将軍、私に挑む
逃げられないなら、軍神(偽)をやる以外に道はない。
そしてエセ軍神になり切るには、乗馬ができなければお話にならない。
私はこの光威国で与えられた職業:「軍神の衛明様」を曲がりなりにも真剣に勤め上げる為に、従順にも翌朝から毎朝日の出前に起床し、朝食前にせっせと一人で万里の世話をした。
最初の数日は全身が悲鳴を上げ、足の指の筋まで痛んだ。だが続けるうちに痛みはなくなり、やがて長時間訓練をした後も、前ほどの疲労を感じなくなった。
体力がついたということだろう。
万里は万里で、毎日話しかけながらお世話をしてあげるうちに、私がそばに寄っても嫌がる素振りを見せなくなった。それどころか、鼻を寄せ甘えた仕草を見せるようになり、次第に私も愛着が湧くようになった。
将軍はといえば、自他共に認める非道教官だった。
将軍の考えでは、馬上では一時たりとも気を抜いてはいけないらしく、数秒でもぼんやりしていると「振り落とされたいのですか」と私が乗る万里の尻を蹴ってきた。
お陰で何度か本当に落馬しそうになった。
恐ろしい教官だ。
そしてその後で将軍は平然と言うのだ。一度でも落とせることを学ぶと、馬はその人間を以後も振り落とそうと躍起になる、と。
「ですから万里の主人でありたいのなら、決して落馬してはなりません」
どの口が言うのか、と思った。
そんな生活を半月ほど続け、疲労困憊していたある日。
いつものように早朝に万里の馬糞の掃除をしていると、終わる頃に珍らしく将軍が大厩舎にやってきた。彼は厩舎に入るなり、真っ直ぐに愛馬の黒風のもとまでやってきた。
黒風の鼻面を撫でようと手を伸ばした将軍はそこでようやく、万里の陰に立つ私を見つけた。虚を突かれたように黒風の前で固まる。
私は飼い葉を掃除していた熊手を止め、声をかけた。
「おはようございます。将軍もまさか今朝はお掃除に来たので?」
「いえ、違います……」
将軍の視線が私の手の中の熊手に落ち、再び私の顔に戻される。
「――もしや、明様はあの日から毎朝これを?」
「はい。お陰様で、万里もだいぶ私に懐いてきています。頑張りました!」
将軍は言葉なく、純粋に面食らった様子で私を見つめた。まるで何か物凄く予想外なものでも見るみたいに。
(そんなに改めて観察されると、緊張するじゃないの……)
汚れないよう、紐で縛っていた袴の裾を解き、全身についた飼い葉を両手で粗く払う。
将軍はまだ厩舎の真ん中に突っ立っていた。
「……正直なところ、本当に厩舎掃除をなさるとは、思っておりませんでした――大変だったのではありませんか?」
どうやらこの将軍、私が毎朝律儀に馬の世話をしていたことは、全く知らなかったらしい。やれと遠回しに言ったのはあなたじゃないの、と言いそうになるのを何とかこらえる。
「ご期待に添えるよう、頑張ったんです」
将軍は素直に私が従うと思っていなかったのか、驚きを隠せない様子で目を瞬いていた。
やがて彼はさっと手を組み低頭した。
「身に余る光栄にございます。――軍神の明様がこのような雑務をされるなど。この弦月、心を打たれました。正直に申し上げますと、明様を少々誤解しておりました」
「誤解、と言いますと?」
「――明様は皇宮にいらっしゃるのを渋られたご様子でしたので、本当は羅国と戦う気はないのではないかと。もしや意に反して召喚されたのかと。そう疑っておりました。ですがこのような地道で辛い作業を、毎朝乗馬の為になさっていたとは」
(完全に、見抜かれてた――⁉ まずいな……)
「いや、乗れないと困りますから、私も必死です。それにせっかく、天下の驃騎将軍が御自ら教えて下さっているんですから!」
見抜かれていた上に頭を下げられて困惑し、ちょっと持ち上げてみせると、意外にも将軍はややはにかむような笑みを見せた。この将軍にも、ほんの少しは謙虚なところがあるらしい。ちょっと可愛い……いや、可愛くない。
将軍は一歩私に近づくと、こちらに手を伸ばしてふっと笑った。
「お髪に飼い葉が。お取り致します」
どうやら私の頭に飼い葉が絡み付いているようだ。
至近距離に迫った将軍の顔を見上げる。
いつも磨き上げた刀身のように緊迫感を醸し出している将軍が、私の健気な行動とヨイショをしたお陰か、今日はやや寛いだ表情だ。
将軍は私の頭巾の隙間から長い飼い葉を引き抜くと、差し出して私に見せた。
「ありがとうございます! お手数おかけしました」
笑顔で礼を言うと、近距離で目が合う。
近過ぎたのか、将軍の頬が微かに朱色に染まる。彼はぎこちなく笑みを返してくれた後、手の中の飼い葉をなぜか無意味に自分の指に絡め、何歩か後ずさった。
「――明様は時折、とても中性的に見えますね。化身なのに不思議です」
ぎくりと動揺してしまう。エセ軍神だと気づかれただろうか。
真意を測りかねて黙っていると、将軍は続けた。
「いや、寧ろ化身だからでしょうか。貴方様は妙に惹きつけるものをお持ちです」
大真面目にそう言われ、返答に窮していると将軍は「おかしなことを言ってしまった」と独りごちながら頭を掻き、私に背を向ける。彼は黒風の首を撫でて言った。
「そうだ、お前に乗りに来たのだったな」
私は将軍の隣に立つと、黒風が鼻面を載せている木の柵に寄り掛かって彼を見上げた。
まじまじと見上げれば、馬糞臭い風に吹かれていようが、その非凡な美貌は見応えがあった。軍神の化身を演じている私などよりよほど、神仙の域に達していると思う。
ふと噂の真偽を確かめたくなった。
「噂話で聞いたのですが、将軍は海や砂漠で遭難したり、断崖から落ちても生還されたというのは、本当ですか?」
将軍は黒風の方に視線を向けたまま、顔だけこちらを向けて答えた。
「大したことではありません。海では偶然島に泳ぎ着き、砂漠では水脈を掘り当てたに過ぎません。崖では途中の木の根に引っ掛かり、一晩かけて崖をよじ登っただけです。ただの強運の持ち主です」
「じゅうぶん、不死身ですよ」
すると将軍はいくらか照れ臭そうな視線を私に向けた。
「それでも明様の剣技には、破れましたが」
「あれは、剣技なんかじゃなくて私が怪力なんですよ」
「怪力? まさか、その細腕で?」
「ええ。本気を出すと、このひょろ細くて頼りない腕が、怪力になります」
廟で将軍に言われた言葉を返しつつ、どうだとばかりに右腕を曲げて拳を握ってみせる。
「それは興味深い。――ではひとつ、また手合わせ願えますか?」
将軍はにやりと笑うと、柵の下の木箱を指差した。馬の背に乗る時に使うものだ。
将軍は木箱を私の前までずるずると引き摺った。そのまま箱の前に座り、右袖を捲って肘を箱に乗せる。
(……まさか、腕相撲?)
突拍子もない提案に面食らう。将軍は自信に溢れた笑みを浮かべた。
「その腕の細さに負ける気は致しません。もし、万が一私が負けましたら、この刀飾りを差し上げましょう」
将軍は腰に下げた自分の刀の柄先から、瑠璃色の装飾品を外して木箱の隅に置いた。
手に持つとそれは空気のように軽く柔らかく、ふわふわと揺れる。羽の組紐のようだ。七色の光沢を持つその色からすると、孔雀の羽だろうか。
この光威国に来て半月。他の兵達がこのような物を持っているのは、見たことがない。
「羅国の西にある、烏楼国のものです。羅国より小さい騎馬民族国家なのですが、そこの将校が身につけるもので、滅多に手に入りませんよ。――以前衝突した際に、烏楼兵が落としたのです」
「それでは私が負けたら、一回だけ私の万里に乗せてあげます」
「俄然、やる気が出て参りました」
会話の内容が理解できたのか、近くにいる黒風が怒ったように鼻を鳴らす。
私達は木箱を挟んで向かい合って座ると、互いに右肘を乗せて構えた。
しっかりと腰を落ち着け、力を発揮できる姿勢を取ると互いの手を組む。
顔を上げると、将軍は負けなど微塵も考えていなさそうな、余裕の笑みを披露している。
私達の手の大きさが違い過ぎて、まるで子どもと大人のようではあるが、私を侮っていられるのは、ここまでだ。
雷痕を持つ私の右腕は怪力になっていて、本気を出せばきっと負けない。
(でもおかしいな。……痺れが来ない)
三、二、一と将軍の号令が始まっても、右腕には何の変化も起きない。こんなはずじゃないのに。
「痛っ!」
私の右腕は何が起こったのか分からないうちに、文字通りあっという間に倒されていた。木箱の表面に打ちつけられた手の甲が、ジンジンと痛む。
将軍が苦笑する。
「もう一度、お願いします!」
両眉を跳ね上げて将軍は要求に応じてくれた。手を組み直し、少しずるをして飛び出し気味に右手で将軍の手を押し始める。
掌から肘まで、全部の筋肉を使って力を込める。
「今度こそ、負けません」
だがまたしても、雷痕はうんともすんとも言わない。先日の手合わせの時のような奇跡が起きない。
必死に力を入れて懸命に倒そうとしていると、ふと将軍が愉快そうに私を見ていることに気がつく。
こちらは全力でやっているのに、将軍は空いた左手でやや手持ち無沙汰そうに自分の頬に落ちた後毛を払っている。
しばらく膠着状態が続いた頃、将軍はおもむろに言った。
「――明様。まさか本気を出されているのですか?……これで?」
自分の顔が一気に熱を持ち、赤くなったのを感じる。将軍はその様子に更に面白くなったのか、喉を鳴らして笑った。
(く、悔しい……!)
なんとしても負けたくない私は、勝手に左手を自分の右手の甲にかけ、両手で対抗し始めた。腰を浮かせ体重をかけ、全力で将軍の手を押すが、びくともしない。
どんなに押しても、私達の手は、木箱にほぼ垂直に立ったまま。
将軍はいまや身体を揺らして笑っているという、力を込めにくい状態なのに、歯が立たない。
「万里に乗らせて頂くのが、楽しみです」
不機嫌に足踏みする黒風をよそに、将軍は徐々に力を入れ始めた。私の手が右側に押されていく。その力に、私の右腕の関節が軋む。
(負けちゃう、負ける――!)
四十五度ほど傾くと、後はもう僅かも抵抗できなかった。びたんと右手の甲が木箱の上に押しつけられると、私は敗北を認めて脱力した。
私が肩を上下させて粗い息を吐いている一方、将軍の方は僅かな乱れもない。私が悔しがる様子を、さも楽しそうに見つめている。
滅茶苦茶悔しい。
おかしい。右手が怪力になったんじゃ、なかったのだろうか。やっぱり白雷刀が、怪刀なのか。――いや、妖刀か。
腰に下げた白雷刀を、改めて見つめる。この実験で私は一つの結論に達した。
この刀が凄腕にするのは私だけで、そしてこの刀がないと私は凄腕になれない。
――身を守る為には、今や白雷刀を絶対に手放せない。
「刀を振るわれた時とは、まるで別人のようでしたよ、明様」
将軍が笑う。悔しいので手を引っ込めたいのだが、将軍はまだ私の手を握っていて離さない。
少し引いてみると、ぎゅっと逆に力を入れて握り返されるので、全く抜けない。
私は戸惑うものの、将軍はただ単純に、楽しそうにしている。
「あの、将軍……」
「なんでしょう?」
「その、手を離して下さい。ちょっと痛くて」
将軍の黒い目がはっと見開かれる。そしてまるで今まで私の手を握ったままだったとまるで気づいていなかったかのように、急に手を開いて引いた。
「申しわけありません」
急に立ち上がり、私から遠ざかるように後ずさる。忘れそうなので、慌てて木箱の上の羽の装飾品を取って、将軍に近づく。
「大事なものをお忘れですよ、将軍」
つけて返そうと正面に立ち、屈んで将軍の腰元の刀に手を伸ばすと、将軍は私の手が柄に触れた途端、弾かれたように身を引いた。
どうしたのかとそのまま見上げると、将軍はなぜか耳まで顔を赤くしていた。
「もういいのです。差し上げますから。――失礼致します」
そう言うなり将軍は踵を返し、逃げるように厩舎から出て行った。私が負けたのに。
よく分からない男だ。