された気がした。
――軍神は女だったのだ。
あの宮女のやけに濃い化粧を落とせば、おそらく衛明の顔と同じになるのではないか。
だがそう気づくと同時に、謙王に対して感じていた負の感情の正体に、気がついてしまった。
将軍は軍神に無条件に信頼されているらしき謙王に、嫉妬していた。
雪が積もった蝋梅の木の枝に手を伸ばし、その黄色い花に顔を寄せ、香りを楽しんで顔を綻ばせるその姿。
将軍はそれを殿舎の片隅で、胸が締め付けられるような心境で見つめていた。その蝋梅の花の香りを自分も確かめたい、そして枝から髪の上に跳ね落ちた雪片を、自分が払ってやりたい――そう思うのを、止められない。
この感情に気づきたくなかった。軍神として利用しにくくなるからだ。
すっかり騙されていた。
そもそも軍神はなぜ少年の振りなど、しているのか。
だが今はまだ、それを追及するつもりはない。羅国との関係にけりがついてからだ。
将軍は深い溜め息をついた。
自分が嫉妬で目が曇っていただけで、彼女は正しかったのだ。
驃騎将軍にまで上り詰められたのは、目をかけてくれた皇帝のお陰だ。
だが皇帝はこの世を去り、後に残された者達は光威国の行く末を考えなければならない。
「現状を打開するには、これしかない」
将軍は自分を奮い立たせる為に、呟いた。
再び巾着を仕舞い込むと、迷いを振り切り、確かな足取りで上華宮に入っていった。




