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カモノオオミカミ物語  作者: 現代人が古代人にツッコんでみた
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土左国風土記より

『土左風土記』は、まとまった形では残っておらず、『釈日本紀』などに逸文として存在が認められるのみで成立年代は不明ですが、アヂの名前に「味」を使っている事から考えると、『紀』の後に書かれたのではないかと推察されます。

(『風土記』の元となる「解」作成の命令が出たのは713年ですが、『出雲国風土記』が完成したのは733年なので、『土左記』が『紀』の後でも不自然ではありません)

土左郡(とさのこほり)

郡家(こほりのみやけ)西(にしニ)(さルコト)四里(よさと)㊀、(あリ)土左高賀茂大社(とさのたかかものおほやしろ)㊀。(そノ)神名(みな)(なリ)一言主尊(ひとことぬしのみこと)㊀。(そノ)(みおや)()(つまひラカナラ)一說(あるつたへ)(いハク)大穴六道尊(おほあなむちのみことノ)(こノ)味鉏高彥根尊(あぢすきたかひこねのみことナリ)


意訳

土左郡

郡家を西に四里行ったところに、土左高賀茂大社がある。その祭神は一言主尊だが、親は明らかではない。ある伝えでは、大穴六道尊の子の味鉏高彦根尊となっている。


この『土左記』にはアヂの隠し子疑惑が書かれていますが、『出雲記』の息子たちと違い、一言主は有名処に顔を出しています。


『記』(712年)では、雄略天皇が葛城山に登った時、天皇一行と全く同じ姿の一行が現れ、互いに弓矢を構える一触即発の状態になったが、雄略が名を尋ねると、相手は「悪い事も良い事も一言で言い放つ、葛城の一言主大神だ」と名乗ったので、雄略は恐れ畏まって、自分の太刀や弓矢、家臣の服まで、一言主に献上し、一言主はそれらを受け取って、長谷山口まで見送った、とあります。


『紀』(720年)では、雄略が葛城山で狩りをした時、自分とそっくりの人物と出会い、雄略が「朕は幼武尊(わかたけるのみこと)だ」と名乗ると、相手は「私めは一言主神です」と答えたので、2人で狩りを楽しみ、日が暮れてから、一言主は雄略を久目川まで見送った、とあります。


『記』『紀』の内容は、細部が違っていて、一言主の地位の差が見られますが、大方は似通っています。

(ついでに、一言主と雄略が瓜二つだったというのは、アヂとアメノワカヒコの関係を彷彿とさせます)


一方、『続日本紀』(797年)では、称徳天皇の天平宝字8年(764年)に、法臣の円興(えんこう)(法王になった道鏡の腹心)や賀茂田守(かものたもり)(円興の弟)などが、「老人に化けた祖先神が雄略と狩りで争って怒りを買い、土佐に流された」と言ったので、称徳が田守を迎えに行かせ、高鴨神を葛城に再び鎮座させたとあるが、ただし、雄略が一言主を放逐したという話は『記』『紀』とは異なる、と記載され、ここでようやく土佐との繋がりが窺えます。


確かに、『新抄格勅符抄』(806年)には「高鴨神」53戸(大和:3戸・伊与:30戸=天平神護二年(766年)符、土佐:20戸=天平神護元年(765年)符)と書かれていて、『日本三代実録』(901年)の貞観元年(859年)叙勲でも高鴨神は正三位から従一位に昇進しています。

ところが、同じく、正三位勳二等の葛木一言主神が従二位に昇進しているのです。

(一言主は、嘉祥3年(850年)に正三位叙勲の記事もあります)

アヂが従一位になっているのは、前回記した通りです。

同一の神が2つの位を持つとは考えられないので、高鴨神は一言主でもアヂでもない事になります。


そこで『新抄格勅符抄』の記載を翻って読むと、765年に土佐に神封が与えられていますが、高鴨神は764年に土佐から大和に帰っているのに、なぜ故地に神封が必要なのか奇妙に感じます。


翌年の766年には、大和と共に伊予にも加増されていて、この伊予の分は『土左記』の「北山から出て伊予の国に至る神河(みわがは)は、水がきれいなので大神(おおみわ)の酒造りに使っている事より名付けられた」という話から分かるように、カモと同族とされるミワが縁で拝領したと推測できますが、これも大和に本拠を移したのに遠く離れた地の神封が一番多いのは不思議です。


そもそも、祖先神とした高鴨神の帰京を願った円興と田守は、神別地祇の賀茂朝臣一族の出なので、祖先神は大物主、もしくは、大国主の幸魂奇魂で、アヂや一言主とは直接繋がっていません。


ここで考えられるのは、円興や田守の地位と時代背景です。

円興は、称徳の時に権勢を振るった道鏡の子分で、ボスと同様に強大な力を持っていました。

円興田守一味は、『土左記』の土左高賀茂大社譚を根拠に、祖先神の高鴨神を作り出し(あるいは『記』の意富多多泥古に至るまでの三世の神々を元にして)、土佐や伊予の土地を手に入れたのでしょう。

大国主や大物主を素直に持ち出さなかったのは、さすがに、この二神は名が大きすぎて、利用するのに躊躇したと思われます。

『続日本紀』の執筆者も、その辺の事情を知っていたものの、天皇が許可した事柄なので、「『記』『紀』にはない話」とお茶を濁したようです。


その後、アヂに対して一言主や高鴨神が徐々に融合したり影響したりして、『日本三代実録』貞観元年叙勲や『神名帳』ではアヂの名前に「高鴨」と付けたり、一言主の託宣する神としての性格から「高彦」が「託彦(宅比古)」と変化したと言えます。


『神名帳』の頃には、高鴨神はアヂと完全に一緒になっていたと見られ、一言主は「葛木坐一言主神社 名神大 月次相嘗新嘗」とある一方、高鴨神専用の神社は消えています。

その結果、元々、奥田弁天神社の所にあったアヂの神社が、『神名帳』の頃までに現在の高鴨神社の場所へ移ってきたと推測できます。


では、なぜ、アヂがカモ族を代表する神になったのでしょうか?


第一には、『記』の大国主系譜で、アヂが子の筆頭に書かれているからだと考えられます。

厳密に言えば、系譜の前に八上比売と結婚して木俣神が生まれているものの、沼河比売との結婚譚と共に『紀』では全削除されているので、アヂが大国主の長男だと見なされたようです。


それは「迦毛之大御神」の尊称にもつながります。

この名は『記』だけにあり『紀』の時点では消えていますが、その短命さと重なり合うのが藤原京(694~710年)です。

『記』が完成したのは平城京への遷都後ですが、実際に執筆を進めていたのは藤原京の中でしょう。

藤原京は大和三山(天香具山・畝傍山・耳成山)に囲まれた、平城京や平安京よりも大きい、広々とした土地に造られた日本初の都城でした。

都城の建設予定地は、天皇家所持の分が充てられたと同時に、私有地も入っていたことが、天武5年(676年)の記事によって分かります。

この時の土地は、結局、都は作られず計画が放棄されますが、藤原京の場合も同じように公私共に利用されたと判断できます。

その中でも特に多く供出したのが、カモ族ではないでしょうか。

現在、藤原京の大極殿跡には「鴨公神社」と記された石碑や御神木が残っています。

持統5年(691年)や6年(692年)に地鎮祭を行っているのを見ると、これがその名残のようです。

用地提供のお礼や土地の守り神として、カモ族が信奉する神のうち、アヂが大御神という代表に選ばれたと思われます。

また、わずか16年で廃都になった藤原京に、鴨君足人(かものきみのたりひと)というカモ族の一員が訪れて、当地の鎮魂歌らしい歌(万葉集の257・258・259番)を捧げているのも興味深いです。


こんなふうに、大物主から始まって、大国主、アヂ、事代主、一言主などを取り込んだカモ族とは、一体どういう氏族なのでしょうか?


カモ族の始祖となった、『記』の意富多多泥古は河内の美努村で、『紀』の大田田根子は茅渟県の陶邑で探し出されたとあり、違いは見られますが、大雑把に大阪方面の出身だと考えて良いようです。

ただ、崇神の時に、この人物が三輪山の大物主を祀る事になるものの、それまで祭祀を行う者がいなかったというのは不可思議です。

大物主は大国主の説話に現れていますし、神武から崇神に至るまで都はずっと大和に置かれていますし、身近な三輪山が信仰の対象から外れていたとは思えません。

となると、意富多多泥古(大田田根子)の子孫というカモ族やミワ族は、元々三輪山を祀っていた集団に入り込んだ、もしくは乗っ取った、もしくは婚姻などで関係を結んだ、と推測されます。


その推測の根拠となるのが、秦氏です。

秦氏は渡来系だとほぼ確定されていますが、松尾山を神体とする松尾大社を建て、大山咋神を氏神としています。

山岳信仰は有史以前からの古い原始宗教ですので、秦氏が現地に入った時、信仰を受け継いだと判断できるでしょう。

秦氏と同じような由来が、カモ族やミワ族にも言えるのです。


大胆に想像をめぐらすと、秦氏と関係が深いカモ族やミワ族も渡来系だという可能性があります。

出雲系とされる神々を氏神とする割には、カモ族は出雲やその周辺の地域に足跡がありません。

却って、大阪周辺に縁となる神社が多く残っています。

阿遅速雄神社は、ずばりアヂが祭神で、その他、式内社だけでも鴨高田神社、三島鴨神社、鴨神社の存在が確認できます。


カモ族やミワ族の母体となった氏族は海を渡って大阪湾(茅渟の海)から上陸し、海のそばで力を蓄えた後に大和へ入って、古代葛城氏を平らげつつ、三輪山の祭祀を受け持つようになり、葛城の神々と共に、初めは大物主、次に大物主と同一視された大国主、そして、その息子たちを次々と氏神に仕立て上げたのでしょう。

土佐には鴨部鄉(かもべのさと)があったと『土左記』の断片が残されているように、カモ族の勢力が及んでいたので、葛城の一言主を分祀したのだと思います。

その前に、一言主はアヂの息子だという系譜が作られていて、この土左郡の記述に影響したと見られます。

余談ですが、「土佐大神」をアヂや一言主と同一視するという説があるものの、この三者は別々の神だと思われます。

天武朝の675年に「土佐大神から神刀を献上された」や686年に「土佐大神に奉幣した」と書かれていますし、例の貞観元年叙勲に「土佐国の都佐坐神(とさにますのかみ)を従五位下から従五位上に叙す」と書かれていますので、全部一緒と考えるのは無理があるでしょう。

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