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大晦日の炊き出し

 私が光威国にきてから、はや二ヶ月が経とうとしていた。

 本格的な冬を迎え、雪が積もる日も増えた。皇宮の瑠璃色の屋根が真っ白に染まり、パチパチと火が爆ぜる火桶の前に座っても、吐く息が白く霞む日々が続く。


 この皇宮で私は馬の世話と禁軍の訓練見学と軍議に明け暮れ、気づけば「明様」と呼ばれることに慣れてきていた。

 訓練見学では天蓋付きのやたら華美な物見台が私の為に設えられ、そこに座るのは猛烈に恥ずかしかったが、いつしか何とも思わなくなっている自分がいた。――慣れって恐ろしい。

 皇宮は新年の準備を控え、忙しない雰囲気に包まれていた。





 大晦日になると、私は謙王に誘われて久々に皇宮の外に出た。

 振り返ってみれば、開京に来て以来これまでほとんど皇宮の中にいて、私は「皇宮」という巨大な家の中にある意味、引きこもっている状態だったかもしれない。

 きっかけはほんの些細なことだった。

 謙王は毎年宮門の脇で、貧民を対象に炊き出しを行っているのだという。作業には宮女や下級官吏達も駆り出されるのだが、毎年予算が縮小され、人手不足で困っていると謙王が私に愚痴を漏らしたのだ。


「それなら手伝いますよ。大晦日は訓練もなくて暇なので」


 軽い気持ちで私がそう言うと、謙王はとても喜んでくれた。

 仮設の炊き出し所には、木の机が何列も並べられ、食料と食器が積まれた。

 ずらりと並んだ竃に火がくべられ、もくもくと湯気が上がる。

 謙王は女官達と手分けをして、そこで民に粥や汁物、油條(あげパン)を配った。

 施しを受けようと集まってくる民は引きも切らず、この冬の冷たい石畳の上で、裸足で列に並ぶ者達も多かった。

 ふと顔を上げると、健康そうで明らかに貧民ではない人々も炊き出し所の周囲に集まり、ごった返している。列に並ぶでもなく、ただ物珍しそうにこちらを観察しているではないか。

 不審に思って、隣にいる謙王に聞いてみる。


「あの人達は何でしょう。炊き出しを見に来てるんでしょうか?」


 謙王が作業の手を止め、思わせぶりな視線をこちらに向ける。


「貴女に気づいたから、軍神を見に来てるんですよ。再開した孤児院や治療院を全て『衛明』と冠した名称に変えましたので、明様の評判は開京で鰻上りになっています」

「い、いつの間にそんなことに……」


 なんてことだ。正直、あの寄付はみんなの為の善意からというより、自分の為にしたようなものなのに。評判が一人歩きしているなんて。

 思わず自分の袖を見下ろす。


「こ、これからは、なるべくこんな目立つ真紅の(ほう)は着ないようにします……」


 そう言うと、謙王は楽しげに声を立てて笑った。


 少ない人数で回すので、私達は休む間なく動いた。

 粥や汁物を配り、足りなくなるとまた新たに作る。

 謙王は湯気が立ち昇る大鍋の中の豆乳を、木べらでかき混ぜながら言った。


「父上は民が飢えぬよう、最善を尽くしてらっしゃいますが、残念ながら貧者は少なくありません。特に今年は国境からの避難民が目立ちます。大晦日くらいは、皆に貧しい思いをしてほしくありません」

「殿下が自ら調理されていることに、驚きます」


 木べらから手を離し、机の上にずらりと並べた丼の底に黒酢を適量ずつ垂らしていきながら、謙王は答えた。


「我々が民の暮らしを気にかけている、と伝える為です。施しを高みから見物していては、彼らの怒りを却って買うだけです」


 なるほど、と感心してしまう。

 謙王は沸騰寸前まで温めた豆乳を、柄杓(ひしゃく)で次々と丼に入れた。すると豆乳が朧豆腐のように、固まっていく。


「面白い! 豆乳がお酢で凝固するんですね!」

「はい。癖がなくて食べやすく、腹持ちも良いんですよ」


 謙王が説明をしてくれながら、丼から離れて立ち位置を宮女と変わる。

 宮女は乾煎りした小海老を、丼の上に乗せていった。湯気に乗って、海老の香ばしい香りが広がる。

 私が手伝えるのは実に単純な作業で、みじん切りにした搾菜(ザーサイ)を、最後に豆乳の上に飾ることくらいだった。それでも役に立ったと思ってもらえるよう、なるべく素早く切って盛り付けていく。

 こうして完成した豆乳の汁物は、手際よく動く宮女の手で貧民に渡された。

 人々は何度も礼を言いながら食料を受け取り、すぐにその場で食べ始めた。寒空の下、汁物から上がる湯気ごしに見えるその顔は、実に嬉しそうだ。

 その姿を見て、謙王もまた満足げに何度も頷いていた。


「実はこの炊き出しは、私の母が皇后時代に始めたのです」


 木樽いっぱいの豆乳が大鍋に注がれ、再び謙王がかき混ぜ出す。


「私は十五歳まで、母をここで手伝いました」


 十六歳からはどうしたのか、という質問はできなかった。彼の母はおそらくその頃に亡くなったのだろうと気づいてしまったからだ。私が何も言えずにいると、謙王は悲しげな表情で教えてくれた。

 謙王の母は、彼が子どもの頃にはすっかり皇帝の寵愛を失っていた。皇帝は彼の母に飽き、新たに別の妃に夢中になっていた。怜王の生母だ。そうして皇帝が、怜王の母を皇后に立てたのだ。謙王の母は貴妃へと位を落とされて亡くなった。


「私を取り巻く世界は、その頃を境に変わったのです」


 急に官吏達は素っ気なくなり、謙王の住んでいる宮で働く者達は希望してこぞって他の宮へ移った。間もなく婚約者であった萌香までもが謙王を捨てると、完全に潮目が変わった。

 謙王が住んでいる宮には、誰も挨拶に来なくなったのだという。


「この炊き出しを続けることは、母との約束でもあるのです」


 豆乳を混ぜながら、少し誇らしげにそう言う謙王を見て、切なくなってしまう。彼自身は変わらないのに、彼の周りは態度を変えたのだ。

 それはどこか、報われない誠意にも思えた。


(あなたは、このままでいいの?)


 心の中で謙王に、何度もそう問いかけてしまった。

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