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カモノオオミカミ物語  作者: 現代人が古代人にツッコんでみた
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出雲国風土記より其の弐

神門郡(かむどのこほり) 鹽冶郷(ゑむやのさと)

阿遅須枳高日子命御子(あぢすきたかひこのみこと)鹽冶毘古能命(ゑむやひこのみこと)(まス)(これニ)(かれ)(いフ)正屋(まさやト)㊀。((はじめ)(まさ)トアリ(ここ)(やむ)(つく)ル)〔神亀三年(じんきさんねん)(あらたム)(じヲ)鹽冶(ゑむやト)㊀。〕


意宇郡(おうのこほり) 賀茂神戸(かもかむべ)

所造天下(あめのしたつくらしし)大神命之御子(おおかみのみことのみこ)阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)(まス)葛城賀茂社(かつらぎのかものやしろニ)㊀。此神之(このかみの)御子戸(みこベナリ)(かれ)(イフ)(かもト)。〔神亀三年(じんきさんねん)(あらたム)(じヲ)賀茂(かもト)㊀。〕


意訳

神門郡 塩冶郷

阿遅須枳高日子命の子の塩冶毘古命が、ここに鎮座している。なので、正屋と言う。

(「正」となっているが「止」が妥当)

〔神亀3年(762年)、塩冶と改めた〕

※「初ニ正トアリ爰ニ止ニ作ル」の部分は、書写時に差し挟んだ註


意宇郡 賀茂神戸

所造天下大神(大国主)の子、阿遅須枳高日子命は葛城の賀茂社に鎮座している。ここは、その神の御子戸なので、鴨と言う。

〔神亀3年(762年)、賀茂と改めた〕


『出雲記』の残り2ヶ所を考察します。


神門郡には、楯縫郡と同じく、アヂの息子がいます。

多伎都比古命と共に、塩冶毘古命も『出雲記』固有の神で、どういう神なのか等々、まったく分かっていません。


多伎都比古は、宗像三女神の三女の多岐都比売命(たきつひめのみこと)(『記』)と関連がありそうです。

また、『記』ではアヂの母が長女の多紀理毘売命(たきりひめのみこと)ですから、その辺りにも結び付きが見られます。

難解な説話で内容は明確には理解できませんが、「雨の時」といった言葉が出てくるので、神名と併せて水関係だという事は朧気ながら感じられます。


一方、塩冶毘古は、母も不明ですし説話もないので想像に限界があります。

その名前にちなんだという地名は、「正屋」なのか「止屋」なのか、神名は「塩冶」なのに全然違う「正屋」や「止屋」は奇妙ではないか、地名が結局「塩冶」になったのは元々「塩冶」だったのが訛って「止屋」と言っていたので戻したのだ、といった議論が色々ありますが、前回の高岸郷でも分かるように、地名は説話に出てきた名詞と全く一緒という訳ではないので、ここでも「や」が共通しているぐらいで充分と考えて良いでしょう。

「塩冶」という名前からは、塩の精製関係かなと推測できる程度です。


意宇郡は今までと毛並みが違って、『出雲記』執筆当時(733年)の法制が載っています。

「神戸」とは、神社の維持管理のため用意された人員で、そこからの税が神社の収入源となっていました。

つまり、ここはアヂを祀る葛城の賀茂神社に奉仕する人々が住む場所という訳です。

では、その「葛城の賀茂社」とは、一体、どういう神社なのでしょうか。


神社の封戸(ふこ)つまり神封(じんぷ)(神戸とほぼ同じ)などを記した『新抄格勅符抄』(806年)では、出雲に神封がある「賀茂」または「鴨」が付く神社は、

「鴨神」84戸(大和:38戸、伯耆:18戸、出雲:28戸)

が該当します。


他の所在地が確かな神社が地元に神封を多く持っているところを見ると、「鴨神」は大和に多くの神封があるので、葛城が倭の地名なのは十中八九間違いないでしょう。

葛城は、律令制下では大和国葛上郡・葛下郡・忍海郡の地域で、現在では奈良県御所市・大和高田市・香芝市・葛城市・北葛城郡の一部に当たります。

また、『新抄格勅符抄』では、神封を加増した神社は、その年も記載してあり、一番古い年が天平3年(731年)なので、加増の記載がない「鴨神」の分は、それより古い時代に決まった神封だと分かります。


『新抄格勅符抄』より少し後の『神賀詞』にも、「倭国では阿遅須伎高孫根命の御魂が葛木の鴨の神奈備に鎮座する」と記され、倭国=大和国、葛城=葛木なので、「葛城の賀茂社」の存在が裏付けされます。


そして、『日本三代実録』(901年)には、貞観元年(859年)正月27日甲申に位を与えられた神を列記していますが、大和国の中に「従二位・勳八等の高鴨阿治須岐宅比古尼神を従一位に叙す」と載っています。


さらに、『神名帳』(905年着手、927年完成)の大和国葛上郡には、「高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」と載っています。


ただ、これらが、現在、全国のカモ系神社の総本社と称している奈良県御所市鴨神の高鴨神社に直接つながっているかというと、熟考する必要がありそうです。


御所市に合併する直前の住所は南葛城郡葛上村大字鴨神小字捨篠で、『先代旧事本紀』(807年以降868年以前に成立)に記された「味鉏高彥根神は倭国葛上郡にある高鴨社または捨篠社に鎮座する」という一文に合致しますが、地名は後世に付けられた可能性もあります。

現に、大和高田市には「捨篠池」というアヂの伝説が残っている場所があり、隣に建てられた「奥田弁天神社」は別名を「捨篠神社」と伝えられています。


併せて、『日本三代実録』の「高鴨阿治須岐宅比古尼神」や『神名帳』の「高鴨阿治須岐託彦根命」というふうに、アジの名前に「高鴨」と付いたり、「高彦」が「託彦(宅比古)」と変化しているのも気になります。


そもそも、なぜアヂが「鴨」なんでしょうか?


「迦毛大御神」の説明時にも少し触れましたが、「鴨」は古代史族の「カモ」が関係していると考えられています。


「カモ族」で有名なのは、崇神朝に登場する「意富多多泥古(おほたたねこ)」(『記』)「大田田根子(おほたたねこ)」(『紀』)の子孫でしょう。

疫病が流行した時に、三輪山の大物主神を祀るために大阪方面から見出された末裔で、神君(みわのきみ)鴨君(かものきみ)の祖となったと言います。


ところが、『紀』が紹介する一書では、大物主を大国主の別名とし、その理由として、大国主の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)を三諸山(三輪山)に鎮座させたからだと説明があり、甘茂君(かものきみ)大三輪君(おおみわのきみ)(鴨君と神君に同じ)が子孫になっています。


この後、伝承の本流でも大物主と大国主を同一視する動きが進んで、古代氏族の名鑑である『新撰姓氏録』(815年)にも「大和国、神別地祇、賀茂朝臣(あそん):大国主神の後裔で大田田祢古命の孫の大賀茂都美命(おほかもつみのみこと)(またの名は大賀茂足尼(おほかものすくね))が賀茂神社を奉斎した」という記載があります。

※鴨君は大三輪君と共に、天武13年(684年)11月に「朝臣」の(かばね)をもらっています。


御所市宮前町にある鴨都波神社(かもつばじんじゃ)は、大賀茂都美が創建したと伝えられていますが、主祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)(大国主の息子)とアヂの妹の下照姫なのです。

つまり、鴨都波神社の社伝では、『新撰姓氏録』の大賀茂都美が奉斎した賀茂神社とは当社だ、という訳です。


カモ族と事代主の関係を考えると、神武の皇后の事が思い起こされます。

『記』は、神武の皇后の富登(ほと)多多良伊須須岐比売命(たたらいすすきひめのみこと)(改名して比売(ひめ)多多良伊須気余理比売(たたらすけよりひめ))を大物主の娘としています。

しかし、『紀』は、一書では、甘茂君や大三輪君の先祖にもなった、大国主の幸魂奇魂である大物主の娘の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)としていますが、同時に五十鈴姫は事代主の娘とも伝えられているとし、本編でも、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)は事代主の娘としているのです。


かなり混沌としてきましたが、さらに混沌は続きます。


『新撰姓氏録』には、山城国の神別天神として「鴨県主(賀茂県主)」という氏族も載せています。

その始祖は、神武の道案内をするために八咫烏に化けた、神魂命(かみむすびのみこと)の孫の鴨建津之身命(かもたけつのみのみこと)という紹介があります。

この鴨建津之身命とはすなわち賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、京都市左京区にある賀茂御祖神社(下鴨神社)の主祭神なのは有名なところです。

その娘の玉依姫命(たまよりひめのみこと)も同じく主祭神で、火雷神(ほのいかつちのかみ)との間の息子が上賀茂神社の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)となっています。


『山城国風土記』には、玉依姫が矢(火雷神が化けた姿)を持ち帰った夜に妊娠したという話が載っていて、この説話は『記』にある富登多多良伊須須岐比売の誕生譚と瓜二つなのです。

もっとも、伊須須岐比売の話は『紀』では省かれているので、この比売の説話ではないと判断したようですが。


その丹塗矢伝説の前に『山城記』では、建角身が大和の葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、賀茂川を上って久我国の山基に鎮座したという話が記されています。

ここから考えると、祖先が違うとしていながらも、どうやら、山城の鴨県主も、大和の賀茂朝臣と同族と言えるでしょう。


話は戻って丹塗矢伝説ですが、朝廷の年中行事について書かれた『本朝月令』(10世紀前半)が引用している『秦氏本系帳』に、秦氏の娘と松尾大明神を登場人物にした、これまたそっくりな話が載っています。

松尾大明神とは、『記』に大山咋神(おほやまくひのかみ)(またの名は、山末之大主神(やますえのおほぬしのかみ))とされた松尾大社の主祭神です。


それを受けてか、三輪氏(神君、大三輪朝臣)の系譜である『三輪高宮家系』には、「味鉏高日子根命:またの名は大山咋神、山末之大主神」となっています。

(ようやく、アヂが登場しました)

さらに、松尾坐神や日枝坐神(同じく大山咋神を祀る日吉大社)でもある、としているのは分かりますが、賀茂別雷も同神である、というのは奇妙です。

そこは、火雷神なんではないでしょうか。

ただ、中世の御伽草子を元にした本地物(日本の神をみんな仏教の仏に置き換えた物語群)の『賀茂之本地』(江戸初期)にも、アヂが地上に現れた姿が別雷と書かれているので、そういう説が流布していたのだと思います。

ちなみに、この本ではアヂはお釈迦様になっています。


ともかく、混沌を通り超して、もうグチャグチャです。


もう1つ付け加えると、『新撰姓氏録』には「左京皇別の鴨県主」「摂津国皇別の鴨君」という氏族がいて、彦坐命(ひこいますのみこ)の後裔と記されています。

彦坐命は開化天皇の息子で、沙本毘売命(さほひめのみこと)の父です。

そう、沙本毘売は、前回触れた、口の利けない本牟智和気命の母(狭穂姫命『紀』)で、垂仁の皇后の事です。


その兄の沙本毘古王(さほひこのみこ)(狭穂彦王『紀』)が、妹を巻き込んで謀反を起こしたのですが、この人物が「摂津国皇別の鴨君」の直接の先祖と推測されます。

(正確には、沙本毘古は日下部連の祖と『記』にあり、『新撰姓氏録』にも「河内国皇別の日下部連は彦坐命の子の狭穂彦命の後なり」と記載されていますが、どうも「皇別の日下部」という氏族は全て沙本毘古の末裔らしく、「摂津国皇別の日下部宿祢」も彦坐命の子孫としか書いていないものの、沙本毘古から出たと考えて良いでしょう。その「日下部宿祢」と祖先が同じとしているのが「摂津国皇別の鴨君」です)


また、「左京皇別の鴨県主」のほうは「左京皇別の治田連」と同祖で、「治田連」は沙本毘古と沙本毘売の同母兄弟の袁邪本王(おざほのみこ)の後裔(近淡海蚊野之別(ちかつあふみのかやのわけ))としているので、これも繋がりがあります。


以上のように、カモ、ミワ、それにハタも入り混じって、訳の分からない状態になっています。

これこそが、各氏族とも手当たり次第に既存の神々を取り込んだ証拠と言えるでしょう。


アヂがそこらじゅうに顔を出す原因はカモ族にあると考えられますが、最初からカモ族の神だった訳ではなく、出雲系とその周辺の神繋がりで、信仰の対象となったと思われます。

従って、カモ族にまつわるアヂの伝承は、本来の姿ではない可能性が高いです。

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