日本書紀の葦原中国平定より其の弐
時、天稚彥之妻子、從㋹天降來、將㋹柩上去而、於㋹天作㊁喪屋㊀、殯哭㋹之。先㋹是、天稚彥與味耜高彥根神、友善。故、味耜高彥根神、登㋹天、弔㋹喪、大臨焉。時此神形貎、自與㊁天稚彥㊀恰然相似。故、天稚彥妻子等見而、喜㋹之、曰「吾君猶在。」則攀‐持㊁衣帶㊀。不㋹可㊁排離㊀、時味耜高彥根神忿曰「朋友喪亡。故、吾卽來弔。如何誤㊁死人於我㊀耶。」乃拔㊁十握劒㊀、斫‐倒㊁喪屋㊀。其屋墮而成㋹山。此則美濃國喪山是也。世人惡㊦以㊁死者㊀誤㊤㋹己、此其緣也。時、味耜高彥根神、光儀華艶、映㊁于二丘二谷之間㊀。故、喪會者歌㋹之曰、或云、味耜高彥根神之妹、下照媛、欲㋹令㊦衆人知㊥映㊁丘谷㊀者是味耜高彥根神㊤。故、歌㋹之曰、
阿妹奈屢夜 乙登多奈婆多廼 汚奈餓勢屢 多磨廼彌素磨屢廼 阿奈陀磨波夜 彌多爾 輔柁和柁邏須 阿泥素企多伽避顧禰
(天なるや 弟棚機の 頂がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彥根)
又歌㋹之曰、
阿磨佐箇屢 避奈菟謎廼 以和多邏素西渡 以嗣箇播箇柁輔智 箇多輔智爾 阿彌播利和柁嗣 妹慮豫嗣爾 豫嗣豫利據禰 以嗣箇播箇柁輔智
(天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵)
此兩首歌辭、今號㊁夷曲㊀。
意訳
天稚彦の妻子が天から下り、棺を天に上げて、喪屋を作り、殯を行った。天稚彦と味耜高彦根神は以前から親友だったので、味耜高彦根神が天に来て弔ったが、この神の容貌が天稚彦とそっくりなのを天稚彦の妻子達が見て「わが君は生きていた」と喜んで、衣や帯を引っ張った。味耜高彦根神は押し退ける事が出来ず、「友が亡くなったので弔いに来たのに、故人と間違うとは何事か」と怒って、十握の剣を抜いて喪屋を切り倒した。その喪屋が天から落ちて、美濃の喪山となった。世間で生人を死人に間違うのを忌むのは、ここから来ている。
味耜高彦根神は2つの丘の2つの谷に照り輝くほど立派で優美な姿だったので、葬儀に集まった者は歌った。あるいは、味耜高彦根神の妹の下照媛が皆に神の事を知らせようと思って、歌った。
「天にいる若い機織り娘が首に掛けた首飾りの玉よ。その輝きと同じく2つの谷の間を照らす味耜高彦根神」
また、続けて歌った。
「天を離れた夷つ女が川瀬を渡って、石川の淵に網を張る。その張った網目に寄ってきて、集まってほしい。石川の淵よ」
この2首の歌は今は夷曲と呼んでいる。
前回の『紀』、前々回の『記』と同じ場面で、『紀』の別書が伝える話です。
ここでは、アヂは下照の兄だと明記されています。
一方、下照は天稚彦の妻だと記載されていません。
ただ、天稚彦は国つ神(大国主など下界の神々)の娘をいっぱい娶ったと前の段に記されているので、その中に下照も含まれている可能性もありますが、そもそも下照やアヂが大国主の子供かどうかは不明です。
そして、前回の『紀』その壱にはなかった夷曲が付いています。
1首目は『記』に類するアヂ用の替え歌で、2首目は原形を留めたものです。
替え歌のほうは元歌を意識するのも半ば捨てて、「御統に」という繰り返しがなく、神名も「味耜高彦根神」のままになっています。
なお、文中のアヂの姿の描写から考えると、「み谷 二渡す」は「谷を照り輝かせる」と『紀』の作者は解釈したようです。
しかし、2首目の内容から察するに、これらの夷曲は、1首目は男が女を褒めて気を惹き、2首目は女が男の誘いに応じる相聞歌だったと言えるでしょう。
2つの歌を見比べてみると、その相似性が分かります。
あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに
あなだまはや みたにふたわたらす あぢしきたかひこね のかみぞや
あまさかる ひなつめの いわたらすせと いしかはかたふち かたふちに
あみはりわたし めろよしに よしよりきね いしかはかたふち
「たかひこね」の「ね」は、「よしよりきね」に合わせた感じがしますので、下照と兄妹という事を標榜させる「たかひこ」も省くと、アヂの本来の名前は「あぢすきのかみ」なのかもしれません。