転がる命運
(謙王は、どこ? もう待ちくたびれて帰っちゃった?)
宮門を出ると、私は息を切らして謙王を探した。約束した時間には、かなり遅れた。彼は宮門を出た所で待っているはずなのに、姿がない。
人でごった返す大通りを往復し、懸命に探す。
駆け回り過ぎて喉が痛み、屋台で飲み物を買おうとするが、そこでまたしても失態に気づく。
財布にしていた巾着が、なくなっていた。腰帯の内側に挟んでいたのに、駆けずり回ってどこかで落としたらしい。
(将軍がわざわざ買ってくれた巾着なのに。申しわけなさ過ぎる……!)
肩を落としつつも、とにかく謙王だ。
だが結局その夜、私は謙王を見つけることができなかった。
翌日、万里の世話を終えて光極殿に足を運ぶと、外朝中の殿舎が大混乱に陥っていた。
書簡を手にした宮女達がひそひそと耳打ちし、文官達は各部署間をバタバタと走り回っている。
光極殿の周囲に詰める帯刀した武官の人数も、急に増えていた。
私はその中に瑞玲を見つけ、何事かと話しかけた。
瑞玲は神妙な表情で口を開いた。
「昨夜、門下侍中の屋敷に賊が侵入したようです。なんでも、ご令嬢の萌香様の寝室に入り、彼女を攫おうとしたとか」
そこまで話すと、瑞玲は周囲を窺い、声を落として続きを話した。
「今夜、皇帝陛下が萌香様と怜王のご婚約を認める予定だったのです。萌香様の証言によれば、犯人は謙王だったとか……」
「嘘、そんなはずは……」
「謙王がいつもとは違う地味な衣を纏い、人目を気にする様子で皇宮を出るところを、他にも目撃した者がいるのです」
血の気が引く。それは謙王が、私と待ち合わせをしていたからだ。
光極殿を駆け上がり、中に入ると丁度将軍と鉢合わせをした。
「将軍! どうなってるんですか? 謙王が人を攫おうとするなんて、あり得ません!」
そう訴えると途端に将軍は険しい顔つきになった。
「なぜ断言できますか? 謙王は陛下が萌香様を正式に怜王の婚約者だと公言するのを、妨害しようと目論んだのでしょう」
「だからって、あの謙王がご令嬢の寝室に忍び込むなんて!」
将軍は片眉を上げて、ぼそりと呟いた。
「人の寝室に勝手に押し入る輩は、意外と少なくないのですよ」
心臓が凍るかと思った。それは私じゃないけど、私だ……。咄嗟に将軍から目を逸らしてしまう。
――その通り、昨夜将軍の寝室に入り込んだ奴がここにいる。
置物のように硬まる私の肩に、将軍がそっと手を乗せた。
「以前より不思議に思っておりましたが、謙王の肩をやたらに持つ理由は、何なのです?」
それは、弱みを握られているから――。……いや、違う。
私が謙王の味方をしたいのは、彼自身には何も悪いところがないと思えるからだ。
飼い主に見向きもされない哀れな犬の世話をし、政治的な求心力を失い貶められてもなお、それに耐えて自分は弱者への善意を忘れない。
「謙王は善良な方です。これは彼を失脚させる為の策謀に違いありません」
すると将軍は私の肩にぐっと力を入れた。その手がとても重い。
「宜しいですか? 善良と無知は紙一重なのです。そして落とされたままま這い上がれないなら、皇太子となる資格はないのです」
将軍の手が離れ、彼が去っていっても私はその場をしばらく動けなかった。
その後私が謙王と会える機会はなかった。
謙王を手引きしたとされる門下侍中邸の下働きの男は、ろくに証言をしないまま獄中で首吊り自殺を遂げた。事件の鍵となる人物の死亡に、真相究明は困難を極めた。
証言以外の証拠はなく、嫌疑不十分とはいうものの、謙王は騒ぎの一端となった責任を取らされ、僻地である北砂州への左遷が決まってしまった。
北砂州は羅国に一番近い州で、到底安全とは言えない場所だ。潔白を主張する謙王が自ら志願したと言うが、ほとんど報復のような処分だ。
気の毒な謙王がついに北へと皇宮を去る日、私はようやく彼と再会することができた。
数人の従者だけを引き連れた身軽な彼を、見送る者はほとんどいなかった。
赴任地へ連れて行けない侍女や、懇意にしていたらしき数少ない官吏達が、宮門を出る謙王を見送った。
謙王は侍衛が並ぶ宮門の前で振り返り、私の手を取った。その眼差しには悲しみも昏さもなく、真摯さだけがあった。
「信じて下さい。約束を守れなかったのは、宮門の外で何者かに襲われたせいなのです。気づくと私は門下侍中邸の近くに放置されていました」
「勿論です。ただの一度も疑ったりしていません。私は殿下が無実だと、分かっています」
謙王は力なく微笑んだ。
「たった一人でも、貴女さえそう言ってくれるなら、私は満足です」
謙王は見送る者達に丁寧に頭を下げると、馬車に乗って皇宮を後にした。
――こんなのは、違う。謙王はこの結末に満足してはいけない。
遠ざかっていく馬車の後ろ姿に、私は唇を噛んだ。
私と約束をしたせいだ。
そのせいで無防備な時間ができた。もしくは私が待ち合わせ時間にちゃんと行っていれば、こんなことにはならなかったのだ。
何より、あの宴で不審な匙を私がちゃんと追及していれば。もう少し勇気があったなら。あの時、謙王を狙った黒幕までたどり着けたかもしれない。
私の保身が、その機会を潰したのだ。
雑踏に消えていく馬車を見つめながら、後悔し、自分を責めた。




