那賀郡誌より
今回はしばらくアヂは登場しませんが、どうぞ最後までお付き合いください。わりと画期的な結論になっています。
神代の昔、石見國はし浦(當時地名ありしにあらず)に漂ひ着ける一つのはこぶねあり。端なくもそこに住む翁の目にとまれり。
板を木釘もて縫合わて造れる今日の朝鮮の小舟に似たるものにて、眞の箱にはあらざるを、獨木舟、刳舟を見なれし者の、はこぶねとはいひけん。
あやしみて、妻なる媼を呼びて共に見れば、年の頃六つ七つ許りなる童女の顔美しく姿みやびにおはすが唯ひとり乘り給ひて、中には柏の葉二つ三つ散れる外何物もなし。いづこの如何なる御方にて何しに
來たまひつると問ふに、何事も語りたまはで、東の方を指したまふ。翁、こは出雲の大神須佐雄尊の御裔にして、濱邊にて乘遊び居たまひけるが、海中にすり出でて、漂ひましけん。さるにても、面やつれもせで、我浦に著きまししぞ幸なるといへば、媼、我等年老いて子無ければ、子になり給はんとにやあらんといへば、翁、美しくも云ひけるかな。さらば、まこと、我等の子になりたまふやと姫に問へば、うなづきたまふ。翁媼躍りあがりて喜び、手を取りて家に連れ歸り、いたはりかしづくこと限りなし。
翁媼の箸は、使はるる限改めざりしに、姫には、篠の心にて食事毎に新しきを作りて上れりといふ例にてもそのまめなる心は知らるべし。
あたりの者傳へ聞きて、參り拜み、遂にわれ等が神とあがめかしつき奉る。
姫が、しのをすのといひたまひければ、此のあたり、篠原篠つく雨など、常にはしのといへど、短く切りたるをば今にすのといふなり。
又姫が我をあといひませるにより、此のあたりの者皆あといひけり、今も其風都濃津の脇に殘れりと、いふを見て、あがめの程も知らる。
月日かさなりて、姫のねびたまふにつれ、益々美しく高貴に、淑雅なるが中にも、弓矢の心がけさへおはしてげに雞の群の鶴の如く、誰が目にも、凡庸の種ならずと認めらる。翁媼は姫が故郷戀し父母慕しの心起しまさんを恐れて、何事をも問はず。姫も亦いかゞ思はれけむ、たまたま御父母の御名、こゝに來ましゝわけなど、問ひまつる人ありとも、口をつぐみて語り給はず。翁媼を親とし此浦に生れるつる如くくらし玉ひけり。唯、夜毎に起き出でて出雲の方を眺めますぞ怪しき。問ひまつれば、尿しげきが我病なりと答へ給ふ。
かくて姫が十三になります極月の夜中、出雲の岬に方りて、火盛に燃えて天を焦しければ、姫、翁媼にむかひ、彼の火のあがるは、故國に寇の來れる知らせなれば、急ぎ歸らずばあるべからず、あれ小くて此處に來り、年頃養ひ育てられつるを、今にはかに別るゝことの悲しくて、と打ちしをれてのたまふ。翁媼とりすがりて、我等年老いて樂しく長らへつること、全く姫の居ませばなり、今姫に棄てられ何かせん。見ませ屋の裏にさせる箸のしげきを、皆姫の使ひめせるにて、生まれましし故郷にもまさりて長く住みましけるなり。又故郷には男女數多くおはすべし。姫ひとり居たまずとも何かあらん、と泣く泣く引き止むれば、姫も常のけなげなるに似ずただ泣き伏したまふ。かくて、あるべきならねば姫は、翁媼のまどろみし間に、ひそかに家をしのび出でたまひ夜まだ明けぬ東雲のそらを望みて、出雲は彼方よと急ぎたまふ。翁媼覺めて、姫の居まさぬに驚き、あとを慕ひ、濱道傳ひに追行きけるに、姫は、とある椎の木の森の奥の山道を通り、大河を渡り、小川を沿ひて走りましましければ遂に追付かず。
今其椎の木の在りし邊をかくしといふ。
翁は、媼に先んじて、辛くもあさりの浦迄來りしが力盡きて、はかなくなりけり。媼追い及びで其様を見、屍にすがりてまた死にき。
白鷺大明神とて十二月十五日に祭とぞ。
姫は、出雲に歸りて長濱に寇を防ぎましき。現にはしに早脚神社として祭れる胸鉏比賣命これなり。
出雲の國の妙見これなりと傳ふるも、同じかるべし。なほ、式内津門神社の條に述ぶることあらん。
懐橘談に、一女神石見國橋の浦に流れよらせ給ひしを、今の日の御﨑と崇め奉ると申傳へ侍ると須佐の年老いたる祠官が語りける旨記せるは異傳なれど關係はあるべし。
那賀郡は、だいたい現在の島根県浜田市と江津市の江の川下流域を併せた地域で、『那賀郡誌』は、その地域の地理や歴史の話を集めて、大正5年(1916年)に刊行された地誌です。
この言い伝えでは、胸鉏比売は須佐之男の娘らしい、という推測だけですが、最後に言及した『懐橘談』(前編1653年、後編1661年)には、須佐之男の長女を柏の葉に包んで川に流した、と記されています。
一方、謡曲「御崎」では、須佐之男と龍王の娘との間に生まれた三女を柏の葉に包んで海に流した、としています。
名前は玉姫となっていて、天竺にある月支国の片隅が欠けて海に漂ったのが出雲に流れ着いたのを取り返そうと攻めてきたので、老夫婦に育てられた玉姫が十羅刹女に転じて撃退したというのが話の筋です。
龍王、天竺、十羅刹女と仏教関係が日本の神話に出てきて、中世の神仏習合が進む傾向が見て取れます。
同じく中世に書かれた『花山院耕雲筆日御碕社修造勧進状』(1420年、日御碕神社を修復するために花山院耕雲が寄付を募った書状)には、月支国が故地を取り戻そうと攻めてきたのを日御碕の神が撃退したという話が語られます。
その裏付けとして、日御碕神社の社伝では、新羅の土地を引っ張って出雲の一部にした後、それを取り戻そうと月支国が攻めてきたので、天之葺根命の十一世の孫の明速祇命が応戦し、須佐之男も天から大風を吹かせて、敵を撃退したとなっています。
天之葺根は『紀』で素戔嗚の五世の孫とされ、素戔嗚が八岐大蛇を退治して得た草薙剣を天に献上する役を担っています。
日御碕神社宮司の小野家は天之葺根を祖としていて、この話は氏族の由来譚と見なす事ができます。
その他、江戸時代の地誌や石見神楽など、この話を題材にしたものが多く見て取れますが、だいたい上記の3種類が元になったと言えるでしょう。
このうち、日御碕社伝は、丹塗り矢伝説といった氏族の由来譚から分かるように、本来の神話を都合良く改変したと見当が付けられます。
社伝から謡曲「御崎」が作られたとする説がありますが、ほとんどの謡曲が伝説や説話をあまり変えずに題材にしている事から、社伝と「御崎」の差は結構大きいので、直接元にしたとは考えにくいです。
例えば、前回言及した一言主は謡曲「葛城」に登場しますが、その内容は『記』『紀』『続日本紀』の話とは掛け離れていて、これらに影響された『日本霊異記』(822年)の説話に着想を得ていると分かります。
つまり、元の神話(流された姫が老夫婦に育てられ、土地を取り戻そうとする敵を撃退する)をAとすると、『那賀郡誌』説話は姫を育てる部分に重点を置いているのと近世を経て洗練された形になっているのでA1’’ 、謡曲「御崎」は神仏習合化しているのでA’、日御碕社伝は登場人物が入れ替わっているのと敵を撃退する部分に重点を置いているのでB2’と判断する事ができます。
ところで、胸鉏比売や玉姫は須佐之男の娘としている事から、江戸時代の地誌『石見八重葎』(1817年)に「田心比売」と書いているように、宗像の女神と同一視されています。
田心比売すなわち『紀』の田心姫は、『記』の多紀理毘売命で、アヂの母親です。
また、日御碕神社文書の注釈に「童女胸鋤命、宗像三女神の別称」とあり、童女胸鋤命は胸鉏比売を指していると見て良いでしょう。
この「童女胸鋤」は、日御碕社伝にも少し触れられている『出雲記』の国引き神話に関連していると思われます。
八束水臣津野命が志羅紀の三埼など4ヶ所を持ってきて出雲の土地に足したという伝説ですが、その作業の過程に登場します。
童女胸鉏取取而
大魚之支太衝別而
波多須須支穂振別而
三身之綱打挂而
*多くは「所」としていますが、4回繰り返される当フレーズのうち2回が白井文庫では「取」と書いているのと、大国主の尊称に「五百津鉏鉏猶所取取而所造天下大穴持」とある事から「取」としました。
(このフレーズの後は、「霜黒葛闇耶闇耶」などと切り取った土地を引っ張って持ってくる描写が続きます)
上記の4フレーズはそれぞれ「掛詞」+「動詞」となっていると見られます。
一番分かりやすいのは「波多須須支穂振別而」で、「波多須須支」とは「はたすすき」と読み、「穂が開いて風になびいている旗ような状態の薄」を意味して、「穂振別」の「ほふりわける」=「屠り分ける」という動詞に掛かっています。
「屠る」は「切ってバラバラにする」という事で、すでに『紀』に「屠」の字は使われていますが、ここでは「はたすすき」が掛詞だと気づけるように、わざわざ「穂振別」と書いていると判断できます。
つまり、「穂が分かれた旗薄のように切り離して」という現代語訳になります。
次の「三身之綱打挂而」の「三身之綱」は、『紀』大化元年(645年)に「日本と百済と任那を3つ捻り合わせた綱のように固く結びつける」という意味で使っている「譬如三絞之綱」が思い起こされます。
(ちなみに、『出雲記』執筆時(733年)には任那も百済も滅亡し新羅が半島を統一しています)
現代の「三本の矢」のような慣用句で、「国々の強固な結束」を表すものだったのかもしれません。
「身」と「絞」の違いは、「括る物に重点を置いた」か「括る行為に重点を置いた」かの差だと思われます。
つまり、「3つの国を綱で括ったように引っ掛けて」という現代語訳になります。
「引っ掛けた」物は、この後に出てくる「霜黒葛」です。
そして「大魚之支太衝別而」の「支太」は「きだ」と読み、「魚の鰓」の事で、漁師が大きな魚の鰓を銛で刺す様子を「衝別」の掛詞にしています。
つまり、「漁師が大魚の鰓を銛で刺すように突き分けて」という現代語訳になります。
問題は「童女胸鉏取取而」で、通説の「童女胸鉏所取而」では「童女の胸のような鉏を手に取って」などと解釈されていますが、「童女の胸のような」という形容が何を意味しているのか具体的に分からず、また「鉏」が「取る」の目的語になっているので漢文として不自然に感じます。
(『出雲記』では、日本語の語順に合わせて「目的語」+「述語」という文も見られますが、この箇所は「述語」+「目的語」の正統な漢文で記しているようです)
また、他フレーズの「掛詞」+「動詞」という一連の流れから、「『童女胸鉏』のように『取取』して」と訳するのが自然でしょう。
そこでまず、「鉏」を考察してみます。
「鉏」は、農作業に使う「鋤」(土に突き刺して掘り起こすスコップ状の道具)としている場合が多いですが、この4フレーズは土地を持ってくる作業の過程を表しているようなので、「突き分けて→切り離して→(葛を)引っ掛けて」の前段階に当たる動作を考える必要があり、「土を掘り起こす」という動作は適切ではない気がします。
そこで思い及ぶのが「鉏」のもう1つの意味で、「刀」や「小刀」を指す場合です。
『紀』に「多智奈羅麼 句禮能摩差比(太刀ならば呉の真鉏)」という歌謡の一節や、『記』の海幸彦山幸彦伝説で「解所佩之紐小刀、著其頸而返。故其一尋和邇者、於今謂佐比持神也(山幸彦が小刀を贈った和邇(鮫のこと)を鉏持神と呼んでいる)」とあるように「鉏」を「さい」と音読みしていますが、「鋤」の意味でも『播磨風土記』に「作佐比、祭於此岡(鉏を作り、この岡に祭る)」とあるように音読みしているので、「刀」の意味でも「すき」と読んだという可能性は高いと言えます。
次に「胸」ですが、「胸鉏比売」が宗像の女神とされている事から、「宗像」と関係があるように思います。
「宗像」は元は「胸形」「胸肩」と書き、『魏志倭人伝』の「男子は大小と無く、皆黥面文身す」にある「黥面文身」=「入れ墨」と同じ意味とする説が有力です。
入れ墨をするには皮膚に傷を付ける必要がありますが、その時に使ったのが「小刀」すなわち「鉏」ではないでしょうか。
『魏志倭人伝』には弥生時代の入れ墨をした男性の事しか書かれていないものの、縄文時代の土偶や、近年まで入れ墨の風習を残していた琉球やアイヌの例を鑑みると、女性も入れ墨をしていたと考えるのが自然だと思われます。
また、琉球では入れ墨を「針突」と呼び、肌を傷付ける道具の竹針を名称に使っていたので、「胸鉏」も「胸の入れ墨」を指したのかもしれません。
さらに、「取」は「手に取る」ではなくて、「取り分ける」などで使われる「自分のものにする」という意味で使われていると考えて、切り取る位置の目印を土地に付ける作業を表していると推察します。
つまり、「童女胸鉏取取而」は「乙女の胸に小刀で入れ墨をするように印を付けて」という現代語訳になります。
以上のように考えると、この4フレーズは「土地に目印を付けて→突き分けて→切り離して→(葛を)引っ掛けて」というふうに、土地を引っ張ってくる準備を整えている様子が窺えます。
中でも「入れ墨」や「魚を銛で突く」は特に、海の民の影響が感じられます。
さて、入れ墨をするには皮膚に傷を付ける小刀や鑿などが必要ですが、縄文以前の金属がない頃はどうしていたのでしょうか?
前述の通り、琉球では竹で作った竹針を使う一方、アイヌでは黒曜石のナイフを使っていました。
(ちなみに、染料は、詩人でアイヌ文化研究家である更科源蔵の『アイヌの民俗(上)』(1982年)によると、白樺の皮などの植物を炊いた煙が鍋の底に付いた油煙墨を使ったそうです)
北海道史研究で有名な河野常吉が記した「アイヌの古代風俗の研究に就て」(1915年)では、砕いた黒曜石で作った刃物を入れ墨に使っていて、その黒曜石を「アジ」と呼んでいるという『蝦夷島奇観』(秦檍磨著、1800年)の記述を引用しています。
また、それに続いて、イギリス人でアイヌ研究家のジョン・バチェラーが、「黒曜石の傷」を意味する「アンチピリ」という入れ墨の古語を発見したと紹介しています。
「ピリ(pir)」が「傷」を表すので、「黒曜石」は「アンチ」という訳です。
つまり、アイヌ語では「黒曜石」の事を「アジ」または「アンチ」と呼んでいた事が分かります。
元禄時代には「ジ」と「ヂ」の発音の区別が消滅していた事や、バチェラーが「アンチ」と聞き取った事から、「黒曜石」のアイヌ語の正式な言葉は「アンヂ」と思われます。
このうち、「ン」は秦檍磨にはほとんど聞こえなかったようなので、「アヂ」としても良い気がします。
ここでようやくたどり着きましたが、総括すると、阿遅須枳神は、「アヂ」=黒曜石、「スキ」=「小刀」で、「黒曜石の小刀の神」だったと考えられます。
神々との関係は、大国主よりもむしろ須佐之男や宗像三女神のほうに近く、海洋民族が信仰した神だったのでしょう。
『魏志倭人伝』には、魔除けのために入れ墨をして海に潜って漁をする倭人の事を記していますが、まさしく、彼らが阿遅鉏神を信仰する民だと思います。
その後、神武の皇后となる伊須気余理比売が大久米命の目の辺りに施された入れ墨を見て不審がったという『記』の記述でも分かる通り、入れ墨の風習は廃れていき、黒曜石も弥生中期から入って来た鉄器によって忘れられていき、『記』『紀』の頃には、すっかり「アヂ」の意味が分からなくなったのではないでしょうか。
前回までの文献検証で、阿遅須枳神の本来の説話と見定めたものは以下の3つでした。
1.『記』『紀』の喪山伝説
2.『出雲記』の泣き虫伝説
3.『出雲記』の島巡り伝説
まず、『出雲記』の泣き虫伝説から考察すると、入れ墨にまつわる話が思い浮かびます。
いくら魔除けのためとは言え、入れ墨をするには相当痛いので、我慢して涙がにじんだり、うめき声を上げたりする事があったと推察できます。
それが、阿遅須枳神の、いつも泣いている話に繋がっているのかもしれません。
また、『出雲記』の島巡り伝説は、海洋民族の日常生活のような気がします。
『記』『紀』の喪山伝説では、阿遅須枳神は大量(=大葉刈、または、神度剣=神戸剣)という太刀を持っていました。
阿遅須枳神は「石の刀の神」という性格から、黒曜石が鉄に取って代わられた後も生き延びて、今度は「鉄の刀の神」になり、喪屋を切り飛ばして喪山にするという話が作られたのでしょう。
日本における良質な黒曜石の産地はいくつかありますが、その中の1つが隠岐です。
現在、福岡県沖の沖ノ島などに祀られている宗像三女神の原型は、隠岐で祀られていたと考えます。
『記』『紀』には隠岐の三つ子島として登場しますし、隠岐の島後は「沖の島」と呼ばれていたそうです。
宗像三女神に関係が深い阿遅須枳神も、山陰の海の民の神だったのではないでしょうか。
さらに、黒曜石と同等、もしくはそれ以上の価値があったとされる「下呂石」は、その名の通り、岐阜県下呂市にある湯ヶ峰で産出します。
岐阜県つまり美濃国は喪山があった場所です。
下呂石が貴重だった時代の記憶が、説話に繋がったと思われます。