出雲国風土記より其の壱
『出雲記』は、述語+目的語という正統な漢文に、目的語+述語という日本語的な文章が混じっていたり、内容も難解なので、古くから注釈や改変が満遍なく施されていますが、ここでは伝えられた原型を比較的留めている「白井文庫本」(1728年書写)を元にしました。
その分、書き誤りが多いため、できる限り原文に忠実に読み下しをする一方、どうしても意味が通らない場合は、既存の注釈などを参考に修正しました。
ただ、細部は一般的な説と違っているものの、話の骨子はあまり変わりません。
神門郡 高岸郷
所造天下大神御子、阿遲須枳高日子命、甚晝夜哭唑。其所高屋造、可㋹唑㋹之。即建㊁高椅㊀、可㊁登降養奉㊀。故、云㊁高岸㊀。〔神亀三年、改㊁字高峯㊀。〕
仁多郡 三津郷
大神大穴持命御子、阿遲須伎高日子命、御鬚髮、八‐握㊁于㊀㋹生、昼夜哭唑之、辞不㋹通。尒時、御祖命御子、乘㋹船而、卒巡㊁八十嶋㊀宇良加志給鞆、猶不㋹止㋹哭之。
大神夢願給「告㊁御子之哭由、夢見時㊀」願唑。則夜夢見唑之、御子辞通。則寤問給。尒時、「御津」申。尒時、「何處然云」問給。即御祖前立去捨唑而、石川度坂上至留、申㊁「是処也」㊀。尒時、其津水治於而、御身沐浴唑。故、国造、神吉事奏參向㊁朝廷㊀時、其水活出而、用初也。依㋹此、今、産婦、彼村稻不㋹食。若有㋹食者所、生子已云也。故、云㊁三津㊀。〔神亀三年、改㊁字三澤㊀。〕
楯縫郡 神名樋山
古老傳云。阿遲須枳高日子命之后、天御梶日女命、來‐唑㊁多忠村㊀、産‐給㊁多伎都比古命㊀。尒時、教詔、「汝命之御祖之㊁向位㊀、欲㋹生。此處宜也。」所謂石捕者、即是㊁多伎都比古命之御佗㊀、當畢巳㊀、雨時必令㋹零也。
意訳
神門郡 高岸郷
所造天下大神(大国主)の子、阿遅須枳高日子命は1日中酷く泣きっ放しだった。そこに高屋を建てて、高橋を造って、上ったり下りたりしながら育てなければならなかった。なので、ここを高岸と名付けた。
〔神亀3年(762年)、高岸を高峰と改めた〕
仁多郡 三津郷
大穴持命(大国主)の子、阿遅須伎高日子命は生まれてから髭や髪が長くなっても、1日中泣いて、言葉が話せなかったので、父と子は舟に乗って、島々を高速で巡って驚かしたが、まだ泣き止まなかった。
父が「泣く理由を夢で告げろ」と願うと、その夜、夢の中で息子と言葉が通じた。目が覚めて息子に問いかけたら、「御津」と答えたため、「どこの事だ」と聞いた途端、息子は父の前から立ち去って、石川を渡り坂上に来て立ち止まり、「ここです」と答えた。すると、渡し場の流れがなくなったので、そこで沐浴した。
その後、国造が神吉事を朝廷に奏上しに行く時に、その水が勢いよく流れ出したため、渡し場を使い始めた。
現在、妊婦がその村の米を食べないのは、食べると生まれた子が産後すぐに口を利くからだ。なので、ここを三津と名付けた。
〔神亀3年(762年)、三津を三沢と改めた〕
楯縫郡 神名樋山
古老が伝えている事:阿遅須枳高日子命の妻の天御梶日女命が多忠村に来て、多伎都比古命を産んだ。その時、「向位に行って、産もうと思った。ここは良い所だ」と教えた。いわゆる石捕は、多伎都比古命の別邸で、畢星の南南東に当たり、雨が降る時は必ず、水があふれ出る。
『出雲記』にはアヂは5ヶ所に登場しますが、まず、関連が深い3ヶ所を先に考察します。
ここでは、アヂの名前は「阿遅須伎高日子命」と「阿遅須枳高日子命」の2種類ありますが、万葉仮名の「伎」と「枳」は同じ甲類の「き」なので、どちらでも一緒と言えるでしょう。
また、『記』『紀』で当てはめた漢字は使わず、伝えられた音のままを著していて、「あぢすき」が何を指すのか分からない状態に戻っています。
さらに、「神」から「命」に変わっていますが、『紀』に「命」は「尊」よりも下位と書かれていますので、2ランクダウンのようです。
次に神話の内容を見ていきますと、神門郡と仁多郡はかなり離れていますが、それぞれで伝えられている話は一連の流れの中にあると考えられます。
神門郡の神話は、上り下りするところから日の出と日没を意味しているとか、大国主のために建てた大きな社が関係しているなどの説があります。
はたまた、赤ちゃんを抱っこして歩くと泣き止むという「輸送反応」を表しているのかもしれません。
真相は闇の中ですが、「高岸」「高屋」「高椅」と「高」が多数使われている事から、「高日子」という名前を思い付いたのでしょう。
ついでに、「神門」は、アヂが持っていた「神度剣」(『記』)「神戸剣」(『紀』)に関連していそうです。
仁多郡の神話に出てくる「髭が長くなっても泣き止まない」という話は、『記』の建速須佐之男命(『紀』の素戔嗚尊)が冥界の母に会いたいと言って泣く話を彷彿とさせます。
(ところで、『記』では須佐之男は伊邪那伎命単独で産んだため伊邪那美命を知らないはずですが、『紀』には伊弉諾尊と伊弉冉尊が素戔嗚を産むという異伝がありますので、そこの辺りの説話を切り貼りした結果だと思います)
仁多郡では、アヂは泣き止まないどころか一言も喋らないので、親は色々と骨折ります。
とうとう、大国主は夢占いに頼りますが、神が夢のお告げを願うというのが奇妙です。
加えて、結局、アヂが言葉を言えない理由が分かっていません。
ともあれ、アヂは話せるようになり、川の流れを止めるという神通力を発揮するものの、朝廷が関与する段になって、その力は薄れます。
こういった話は『常陸記』にもあり、天皇の威光が地方の邪神や妖怪を圧倒して抑え込んだと喧伝しています。
最後に、妊婦が米を食べない因縁を述べて説話が終わりますが、どうも内容がバラバラで、いくつかの言い伝えを引っ付けた感じがします。
整理すると、
1.泣き止まないアヂ
2.夢のお告げで話せるようになる
3.天皇の威光で使えるようになった渡し場
4.妊婦が米を食べない因縁
の4つの部分に分けられるでしょう。
この内、1と2は、『記』に出てくる垂仁天皇と息子の本牟智和気命(系譜談の中では本牟都和気命)との話にそっくりです。
口の利けない息子を池に舟を浮かべて遊ばせても効果がなく、鵠の声を聞いた時に片言話したので、その鵠を捕まえたが完璧に話せるまでにはならず、垂仁が夢占いをすると大国主が自分の社を修繕したら口が利けるようになると告げて、それに従ったら話せるようになったとあります。
『紀』にも同様の話が書かれていますが、誉津別命は捕まえた鵠と遊んだだけで喋られるようになって、舟遊びと夢のお告げの部分がありません。
『紀』は登場人物と関連が薄い説話をバッサリ省く傾向にあるので、舟遊びと夢のお告げは誉津別と結び付きが少ないと判断したのでしょう。
そして、この舟遊びと夢のお告げの話こそが、アヂの話と似通っている部分です。
ちなみに、鵠は現代で言うところの白鳥で、ここの鵠もそう解釈しているものが多いですが、鵠はコウノトリを指す場合もあります。
ところが、コウノトリは成鳥になると鳴かなくなるのです。
だったら、ここの鵠は白鳥で決まりだ、となりそうですが、逆に、コウノトリが皇子の声を奪って鳴いていたのを捕まえて、声を取り戻したと考えると、神話的で面白いのではないでしょうか。
楯縫郡の神話では、『記』『紀』に出てきた母と妹の代わりに、妻と息子が登場します。
天御梶日女命は、『出雲記』に出てくる天瓺津日女命と同神と思われますが、天瓺津の夫はアヂではなく、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(他所では、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命)なのです。
すると、アヂと赤衾は同神という事になりますが、赤衾の父は意美豆努命という『出雲記』では国引き神話で有名な神になっています。
また、意美豆努は、『記』に載る淤美豆奴神と同神とされ、大国主の祖父に当たります。
何だか系譜がグルグル回っていますが、近い関係の神々を手当たり次第に結び付けた結果、このような複雑な繋がりになってしまったと思われます。
ただ、その中で天御梶=天瓺津は確実でしょう。
というのも『尾張記』にまた、垂仁と口の利けない品津別皇子が登場して、皇后の夢に阿麻乃弥加都比女が現れ、自分の祭祀を執り行えば皇子は話せるようになるだろうと告げるのです。
品津別と同じ説話を持つアヂに関りが深いことが見て取れます。
さらに、女神を祭る社を決めるために、美濃から榊の縵を投げたというのも興味深い点です。
アヂが切り倒した喪屋が落ちて喪山になったのも、美濃でした。
『紀』が大国主のお告げを削除したのは、登場人物を除いて、『尾張記』のほうが正当だと考えたからだと感じます。
なぜ、「登場人物を除いて」なのか言うと、品津別の母である皇后の狭穂姫は、品津別が3歳の時に反逆罪で殺されているのです。
10年後、別の皇后を立てますが、『尾張記』では品津別が7歳の時の話という事にしていて計算が合わないので、天皇家とは関係ない古代王家の伝説が元になっていると推測できます。
翻って、アヂのほうも、大国主の夢占いを始め、渡し場の怪談や妊婦の因縁は後からの付け足しで、「舟で島々を巡る」という部分だけが元々持っていた話でしょう。
ところで、本牟都和気命(本牟智和気命、誉津別命、品津別皇子)が話せるようになって、その後の彼の事は『記』も『紀』も『尾張記』も伝えていません。
よくある、どこそこの豪族の祖先になったという記述もないのです。
時代を下って、仲哀天皇と神功皇后の間に品陀和気命(『記』)誉田別尊(『紀』)という息子が生まれます。
後の応神天皇ですが、名前が似ているだけでなく、神功が息子の出産時期を後らしたとか、越前の角鹿気比大神と名前を交換したなど、不思議なエピソードの持ち主です。
さらに、『上宮記』という推古天皇が在位した辺り(554~628年)に書かれたと推測されている書物の系譜では、応神を凡牟都和希王と載せています。
これらを考えると、どうやら、応神は本牟都和気命と同一人物のようです。
その応神の五世の孫、母方では垂仁の八世の孫が、越前から迎えられた継体天皇になっています。